発現(4)
二十G。普段の二十倍の重力が、虫取り屋の動きを封じようとしていた。
新種の鬼──巨鬼の超能力であった。
見るからに貧相な虫取り屋の筋肉では、およそ千二百キロ強の体重を支える事は不可能では無いだろうか。
そう誰もが思うだろう。
しかし、彼は立っていた。その姿は、相変わらずホームレスのようで、そよ風が吹いただけで吹き飛ばされてしまいそうに見える。但し、いつもの虫取り屋とは違っているところがあった。
その瞳は生気を帯び、しっかりと前方の巨鬼を睨みつけていた。
少し黄ばんだ歯を見せるその口元……。これは、笑っているのか! あの虫取り屋が。その表情は、歓喜に満ちているように思えた。
そしていつの間にか、虫取り屋の周囲には、異様な気がまとわりついていた。それこそは『闘気』。何者をもねじ伏せ、容赦なく叩き潰す、闘神の如き風格を彼はまとっていた。
だからこそだろうか? 絶対的な有利の中で、鬼達は怯えているように見えた。
──眼前の貧相な小男は、両腕を欠いているではないか
──千二百キロもの体重で、思うように動ける筈がない
──現に、さっき、この男は我等が大将に殴り飛ばされたではないか
状況は鬼達に有利なものしか無い。そう思い込もうとしていた。
しかし、彼等は無意識に巨鬼の影に隠れるように集まっていた。大将を頼るように、その巨体を盾にするように。
ふと目を上げると、影のような腕の無い小男は、陽炎のようにユラリと身体を揺らすと、右足を一歩踏み出そうとした。
──この超重力の中、片足で体重を支え切れる訳が無い
どの鬼も、そう思った。いや、思いたかった。
しかし、期待は裏切られた。
片足を持ち上げた虫取り屋は、倒れることは無かった。持ち上がった足は、軸足の手前、約三十センチほどの所に、そっと踏み降ろされた。<ズン>と云う地鳴りが響いたようだった。そっと降ろされたはずの足は、アスファルトの地面を踏みしめ、重圧で無数の亀裂が走った。過大な荷重で急速に変形したアスファルトは、発熱して煙を上げていた。
──バカな、物理法則的に有り得ない
それ自身が法則を逸脱した存在である筈の鬼達をも驚愕させた。いや、それは恐怖だったのかも知れない。
ある鬼は、顎から涎の滴りが垂れ落ち、地面にシミを作っていた。いや、それは鬼の脂汗だ。
別の鬼は、興奮してか、カタカタと身体を震わせていた。違う、それは怯えによる煽りだ。
また、違う鬼は、背中に触れる物を感じた。勇み足をした鬼が、彼の背を押したのだろう。そうではない、動いたのは彼だ。虫取り屋の闘気に押されて、思わず後退ったのだ。
──いや、大丈夫だ、我等には大将がいる
鬼達は、先頭に立つ巨鬼の背中を見やった。
肉体の巨大化で着ていた服はボロボロに引き裂かれ、返り血を浴びて赤黒い染みで塗れていた。それが、新たに湿気を帯びている。巨鬼の背中を伝うそれは、冷汗であろうか……。
──何故だ。大将をも怯えさせる『何』が、あの男にあるのだ
怯えかけている鬼を他所に、虫取り屋は二歩目を踏み出した。再び、<ズン>と云う地響きと共に噴煙が上がった。更に鬼達の不安感が高まる。
もしかしたら、彼等にも、未だ人間だった頃の感情の欠片が残っているのかも知れない。
>得体の知れないモノへの恐怖
>不可視の恐るべき存在への畏れ
>無意識の深淵に潜む人智を超えたモノへの信仰
