鬼怪列車(3)
──鬼
それは、頭に角を生やした、人型の怪物。剛力と妖力を使い、時として人を町を襲い、害を為す。
理沙を狙わんとする鬼達は、彼女の端末としての機能を欲していた。
宇宙の全てを記録しているエーテル体──アカシック・レコードをホロメモリとして駆動する超次元演算知性体=アカシアにアクセスするその能力を以ってすれば、過ちを無かった事に、未来は都合の良いモノに、その及ぼす力は全能の神と同列になる。
鬼達は、抹殺された自らの種と一族の無念を、理沙の能力で書き換えようとしているのだ。
しかし、如何に宇宙を書き換えられると言っても制約はある。
──因果律に反した改変は出来ない
いや、正確に言おう。
辻褄に合わない改変が不可能な訳ではない。ただ、無理な改変を行えば、それはアカシック・レコード上の記述に歪を生み出し、果ては宇宙を崩壊させるのだ。
故に、宇宙そのものでもあるアカシアは、自身の存在を揺るがしかねない改変は許さない。そのため、アカシアは致命的な改変──不具合を修正するためのプログラムを開発し、運用を開始した。
──それを『虫取り屋』と呼ぶ
虫取り屋は、人の世の影に隠れ、宇宙に歪をもたらすバグ──怪異を削除してきた。彼の存在は誰にも知られる事なく、誰の利益にも左右されない。彼は、だた自らの使命のみを無味乾燥に実行し、その痕跡もまた消去してきた……筈だった。
しかし、時たま生まれ出る異能者の中から、アカシック・レコードを読み取る事で、過去を読み解いたり未来を予見したりする者が出現する。一部の者は、虫取り屋の存在をも感知し、アカシアの存在と共に微かな情報を残した。
その多くは、虫取り屋の手により破棄され修正されてきたが、中にはそれをかいくぐって伝承として残って仕舞ったモノがあった。
その記録を伝えているモノの一つが、大和朝廷──皇室であった。
勿論、そんな事を肯定する関係者が居る筈がない。日本の国民と国土を第一に御考えになり、二千六百年以上に渡ってこの国を災いから守護してきた皇室である。それ故に、虫取り屋の存在を知りながら敢えてそれに触れず、私欲に捕らわれる事も無く、彼の行動に干渉する事も無かったのだ。
そんな虫取り屋と皇室が、今、交わった。
「アンタ、どっちの味方だ?」
虫取り屋が背中を預けている鬼村に訊いた。
「自分は皇宮護衛官です。日本を、陛下と皇室を護るのが、自分の使命です」
その答えは、虫取り屋の眼鏡に適ったのだろうか?
「そうか……」
虫取り屋は、か細く消え入りそうな声で、独り言のように一言そう言っただけだった。
だが、鬼村には、それだけで伝わった。
──今の敵は目の前の鬼、その後は状況次第
狭い列車内を見渡せば、憤怒の表情の鬼達が、今にも理沙に襲いかからんと異妖な色の眼を爛々と輝かせている。そんな中、理沙は、向かい合わせの座席の間に身を隠し、床の上に踞っていた。両腕で肩を抱いて振るえている。彼女にも座席にも、さっき骸となった鬼の体液が降り掛かり、異臭を放っていた。
鬼村はそんな少女をチラリと見やると、人の良さそうな笑顔を作った。
「大丈夫だよ、理沙ちゃん。怖い人は、すぐに居なくなるからね」
気休めのつもりだったのだろうか? それでも、人間の言葉をかけてもらった事で、蒼くなっていた理沙の顔には、僅かではあったものの血色が戻ったようだった。鬼村に対して、彼女は涙目になりながら、二・三度首を縦に振った。
鬼達の数は、廊下に立つ鬼村と虫取り屋を挟んで、進行方向側に五体、後側に六体。
鋼にも似た鋭い鉤爪が、鈍く光を反射している。スチール製や木製の杖を、武器にして構えているモノも居た。
「こいつらの相手をするのがオレの仕事だ。普通の人間は下がっていろ」
低くて消え入りそうな声は、虫取り屋のモノだった。この男が他人を気遣うのは珍しい。
「残念。自分、普通の人間じゃ無いもんで」
進行方向側を向いている鬼村の声が、背中越しに聞こえた。
「そうか……。なら好きにしろ。その代わり、死んでも生き返らせてはやらんぞ」
いつも通りに抑揚の無い、独り言のような虫取り屋の言葉だった。しかし、それは、ガタゴトと鳴り響く列車の騒音の中でも、何故かはっきりと聞こえた。
それを聞いた鬼村は、
「そんなぁ、虫取り屋さんったらヒドイなぁ。ちゃんと生き返らせて下さいよう」
と、明るい声で応えた。自分が死ぬ場面なんぞ、一コマすら考えてもいないくせに。
そんな鬼村は、両の拳を胸前に構え、細かった眼は少しばかり隙間を作っていた。僅かに覗く瞳は、紅く染まっているような気がした。目の前の怪物のどれに焦点を合わせるでもなく、視界内の物体全てを俯瞰的に捕らえているようだった。
その点では、腐った魚の眼のようにボウっとしていて、どこを見ているのか分からない虫取り屋の眼差しと共通している。
