旅の始まり(1)
「あー、すっきりしたぁ」
ネットカフェに戻った理沙は、いの一番にシャワーを浴びた。
虫取り屋に煤を払ってもらったとは言っても、気持ち的には未だすっきりしていなかったからだ。備え付けのタオルで、髪の水分を吸い取りながら部屋に戻ってきた彼女は、虫取り屋に気が付くと、こう言った。
「虫取り屋さんも、シャワーを浴びませんか? きっと、スッキリしますよ」
そんな理沙の心遣いにも虫取り屋は関心を示さずに、ソファーに横になったまま帽子を深く被って無視を決め込んでいた。
「ん、もうっ、虫取り屋さんったら。身体を洗っておかないと、気持ち悪くなりますよ」
理沙は、お節介を承知で、虫取り屋を動かそうとしていた。
「オレには必要のない事だ」
当然の事ながら、虫取り屋は素っ気無い返事を返した。
「オレは、バグを潰すために創られたプログラムに過ぎん。新陳代謝を必要としないオレには、『気持ち悪い』等という言葉は意味がない」
それを聞いた理沙は、<プゥ>と頬をふくらませると、
「一緒にいるわたしが気持ち悪いんです。怪物の返り血を浴びたり、爆発に巻き込まれたりして、服だってコートだって汚れていますよ」
と、彼女は意見した。無意識ながら口にした、重大なことにも気づかずに。
鍔広の帽子の先がピクッと動いたような気もしたが、虫取り屋は、それ以上の動きは見せずに、
「気にするな」
と、低い声を発しただけだった。それは、いつものように独り言のような微かな呟きであったが、理沙には彼の言葉が何故かはっきりと聞き取れた。
「まぁた、それですか。はいはい、分かりました。今度から、『気にしない』ように気を付けます。これで、よろしいですか」
理沙は、敢えて当てこすりのような返事をした。
「ああ。良い返事だ」
理沙の言葉の裏に隠された意図を汲み取ってくれたのかどうか。虫取り屋は、機械的な返事だけをすると、また反応しなくなった。
(もう、虫取り屋さんたら。わたしの気持ちも知らないで)
理沙は、これ以上は何を言っても無駄と悟った。
彼女は、髪の毛の水気を吸って湿気たタオルをテーブルの端っこに置くと、貴重品を入れてある──と言うか唯一の手荷物である、クリーム色のリュックから小銭入れを取り出した。
「虫取り屋さん。わたし、飲み物を買いに行こうと思うんですが、何か欲しい物はありませんか?」
部屋を出る前に、一応、虫取り屋に声をかける。
「…………」
返ってくる言葉はない。完全に沈黙したようだ。
(もうっ。これが『スリープモード』ってヤツなのかしら)
今なら、虫取り屋にイタズラをしても気付かれないかも……、と云う邪な気持ちが、理沙の頭の中を通り過ぎた。
しかし、彼女はすぐさま思い直した。そんな事をしても、成功しないだろう。もし、何かの手違いで成功したとしても、虫取り屋は何のリアクションもしないに違いない。不毛な試みだ。
まあ、その意味では、今の虫取り屋は人の形をしているだけの肉の塊に過ぎない。死体と言ってもいいかも知れない。
そう考えてしまっで、理沙は背中にゾクリとした嫌な感覚を感じて、気持ちが悪くなった。
「いやいやいや。今更、この人に何か人間らしい事を望んでも、こっちが疲れるだけだわ。一人で買いに行こうっと」
理沙は、わざとらしくそんな言葉を口にすると、小銭入れだけを持って扉を開けた。そのまま廊下に出ると、自動販売機の並ぶコーナーを目指す。
風呂上りの彼女からは、シャンプーやリンスの香り以外にも、十代の少女の放つ特別な香りが漂って来るような気がした。それは、ヒトが男女で性交をして繁殖する生物としての性とも言えよう。
彼女の放つ香りは、周りの男性には、蜜のそれであったに違いない。
この遅い時間までネットゲームに興じていた何人かの少年が、ピクリと反応し、彼女に眼を向けた。
(こんな場所には似つかない、カワイイ娘がいるなぁ)
(その辺のギャルよりも、よっぽど魅力的だよ)
(声でもかけてみるか。ひょっとして引っかかるかも)
不謹慎な事柄を脳裏に抱く男が幾人もいたが、理沙の姿を見た次の瞬間には、何故か頭の中に靄がかかったようになって、オスの本能が大人しくなった。
それは、予めアカシック・レコードに書き込まれたシナリオに沿ったものだろうか。それとも、理沙が、彼等よりも遥かに上位のプログラムである事を察知したための防衛行動であったのか。はたまた、虫取り屋が、理沙を護るために仕掛けた防御機構ででもあったのか。
幸い──それはどちらにとっての幸いだろうか──彼女に悪さをしようという気持ちは封じられ、理沙は、無事、自動販売機でスポーツドリンクとミネラルウォーターのボトルを買って帰ることが出来た。