古の昔、鬼は鬼だった。鬼に、人間が逆らえる筈がない。その筈だった。しかし、アイツは違う。眼前の『ヒト』の形をした何かは……そう、神をも超える神工知能──超次元演算知性体アカシアの創り出した究極のデバック・プログラムであった。
──神が超神に敵う筈がない
今更のようにその事実に気が付いた鬼達だったが、彼等はそれを信じたくは無かった。
虫取り屋が、大音響と共に三歩目の歩みを見せた時、巨鬼は動いた。なんと、すぐ後ろに控えていた鬼の頭を片手で鷲掴みにすると、そのまま虫取り屋めがけて放り投げたのだ。
勿論、鬼にかかる重力は一Gでしか無い。二十Gもの重力下で動かなければならない虫取り屋とは、話が違う。
虫取り屋の正面に足から落下した鬼は、身体に走る痛みを物ともせずに立ち上がった。元より憎悪と闘争本能のみに満たされた鬼である。ソイツは、<ヌゥ>と虫取り屋の眼前に立ちはだかった。両腕を喪失した貧相な男と比べると、二回りは大きい体躯をしている。
──近付いてみると、両腕の無いこの男は、見るからに貧弱だ
今、虫取り屋を見下ろして、鬼からは、先程の畏れが嘘のように引いていた。
──殺れる
憤怒と憎悪に満ちた鬼は、単純にそう思った。
──人間を遥かに凌ぐ筋力と俊敏性を備えている我にかかれば、勝負は一瞬で終わる
ソイツは予備動作も見せずに<スッ>と距離を縮めると、渾身の右ストレートを虫取り屋に放った。<ゴウ>と風が鳴ったようだった。強烈な勢いで迫りくる拳を、虫取り屋は僅かに上体を反らしてやり過ごした。
──バカなっ
鬼が改めて驚愕した。二十Gの重力下で、バランスが取れる筈がない。
しかし、ボロボロのコートの男は、絶妙なバランス感覚を持っているようだった。紙一重で鬼の拳を躱し、そのまま左足を持ち上げると、鬼に回し蹴りを放とうとしている。
──見える、見えるぞ
鬼にとっては、虫取り屋の動きはスローモー過ぎて、蹴りの軌道から,速度,到達点までもが予測できた。
──コイツの蹴りは、頭を狙っている
心中で嘲った鬼は、両腕を挙げて守りを固めた。鋼の如き筋肉が盛り上がる。完璧なガードであった。
鬼がニヤリとほくそ笑んだ時、虫取り屋の蹴り足は、ゆっくりとガードされた腕に近づいていた。
──蹴りを防いだ直後、止めを刺す
鬼の心中を、虫取り屋はどう察したのだろう。そのままの軌道でやってくる何の変哲のない回し蹴りが、ようやく鬼の腕に触れた。
──防いだ
鬼がニタリと笑みを浮かべた時、腕に異様な感覚が走った。<ミシリ>と嫌な音が響いて、鬼の腕は有り得ない形に変形して砕けたのだ。
鬼は見落としていた。虫取り屋の細い足は、今まで、約千二百キロもの体重を平気で支えていたのだ。
その事に気が付く暇も無く、鬼の頭部は、ガードした腕ごと熟柿の如く砕け散ったのである。
一瞬の間を置いて、残った胴体から異様な色の体液が垂直に吹き上がった。<パン>という破裂音は、その後から聞こえたように思えた。辺り一面に、吐き気を催す異臭が漂う。
──バカなっ
残った鬼達は、仲間が呆気なく敗れ去った事に驚愕していた。その憤怒の表情に、僅かに違った色の感情が混じる。
誰もが虫取り屋を恐れて、後退ろうとしていた。
「くくく。楽しいなぁ。そら、次はどいつだぁ。続きをしようぜぇ」
虫取り屋の歓喜の声が、辺りに響いた。
──歓喜? 戦いを楽しんでいる?