各言う虫取り屋は、鬼村の背中側──進行方向の反対側を向いている。両手を黒いコートから出し、だらりと垂らした自然体。その先には、いつもの赤錆た鎌が握られている。その辺のホームセンターに行けば、すぐに買えるような柄の短い草刈り鎌である。一体、どこに隠し持っているのであろうか? 虫取り屋が鎌を取り出す瞬間は、皇宮護衛官の鍛えられた動体視力を持ってしても、捉えられなかったのだ。
そんな二人を鬼達は前後から挟んでいた。
ここは走っている列車の中。出入口への道は閉ざされている。勿論、話して分かるような相手ではない。どの鬼も低いうめき声を上げ、それぞれの武器を手に、ジリジリと二人に向かって近付いて来る。
──ガタンッ
レールの上を走る鉄輪が、一際大きな振動を伝えた。
その刹那、一体の小柄な鬼が宙空へと舞い、鬼村へと飛びかかった。ソイツは、頭上から鋭い両手の鉤爪を振り下ろした。その眼にも止まらぬ早さは、たとえ拳法の達人であろうとも、常人では反応出来るものでは無い。
空気を斬るように振り下ろされる鉤爪は、唸りを伴っていた。全く動かない鬼村の頭は、為す術も無く砕けるだろう。自らの勝利に笑みすら浮かべた小鬼は、寸前、ある事に気づいた。
(この揺れる車内で、コイツは微動だにしていない!)
列車の床から伝わる全ての振動が、彼の下半身で相殺され、不動の構えを作っているのだ。
それに気が付いた時、小鬼の視界は赤黒く染まった。軽くスナップを効かせただけのジャブ。その一撃だけで、小鬼の頭部は宙空で熟柿のように砕けていた。
その間、僅か0.1秒。
砕けて半壊した頭部は、異様な色の体液と腐った豆腐のような脳髄をその場に撒き散らした。半固体の霧塊で、視界の一部が遮られる。
その刹那、ドブ泥を撒き散らしたような霧を突き破って、鋭く捻くれた角がロケットのように鬼村に襲いかかった。その速度は音速を超えていたのだろうか。不快な膿汁は、角を中心にした同心円上に一気に外側へと弾け飛んだ。目の前の光景を意識すら出来ないような瞬間に放たれた二段攻撃に、皇宮護衛官は為す術も無く刺し貫かれた……と、誰もが思っただろう。
だが、人型をした一角獣を前に、キッチリと背広を着込んだ巨漢は、一糸乱れぬその姿を維持していた。その胸を貫くはずだった角は、銀の光を放つネクタイピンの寸前で止まっていた。
それを成し遂げたのは、捻くれた角を握り締める右手であった。
渾身の力を込めて彼を貫こうとする一角獣鬼の全身は、ブルブルと震え、注ぎ込まれた怪力は次々に代謝されて大量の汗となり、鬼の服を濡らしていた。
「貴様の力、そんなものか」
彼にしては、驚く程感情のこもっていない言葉が、一角獣鬼に放たれた。
鬼は更に力を加えたが、角は微動だにしない。どうやっても、これ以上一ミリも前へ進まないのだ。のみならず、離れようとしても、握りしめられた角を引く事も叶わなかった。
全身を濡らす汗が滴となって流れ落ちようとした時、
「彼の時よりも脆弱になったな。……失望したぞ」
と、鬼村から呟くような言葉が放たれた。同時に捻くれた角を握る拳に、更に握力が加わる……。そう感じた瞬間、一角獣の角は<バベキッ>と言う破砕音と共に微塵に砕けていた。
しかし、驚くべきはそれからだった。角の破壊に伴うように、一角獣鬼は頭から首、胸、胴体、腹、腰、太ももから足へ亀裂が走り、石膏の彫像が砕け散るように粉々になって微塵に壊したのだ。
──これが皇宮護衛官の真の実力なのか
一刹那の間に二体の仲間を文字通り粉砕された鬼達は、鬼村を前にしてその動きを止めていた。
(この者、ヒト以上のチカラを振るう)
それが、襲撃者の共通した認識だった。
「さすがだな、皇宮護衛官」
鬼村の背中から、呟くような低い声が聞こえた。
「鬼をも上回るその力と技、……鬼道か」
それを聞いて、四角張った枠に極細の筆で描かれたような顔に、僅かに笑みが戻った。
──鬼道:二千年近い昔より倭の諸国を統一していた巫女=卑弥呼が使ったと云う能力。
鬼道については諸説があり、人心掌握術であるとも、道教の術であるとも云う。日本古来の神道だろうとの説もある。
巫女である卑弥呼が使ったのだから、呪術ではないか、とも言われている。降ろした神により未来を予見し、天を仰いで雨を呼び込み、怨霊を鎮めて災厄を祓う。その力故に、列島の諸国の首長達は、彼女を立てて領民・領地の安寧を望んだのだと。
──その鬼道を、鬼村は戦闘に使っているのか
彼は、その身に降ろした神の御氣を全身に廻らせる事で、筋肉・感覚・神経・思考の全てを鬼神と等しいレベルとしているのだろう。
──鬼に対して鬼神のチカラで迎え撃つ
これ程理に適った事は無いだろう。
鬼村の実力を知ったからか、残る鬼達は攻めあぐねているようだった。だからだろう、鬼村は虫取り屋の方を振り向かずに、こう言った。
「虫取り屋さんは、おだてるのが上手いなぁ。でも、自分、やっぱり虫取り屋さんには到底敵いませんわ」
それは何を意味した言葉なのか?
