端末の少女(2)
おに、オニ、鬼。古来より日本で語り継がれてきた、異形の怪物である。
一節には、古墳が作られた時に、冥界より墳墓を辿って人間界に侵入したとも言われている。
中国の鬼、鬼神と言われるモノが、ゴースト──死霊や怪異全般を指すのと違い、日本の鬼は、その姿が、明確なことが特徴である。
その姿に共通するのは、角──これは、一本だったり二本、それ以上の場合もあるようだが──を頭に生やしている事。独特の肌の色──原色の朱や青などの濃い色をしている事。それと、その憤怒の表情である。
理沙と虫取り屋の前に現れた『鬼』は、まさしく日本古来の鬼の姿をしていたといえよう。
その頭には二本の鋭い角が生えていた。
その肌は、燃えるような赤だった。
その顔は怒りに満ちていた。
しかし、その鬼は、どこにでもいるサラリーマンが着ているような背広を着てネクタイを絞めていた。
身長は中程度で、虫取り屋とはさほど変わらない。角の生えた頭髪はパンチパーマであった。
だがしかし、その腕力はどうだろうか? 先ほど、公園に設えてあった木製のベンチを、一撃で粉々に砕いたその腕力は、やはり人間とはかけ離れていた。指先に鋭い鉤爪を生やしたソレは、やはり『鬼』としか言いようが無かった。
「逃げて下さい。あれは、わたしを追ってきたモノです。わたしから離れれば、虫取り屋さんに危害を加える事は無いでしょう」
理沙は、地面に蹲った状態だったが、虫取り屋にそう言った。彼では、あの恐ろしい鬼に敵わない。そう思ったのであろう。
「おいおい、お嬢ちゃん。オレに助けを求めておいて、いざ敵が現れたらお払い箱かい。それは無いだろう」
虫取り屋は、抑揚のない呟くような声で、理沙に答えた。
「でも、虫取り屋さんでは、あの怪物には敵いません。わたしは、これ以上、無残に殺される人を見たくないんです!」
彼女は、喉から絞り出すように、そう言った。
それに対して、虫取り屋は理沙の前に立つと、眼前の赤鬼と対峙したのである。
「お前を第一級のバグと認める。これよりデバッグを開始する」
そう呟くと、その腐った魚のような淀んだ目を、鬼に向けた。
一方の赤鬼は、吐く息も荒く、両手を大きく掲げて威嚇しているようだった。
その体躯とは裏腹に、強靭な腕力と情け容赦無い闘争本能を持っているのだろう。
誰もが、ボロボロのコートを羽織った貧相な男が勝てるはずがないと思っただろう。
二人はしばし、互いを見つめていたが、突然、フッと鬼の姿が揺らいで消えた。理沙が、「あっ」と思う間も無く、ソイツは天高く跳躍すると、鉤爪のついたその腕を、虫取り屋の頭に振り下ろしたのだ。
理沙は、「もう駄目だ」と思った。自分の所為で、また一人死人が出た。それが、悲しかった。
しかし、どうだろう。理沙の目の前では、予想だにしなかった事が起きていた。
赤鬼の鋭い鉤爪は、何か鋭い刃物で受け止められていたのだ。<キン>という金属的な音は、後から聞こえたような気がした。理沙がよく見ると、それは赤錆びた草刈り鎌だった。その辺のホームセンターで安売りされているような、柄の短い何の変哲のない物だった。それが、異形のモノの攻撃を、見事に受け止めていた。一体、いつ、どこから取り出したのだろう。怯えてはいても、対する二人の様子をじっと見ていた理沙にも、虫取り屋が、いつ草刈り鎌を取り出したのか、分からなかったのだ。
赤鬼が、この事態をどう受け取っていたかは分からない。相変わらず、その顔は憤怒の表情を崩していなかったからだ。
しかし次の瞬間、理沙も、いや、鬼でさえ驚愕しただろう。虫取り屋の左手に二振り目の鎌が瞬時に現れると、<ギラリ>とした一閃を鬼に振るったのだ。
結果はどうだろう?