今の虫取り屋は、普段とは違っていた。いつも無気力で、仕方なく作業をこなすように敵を退けてきた虫取り屋が、戦う事を楽しんでいる。
鬼達は、改めて眼前の男の本性を垣間見た。意図せずとも、無意識に足が動いて、虫取り屋と距離をとろうとしていた。
誰もが我先に逃げ出そうとしていたその時、<ブォ>と凄まじい気迫が鬼達を取り巻いた。巨鬼の放った憤怒の邪気である。
それは、虫取り屋との戦いを避けようとする配下の鬼達を、叱咤しているように思えた。
「くく、くっくく。くくく。……良いなぁ。良いよ、アンタ。もっと楽しもうぜぃ。アンタも、楽しいんだよなぁ」
虫取り屋は、尚も鬼達を挑発した。
再度、<ズン>と云う地響きが鳴って、虫取り屋が歩みを進めた。鬼達との距離が縮まる。
「くおぉぉぉぉぉ」
その時、異様な咆え声を巨鬼が発した。辺りに響き渡る凶声が、ガラス窓やモルタルの壁を揺らした。ミリ単位の微細な亀裂が、壁や窓に走る。
巨鬼は、そうやって虫取り屋を威嚇したが、それは同時に仲間の鬼達を更に追い詰める事になった。誰もが逃げ出そうとしていたその時、巨鬼は振り返りもせずに、背後の鬼達の頭や腕を掴んで宙に放り投げ始めたのだ。
幾体もの鬼が空高く舞っては、虫取り屋の目の前に落ちていった。
「くくっ。そうこなくっちゃな」
黒いコートを纏った男は、如何にも嬉しそうに呟くと、目の前に落下してきた鬼達に駆け寄った。
──駆け寄る?
有り得ない。
二十Gの重力下、約千二百キロ超の体重をものともせずに、彼は軽やかなステップで以って、無様に落下してきた鬼達に近づくと、無造作にその足技を放った。
ある鬼は腹部を蹴られ、背中からハラワタを撒き散らして霧散した。
また別の鬼は、頭部に踵を落とされ、胸の近くまで頭を陥没させて絶命した。
更に他の鬼も、逃げる間も無く虫取り屋の蹴り技の犠牲となっていった。
十数分後、虫取り屋と巨鬼の間には、かつて鬼の形をしていたモノ達の残骸が、異臭を放つ体液と混じり合って散らばっていた。
結果的に見れば、通りを歩いていた人々は、鬼に虐殺されようが、虫取り屋に砕かれようが、結局は同じ肉塊となる運命にあったのだろうか。
二十Gの超重力の下、街路に立っているモノは、虫取り屋と巨鬼だけであった。
ニッと巨鬼が口の端だけで笑った。普通の人間が見たら、それだけで狂気で卒倒しそうな、憤怒に満ちた笑みであった。
巨鬼のお眼鏡に適ったのだろうか。両腕の無い貧相な男は、返り血を浴びることすら無かったその姿のまま、飄々とその場に立っていた。そして、その顔に浮かんでいた笑みは、狂人のそれであった。
「よう、楽しいなぁ。アンタもそうだろう」
虫取り屋が、『らしくない』言葉を発した。『楽しい』など、普段の無気力な様子の彼とは、似ても似つかない。そこに居たのは、虫取り屋に似た何か恐ろしいモノだった。
「くぉおぉぉぉおおぉぉ」
彼に応えるように、巨鬼も天に向かって咆哮した。
虫取り屋に劣らず、巨鬼も異様な邪気を発していた。それは、より強い何かと戦える歓喜ででもあったのだろうか。その意味では、巨鬼も虫取り屋も、『ヒト』を超越した異次元の戦闘体であった。
気が付くと、虫取り屋と巨鬼との間に散乱していた肉塊と血溜まりが、綺麗に消失していた。まるで、最初からそんなモノなど無かったかのように……。
「さぁて、決着をつけようじゃないか」
虫取り屋が、強烈な闘気と共に言い放った。
「コォォォォアァァァ」
と、巨鬼が凶声でもって応えた。
辺りの空気さえも彼等を恐れたのか、風はピタリと止まっていた。
代わりに、強烈な陽光が、ジリジリと辺りを焦がしていた。
巨鬼と虫取り屋の他には、そこに立っているモノは無かった。
二人──いや二体、もしくは二柱と言うべきか──は、焼け付くような陽射しの下で、微動だにせずに向かい合っていた。
──次の戦いで、決着がつくに違いない
もし、この場に観客が居たならば、きっと誰もがそう思っただろう。
「さぁて、アンタを最上級の鬼と認める。これよりデバッグを開始する」
虫取り屋はそう宣言した。
それは、いつも通りの言葉ではあったが、いつもとは違う戦いのゴングであった。