鬼村と相対する鬼達は、車両後部の様子にやっと気が付いた。
──そこにあったのは……
六体の鬼だったモノの哀れな残骸だった。
いや、残骸と云う事すら躊躇うような、異臭を放つ粘塊と砕けた骨粉……、それが列車の後ろ半分の車内一面に飛び散り、こびり付いていたのだ。
床には不快な色のドブ溜ができ、シートは粘液に塗れていた。窓という窓は、腐臭を放つ体液で汚れ、ガラスさえも侵すようにドロリと歪んでいた。そして天井は、鬼の四肢を構成していただろうと思う細胞の成れの果てで覆われ、吐気を催すような滴となってポタポタと垂れ落ちている。列車内を照らす蛍光灯も、全てこの世の物とは思えない老廃物で覆われ、その光は異次元の色彩を帯びていた。
──たとえ相対する敵が異形の怪物だとしても、このような残虐が許されるのか!
地獄の獄卒──牛頭鬼・馬頭鬼でさえ畏れを抱くような、異常に徹底した殲滅だった。
これだけのことが、鬼村が二体の鬼を倒す一呼吸のうちに為されたのだ。
その残虐の過程は、たとえ見ていたとしても認識するのは不可能だったであろう。目の前に起こった光景は、紙芝居の場面が入れ替わるような突然のモノであったに違いない。
鬼村の技が鬼神のモノとすれば、虫取り屋のそれは神をも怖れぬナニかの仕業だ。
シートの隙間に蹲った理沙には、二人の為した仕業が異次元の域にあるのが解った。
普通の人間であれば、一瞬にして入れ替わった光景に呆気に取られるだけのところであろう。しかし彼女は、眼前に繰り広げられた惨劇に眼を瞑ることさえ許されず、全ての工程を詳細に認識して仕舞ったのだ。
それは、理沙がアカシアの端末であったからに他ならないが、未だ十代の少女には酷であった。
「うっ、……ぐぷ」
理沙は、身体の奥底から湧き上がってきた不快感に息を詰まらせた。胃の腑を捩じ切られるような苦しさを伴って、口中に苦くて酸っぱいモノが溢れ返った。
彼女は思わず両手で口を覆ったが、吐瀉物を堰き止める事は出来ず、それは生臭い匂いと共に床に流れ落ちた。
「ひ……、ひぐぅ。お、おぇええ」
意図しない嘔吐に涙を流しながらも、理沙は吐く事を止められなかった。
袖口や胸、スカートの裾が、吐瀉物で汚れたが、彼女にはそれを気にする程の余力すら、もう無かった。
「大丈夫か、嬢ちゃん」
眼前の鬼を瞬く間に処分した虫取り屋が声をかけたが、理沙には応える事が出来なかった。元よりその言葉には、『いたわり』などは一切含まれてはいなかった。
「だから言ったろう、理沙ちゃん。窓を開けておこうよって」
哀れな姿の理沙を見ようともせずに、鬼村の言葉が追い討ちをかけた。
「外の空気が吸えれば、少しは気持ち悪さも無くなったろうに」
彼の声は、これ迄と変わらず明るく楽しげであったが、理沙を気遣う気配は全く無かった。
異能の殺戮者二人を前に、残った鬼は怯むこと無く、その憤怒の表情を忘れる事は無かった。そいつらは、手に握った登山用の杖を青眼に構え、鬼村を威嚇するように低い唸り声をあげている。
「一人くらいは生け捕りにしたいなぁ。尋問とかしたいんすよ、自分。良いですよね」
構えを崩さずに、鬼村はそう言った。
「好きなようにすればいい……」
返す虫取り屋の声は、相変わらずか細い呟きのようで、感情が混じる事は無かった。
鬼退治さえ出来れば、他の些末な事には無関心の虫取り屋だった。だが、そもそも、鬼に尋問など可能なのだろうか? それ以前に、この怪物を生け捕る事など出来るのか?
そういった彼等のやり取りは、理沙の耳にも届いてはいたが、彼女はその意味するところを認識する事が出来なかった。
胃の中が空になり嘔吐するモノが無くなっても吐気は治まらず、彼女は嗚咽を挙げ続けていた。眼に映る景色は涙で歪んでいたが、どうしてか虫取り屋の姿にだけは、はっきりと焦点が結ばれていた。




