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鬼怪神  作者: K1.M-Waki
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山越え(2)

 鬼村(きむら)によると、この近くに温泉が在ると云う。神社の附属施設だが、山小屋よりはよっぽどましだろう。


 辺境に隠されたその神社は、『此泉坐天御魂神社このいずみにいますあめのみたまじんじゃ』。祭神は、建速須佐之男命たけはやすさのおのみこと高御産巣日神(たかみむすびのかみ)。そして、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)

 宇摩志麻遅(うましまじ)は、物部氏(もののべし)の始祖で、石見国(いわみのくに)一宮である物部神社(もののべじんじゃ)の主祭神である。

 数年に一度、密かに祭事を執り行う以外は、無人の(やしろ)だと云う。


「どのくらい離れている?」

 虫取り屋が、神社=温泉までの距離を訊くと、

「すぐそこです。だいたい、三十キロくらい」

 と、皇宮護衛官(こうぐうごえいかん)は素知らぬ顔で応えた。


──三十キロメートル!


 フルマラソンが約四十二キロメートル強。男性の平均タイムが、四時間三十六分程だという。のんびり歩いていたら──いや走っても半日はかかるだろう。しかも、山の中の道なき道である。


「そうか。……すぐそこ(・・・・)だな」

「でしょ。すぐ近く(・・・・)に在って助かりましたよ」


 この男達にとっては、徒歩で三十キロの距離も『すぐ(そば)』というのか……。

 しかも、虫取り屋は、両腕に理沙を抱えている。更に、現在位置は、山と茶色く枯れた野原ばかりの荒野の真ん中である。この寒い季節、日の暮れるのは早い。昼食を摂ったばかりの時間とは言え、徒歩で行軍すれば、到着する頃には日が暮れているのに違いない。


「さて、ボチボチ出発しますか」


 手ぶらの皇宮護衛官は、ちょっと買い物にでも出掛けるような調子で、虫取り屋に声をかけた。

「…………」

 それに対して、少女を抱いた帽子の男は、軽く頷いただけだった。

 それで全てを了解したのか、彼等は、未だ燃え盛る列車の残骸を見向きもせず、その場を後にした。


 そして、一時間ほど経った頃、二人は常緑樹の生い茂る奥深い山の中を歩いていた。


 先を行く鬼村は、この寒い中、肩から素肌がむき出しになったままの両手を、無造作にズボンのポケットに突っ込んだまま、飄々と歩みを進めていた。いつまた鬼達が襲ってくるかも知れない状況で、これはあまりにも無防備ではないか。肝心の両腕を封じた状態で、不測の事態にどう対応する気なのだろう。

 一方の虫取り屋は、背広の男から約二メートル後方を、全く同じ速度で着いて歩いていた。理沙を抱いたその両手は、鬼村と同様に封じられていると言える。彼の顔は、先を歩く皇宮護衛官の後頭部を向いていたが、その眼は腐った魚のようで、何モノにも焦点を合わしているようには見えなかった。


 樹々が連なる周囲の景色が「あっ」と言う間に後方に流れて行く様から、彼等の歩む速度は、『歩く』と言うにはあまりにも高速である事が分かる。マラソンや駅伝のランナーですら凌駕するスピードだった。

 一時間以上も、そんな早さで移動しているにも拘わらず、鬼村は汗の一滴もかいていなかった。

 そんな彼にピッタリと着いて来る虫取り屋にしても、平気なように見える。腕に抱きかかえているのは十代の少女とは言え、四十キログラム弱はあるだろう。そんな大荷物を胸前に抱いているのに、彼は、半歩たりとも鬼村に遅れる事はなかった。その無表情な顔にも、当然のように湿り気などは微塵も存在しなかった。


 傍から見ればそんな異様なパーティーに、山の鳥や動物達はどう感じているのだろう。

 その野生の本能で、彼等を恐れ、忌み嫌い、樹々の上や梢の影から警戒しているに違いない。


──本当にそうだろうか?


 今、鬼村の歩く直前に灰色の塊が飛び出して来た。ふわふわとした毛並みと長い耳を持つソレは、野ウサギだろうか?