鬼は、瞬時に後退していた。しかし、その右腕は肘のあたりで切断されていたのである。黄昏時の公園を、異形の声が襲った。普通の人間ならば、その場で失禁してしまいそうな、奇怪な声だった。それは、赤鬼の悲鳴であったのかも知れない。
腕から赤黒い体液を迸らせた鬼は、出現時と同様に瞬時に消えてしまった。後には、醜悪な鬼の手が残されただけだった。
「逃げられたか……。デバッグ失敗。トレースを続ける」
虫取り屋が、立ったまま呟いた。
理沙は、その様子を呆けたように見つめていることしか出来なかった。目の前で起きたことが、まだ理解できていなかったのだ。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい」
動けないでいる理沙に、虫取り屋は淡々と呼びかけた。その声に我に返ったのか、
「は、はい」
と、彼女は答えた。だが、その先が出てこない。
「済まねぇな。折角くれたのに、ハンバーガーを喰ってやれなかった」
虫取り屋のハンバーガーは、一口食べたきり、公園のベンチとともに微塵に砕けたのだ。もしかすると、この男は、それを理由に異形のモノと戦ったのかも知れない。
理沙の無事を確認した虫取り屋は、懐から半透明のレジ袋を引っ張りだすと、地面に転がっている『鬼の手』を拾って、袋の中にねじ込んだ。
「なぁ、お嬢ちゃん。これ、取り返しに来ると思うか?」
不意に虫取り屋は、ペタンと地面に座り込んでいる理沙に問いかけた。
「さぁ……」
理沙は呆然として、それだけをようやっと答えた。
「そうだな。分かんねぇよな」
虫取り屋は、さして興味も無いように手に持ったレジ袋を見つめていた。
いつの間にか、彼の持っていた鎌は何処かに消えていた。いつもながら、不思議な現象である。
そのまま、しばらく二人は押し黙ったままだった。
もう日が暮れて暗くなりかけた頃、ようやく理沙が口を開いた。
「あ、あーと、……そのう、虫取り屋さん。大丈夫ですか?」
と、少女は彼に問うた。訊かれた虫取り屋は、こう言った。
「オレか? オレは大丈夫だ。何せ、オレは、生命というものを持ちあわせていないんでな」
その言葉を、理沙は理解することが出来なかった。
彼は、自分を追っていた鬼──『あの異形のモノ』と対峙し、あまつさえその腕を奪い撃退したのだ。普通の人間に出来るとは思えない。ましてや、腐った魚のような目をしたこの男に出来たとは、事実がそうだと告げていても、にわかには信じられなかった。
これまで、鬼は彼女の前に現れると、知人を、両親を、兄弟を、彼女から奪ってきたのだ。異形の鬼の前では、どんな勇敢な猛者も、奥義を伝授された格闘家も、銃で武装した警官でさえ、塵芥の如く引き裂かれ、砕かれ、切り刻まれてきたのだから。
(もしかしたら、この人なら、わたしを助けてくれるかも知れない)
彼女は、そんな淡い希望さえ持ち始めていた。
「よう、お嬢ちゃん、いつまでそこに座ってる気だ。腰を冷やすと便所が近くなるぞ」
年頃の少女を捕まえて、そんな情緒の無い言葉を貧相な男は投げかけた。
「え、ああ。……だ、大丈夫です」
少女は顔を赤らめると、立ち上がった。両手でスカートの尻をバタバタと叩く。さらさらと、細かい土塊が舞った。
「あれが、お嬢ちゃんを追っかけてたモンだろう」
虫取り屋は、理沙にそう訊いた。
彼女は一瞬躊躇したものの、「はい」と言って頷いた。
「確かに、その辺の人間には信じてもらえんだろうな」
「はい」
少女は、再度、短く答えて頷いた。そして、しばらくの間を置いて、理沙は口を開いた。
「すいません。見ず知らずのあなたを巻き込んでしまって。わ、わたしの事は、忘れて下さい。でないと、あなたも殺されてしまいます」
一度は助けを乞うた理沙だったが、やはりそれは誤りだったと思い直していた。自分はたくさんの人を巻き込んで、その生命を犠牲にして生き残ってきた。そんな不幸な事は、もう終わりにしたかった。
しかし、目の前の男──虫取り屋はこう言ったのだ。
「もう遅いよ。ヤツは腕を取られた。きっと、取り返しに来るぜ。もちろん、お嬢ちゃんのところじゃねぇ。オレんとこだ。今更お嬢ちゃんがどうこう言っても、オレが鬼から追われることになったのは違いねぇ」
そう言われて、理沙は、
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
と、首を項垂れていた。その瞳は涙で濡れていたろう。
「つまんねぇこと言うなよ、お嬢ちゃん。同じように鬼に追っかけられてるんだ。一蓮托生といこうじゃねぇか。お嬢ちゃん、あんたも助かりたいんだろう」
虫取り屋は、理沙にそう言った。
それを聞いた少女は、「え?」という顔をしていた。
確かに、自分は鬼から逃げたかった。助かりたかった。今でも、助けて欲しいと思っている。
しかし、これまで鬼と相対して亡くなった者は数しれなかった。理沙を守ろうとして果たせなかった者も、偶然巻き込まれて死んだ者もいた。自分一人のつまらない我儘で、何人もの人間がこの世を去った。そんな事は、もう嫌だった。
そう思っていた理沙だったが、彼女の口からこぼれた言葉は違っていた。
「た、助かりたい。助けて……下さい。わたしを、……人を不幸にするわたしから、……救い出して下さい」
少女は泣きながら、そう訴えていた。
虫取り屋は、少女の震える肩に手を置くと、
「やっと言えたな。その言葉を待っていたよ。お嬢ちゃん、あんたはオレが護ってやる」
と言った。それを聞いて顔を上げた少女の目に映ったのは、相変わらず覇気のない、腐った魚のような淀んだ目であった。
しかし、彼女はその中に微かな感情のゆらぎを感じたように思えた。