部屋に戻った彼女は、ぐっすりと眠っているように見える虫取り屋を起こさないように、そっと扉を閉めると、空いている方のソファーに腰を降ろした。そして、すぐにそんな事に気を使った自分を呪った。
(そうだったわ。虫取り屋さんに気を使ったって、どうせ『オレには眠るなんて云う機能はプログラムされていない』なんて、分かったような事を言われるだけだったわ。もうっ、知らないっ。わたしも、さっさと寝てしまおう)
理沙は、手に持っていたドリンクのPETボトルを一旦テーブルに置いた。空いた手で、湿気ったタオルを取り上げると、もう一度シャワールームに戻ることにした。
ドライヤーで、髪の毛を完全に乾かしたかったからだ。半乾きで眠ったりしようものなら、寝癖になって、明日の朝に直すのに一苦労する。
再度部屋を出る時にも、理沙は、室内の虫取り屋を一瞥した。
──変化は無い
寝返りどころか、息をしてるのかも定かではない彼の様子を見て、理沙は溜息を吐いた。音がしないように、そおっと扉を閉める。
彼女はそのままシャワールームへ向かうと、備え付けのドライヤーで髪を乾かし始めた。
少し遅い時間だったが、こんなところにやってきている連中なら、ドライヤーの音も気にもしないだろう。だれも、何かしら時間を持て余しているのである。
(明日の予定はどうするのかなぁ。虫取り屋さんは、ここの駅からどうにかしてJRに乗り継ぐって……。最終的には、東海道新幹線で岡山まで行くのかな。……お金、まだあったっけ)
理沙は、ドライヤーの熱風を浴びながら、旅の目的地である鬼無の事を思い浮かべた。しかし、彼女には、何の思い出も記憶も、情報の一部さえ思い当たらなかった。今、理沙の手元にあるのは、『鬼無』という地名だけだ。
(そうだ、折角ネットカフェにいるんだから、朝になったらパソコンで調べてみようっと。鬼についても、何か分かるかも知れないし)
理沙には、虫取り屋に何でもかんでも聞くのが、少し癪であった。自分が何にも知らない小娘だと思われるのは、もう懲り懲りだった。何とかして、虫取り屋を見返してやりたかった。
そんな事を考えながら、彼女はドライヤーを使っていたが、そのうち髪をすく指に湿り気が感じられなくなった。
彼女は、ドライヤーのスウィッチを冷風に切り替えた。熱くなった髪の毛を、ゆっくりと冷やす。最後に、鏡を見ながら最後の仕上げをする。
「よし。オッケイ。カワイイぞ、理沙」
鏡に映った自分を指差しながら、自画自賛する。実際、身だしなみさえ整っていれば、理沙は人並み以上に綺麗な少女であった。いつ鬼に襲われるかと、彼女はいつもビクビクして隠れるように生き延びてきたのだ。出来れば、目立たないように、ひっそりと暮らしてきた。そんな負い目のような感情が、これまで理沙を目立たなくしていた。
それが、虫取り屋に出会って心の安住を得たためか、理沙に本来の美しさを蘇らせ始めていたのだ。
ひとしきり鏡で自分の姿を眺めていた理沙は、「うん」と大きく頷くと、踵を返して廊下に出た。
スッキリしたためか、彼女は、我知らず鼻歌を歌いながら、廊下を歩いていた。そのためだろうか。理沙は、廊下の曲がり角から出てきた男性に気が付くことができなかった。
「あっ」
思いもかけず、彼女は、突然現れた大きな影と接触してしまった。ぶつかった反動で、理沙は廊下に尻餅を突いてしまった。
「ったぁー」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
「すいません」
その時、頭上から穏やかな声が聞こえた。理沙と衝突した男性だった。
彼は、如何にも済まなそうな顔をして、廊下に蹲った態勢の理沙に手を伸ばしていた。甚平を着ているせいか、薄い布地の上からでも彼のゴツい筋肉が見て取れる。体格にみあった四角い顔に、糸のような細い眼が描かれていた。
「あっ、ああ。こ、こちらこそ、すいませんでした」
理沙は、この失態に赤くなりながら、そう応えた。
(くぅ〜。ぶつかっちった。ハズカシー)
理沙は羞恥のため、彼の事をよく見ることができなかった。
「大丈夫ですか?」
再度、男性がそう言った。理沙は慌てて、
「だ、大丈夫です」
と言うと、すっくとその場から立ち上がった。
「わたしこそ、前をよく見ていなくて。ご、ごめんなさいっ」
大きくお辞儀をして、それだけをやっとこさ言うと、彼女はその場から逃げるように立ち去った。
後に残された男性は、その細い眼を更に細くして、立ち去る理沙の後ろ姿をいつまでも見つめていた。