 誰もが、この哀れな小動物が、暴走する男達に踏み潰される事を想像するだろう。

 だが、背広の男は亡霊(ゴースト)が壁をすり抜けるように、或いは、トンネル効果を起こす極小の量子(りょうし)のように、眼前に立ち竦む野ウサギに干渉すること無く通り過ぎたのだ。勿論、後に続く虫取り屋とて同様であった。

 取り残された野ウサギはと言えば、自分のすぐ側を驚異的な戦闘体が通った事に全く関心が無いように、後ろ足で耳の後ろをしきりに掻いていた。

 そう言えば、山の小動物達は、まるで警戒をする事も無く、普段どおりに木の実や草を()んでいるではないか。それを襲う肉食獣や猛禽類とて、強敵の存在に気付く事もなく獲物を捜していた。

 いや、それ以前に虫取り屋達は、立ち枯れた草や道をふさぐ灌木の枝を揺らすどころか、<カサリ>という音すらたてずに進んでいたのだ。

 これでは、存在の気配すら感じる事は出来ない。


 隠形(おんぎょう)の術──いや、これはそんな術を遥かに超えたものだ。


 物陰に隠れ、動作を止め、息を潜め、雑念を払って意識を深く沈め、闘気や殺気はおろか全ての気配を断つ。そうまでして初めて隠形の術は完成する。そして、その秘技により、敵はこちらの居場所を特定出来なくなる。


 だが、鬼村と虫取り屋がやっている事は次元が違った。

 猛スピードで移動しながらも、己の存在は大気の如く、山野を吹く風の如くにする。相手が無害にすり抜ける風であれば、天敵に敏感なか弱く小さな野生の被捕食者の自己保存本能が感知する事は無いだろう。


 だが、そんなモノ達が、もし闇に紛れて牙を剥いたとしたら……。


 ソレは、恐るべき暗殺者となるだろう。絶対に敵にしたくは無い相手だ。


「これからは、勾配がきつくなります。着いてこれますか」

 不意に、前を歩む鬼村が声を発した。

 出発する時には、彼はスマホを懐に仕舞っていた。温泉=神社までの道程は完全に記憶しているのだろう。彼は両手をズボンのポケットにずっと突っ込んだまま、脇目も振らずに、ここまで山野を抜けて来た。しかし、ランドマークになるようなものはおろか、標識も立て看板すら無い道なき道を、コンパスもGPSも無しに、如何にして目的地まで辿り着こうというのか。

 しかも、空は曇天。時刻と太陽光線の方向から現在位置を割り出そうにも、肝心の腕時計を見る事を鬼村は忘れている。この男には、誰もが必要とするそんな道具など無くても、正確に自分の位置とその行き着く先を把握出来ているとでも云うのだろうか。

 着いて来る虫取り屋にしても、自分達の道行きに何の心配もしていないのか、無表情のままであった。ただ、鬼村が問い掛けた際に、彼はコクリと頷いたかのように見えた。しかし、それも一瞬の事。前を行く皇宮護衛官は、振り返る事も無かった。

 たったそれだけの事で全てを察したのか、背広の男は体勢を崩すこともなく、更に傾斜角度を増した山の中を歩いて──いや疾走していた。続く虫取り屋とて、何の気にした様子もなく、風のように鬼村の後を着いて行った。

 黒いコートの胸前に抱かれた理沙の頬には、未だ冷たい冬の風が吹き付けている。風に彼女の柔らかそうな黒髪が流れている。いや、それは、虫取り屋が大気を切り裂いて歩む際の空気の流れだ。意識を失ったままの少女の頬は、冷気に曝されてほんのりと赤く染まっていた。その愛くるしさを見れば、誰もが手を触れたくなるだろう。が、ひたすら山中を歩き続ける彼には、それすら眼中に無いのだろうか。虫取り屋の眼は、ずっと前を向いていただけだ。


 そう、前を向いていただけ。


 時空の修正(デバッグ)さえ出来れば、それ以外の事には本当に無関心なのだろう。虫取り屋の腐った魚のような死んだ目は、鬼村の歩く更にその先に待っている目的地を見つめているのかも知れない。


 二人が歩き出してから、そろそろ二時間は経とうとしていた。

 前を歩く鬼村(きむら)が鼻をひくつかせた。空気に僅かながら、異なる分子が混じり始めた事に彼は気が付いていた。


──硫化物,亜硫酸化合物,一酸化炭素,硫化カルボニル、そしてそれらを含んだ蒸気。更にはオゾンと、それの発生原因となったであろうラドン|(Rn)。


 どれも、火山性のガスに含まれている成分だ。目的地が近いのだろう。

 それは、虫取り屋も同様であった。

「後、五キロ程か……」

 それは鬼村に問い掛けたものだろうが、か細く低いその声は、風鳴りに掻き消されそうで、とても前を歩く男の耳に届いているようには思えない。

「まぁ、そんなところですか。日が暮れる前に着きそうで良かったですね」

 驚いた事に、虫取り屋の微かな声を、この皇宮護衛官は聞き取っていた。そして、如何にして目的地までの距離を推定したのか、彼等の指摘通りに程なく硫化水素の匂いが『普通の人間』の嗅覚でも感じられるようになった。地形の変化や時刻の所為で、風向きが変わったことも大きい。温泉=神社は、すぐそこである。


 果たして数分後、彼等の前に、もうもうたる火山性ガスを含んだ水蒸気に包まれた、家屋らしきモノが見え始めた。

 白い湯気に見え隠れするのは、茶褐色の鳥居,幾つかの石碑,その向こうには小さく簡素な社殿。そして、それらを外界から隔てるように囲む常緑の生け垣だった。更に、ソレを覆うように作られた、薄緑色の高いフェンスが、建物を護っていた。


「着きましたねぇ」

「着いたな……」


 鬼村と、理沙を抱いた虫取り屋は、木製と見える質素な鳥居を正面に見ていた。後付で作られたフェンスの入口には、真鍮の大きな錠前が黄銅色に鈍く光っていた。そこここに立つ高いポールの先には、監視カメラと思しき物体が取り付けられてある。

「カメラと監視衛星は押さえた。警報装置もな。鍵の方はどうする?」

 虫取り屋の静かな声が、シンとした山中に響いた。

「う〜ん、そこまでしてもらえれば、簡単に開くと思ってたんですがね」

 ここで、鬼村は初めてポケットから左手を引っこ抜くと、頭の後ろをポリポリと掻いていた。目的地を目の前にして、何を悩む必要があるのだろうか。


「呪力結界が張ってあるな」

 虫取り屋の指摘に、

「ええ。ちょっとだけ、厄介……かな」

 と、鬼村が困ったように応えた。


──呪力結界


 結界にも様々なモノがある。元々は聖なるものと俗なるものとを区切り、分離した空間を指した。大和言葉(やまとことば)でいう端境(はざかい)のように、神域を禁足地として外界と区切ったのである。

 しかし、今この眼の前にあるモノは少し違った。

 神域の、もしくは強力な術者の力を収束して、神社全体をすっぽりと覆い隠している。この二人でなければ、『この地』を発見する事も叶わなかっただろう。

 その上、錠前以上に力強く扉を閉ざしている。鬼村の腕力を持ってしても、フェンスの扉を開く事はおろか、鍵を外す事すら出来ない程であった。しかも、力づく、もしくは同等以上の呪力で突破すれば、その異変はたちどころに術者の知るところとなる。出来るだけ、穏便に、静かに、そして快適に利用するには、相当面倒な『仕掛け』であった。


「数年に一度、ささやかな密議をするだけの割には、大事(だいじ)にされているな」

 虫取り屋が、独り言のようにボソリと口を開いた。

「まぁ、そりゃぁ、鬼部氏(もののべし)奥宮(おくみや)の一つですからぁ」

 鬼村は、コソッとそんな重要な事を呟いた。

「ほう……。初めて聞くな。オレでさえ知らない(やしろ)だから、そうとうのモノとは思っていたがな……」

 対する虫取り屋はそう言ったものの、事の重大性をそれ程重要視してはいないような口ぶりであった。

「ナイショですよ。最重要の神域に部外者を連れ込んだなんて知られたら、懲戒ものですから」

 鬼村は振り返ると、左手の人差し指を唇に当てた。こんな状況でさえ、右手は未だポケットの中だ。

「知れたらクビか……。いや、文字通り首が飛ぶな」

「そーなんですよ。どっしよっかなぁ」

 折角、目指した地に到着したと云うのに、これでは拉致があかない。

「えーと……、虫取り屋さん、何とかなりません? ここ迄ご案内したんだから、ちょっとだけ手伝ってもらえませんか?」

 四角い顔に細筆で描かれたような鬼村の眼と眉毛が、八の字になって上下に重なっていた。ついでに、ようやくポケットから引っ張り出した右手も使って、拝むように両手を合わせている。

「…………」

 頼まれた方は、思案しているのかどうか。ただただ、ボウっとして突っ立ったままだった。

「ね、お願いしますよぅ」

 尚も懇願する大男に、黒いコートの襟から覗く口が僅かに開いた。

「ふぅー」

 それは、滅多に拝めない虫取り屋の溜息だったのかも知れない。

「仕方がない。何とかしよう。ただし、オレでも少し時間がかかる」

 鬼村の情けない態度に観念したのか、虫取り屋が折れた。

 しかし、如何にアカシアのデバックプログラムであろうとも、ここまで厳重な結界を破れるのだろうか。いや、破る事それ事態は難儀ではない。それを悟られない事こそが超絶に難しいのだ。

「十五分で終わらせる。その間に、オマエはあそこに居るイノシシでも捕まえて来い。晩飯だ」

 さして難しくも無さそうに、帽子の男はそう言った。

「いやぁ、さすがは虫取り屋さん。お噂通りの方だ。では、よろしくお願いします。自分は、イノシシの他、山の幸の諸々を採取して参ります。お腹減ってますもんね」

 八の字だった鬼村の細い目が、∩∩の形をとった。現金なモノである。哀れなのは、彼等の胃袋に収まることを運命付けられた野生のイノシシである。

 鬼村の隠形の術と鬼道の技を以ってすれば、如何に凶暴な野生動物でもひとたまりもないだろう。

「では、行って参ります。……うひひ、今夜は猪鍋(ししなべ)かなぁ」

 そう言って、いそいそと狩りに向かう皇宮護衛官を、虫取り屋は珍しく顔を向けて見送っていた。



 そして、三十分後。

 三人は、境内の片隅に建てられている社務所の中に居た。

 バスタオルを敷いた畳の上に理沙を横たえ、虫取り屋はその側で胡座(あぐら)をかいていた。ただし、帽子も黒いコートも着たままである。彼の肌には、周りの温度やその変化などは、些細な事なのかも知れない。


 そして、三人目の男は、社務所の炊事場でその腕を奮っていた。

 大鍋に水を張り、切り刻んでアク抜きをした山菜や根菜、キノコ、芋を無造作に放り込む。鍋の主役は、勿論、素手で仕留めた野生のイノシシ。聖域に持ち込むために、頸動脈を手刀の一振りで断ち切って即死させ、その場で丁寧に血抜きをして(さば)く。更に、今では誰も覚えていない古式に則った方法で聖別を行った特別の品だ。

 猪肉(ししにく)は一口大に薄くそぎ切りとして、鍋に放り込む。少し香りの強い山菜と、炊事場の戸棚から失敬したショウガが臭み取りだ。

 鍋が温まり沸騰してきたら、丁寧にアクをすくい取る。味付けはシンプルに塩と醤油。旨味の素の出汁(だし)は肉からにじみ出てくる。

 しばらく煮込んでから、ブクブクと泡立つ鍋をくるっとかき混ぜると、汁をすくって味見をする。

「んー、うまひ。これぞ、皇宮警察秘伝の猪鍋にござーい。あとは、昆布と味噌があれば完璧なんだがなぁ」


 炊事場で如何にも楽しそうに料理をする鬼村とは対照的に、理沙の傍らの虫取り屋は寡黙だった。

 如何なる技を使ったのか、神域を護る結界は着いた時と変わらず、神社の建っている敷地を俗世から隔てていた。この禁足地の中であれば、たとえ鬼といえど、襲って来る事はおろか、侵入さえ出来ないであろう。なのに彼は、五感や六感を遥かに超えた何かで、周囲を捉えようとしているかのように見えた。


「虫取り屋さん、お待たせです。もうすぐ出来ますよぉ。理沙ちゃんを起こしておいてくださぁい」


 部屋の静寂を破って、鬼村の朗らかな声が聞こえた。

「ふむ、そろそろ食事時か……」

 か細い声でそう呟いた虫取り屋は、ある行動をとろうとしていた。




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