端末の少女(1)
その少女は走っていた。
まるで何かから逃げるように、後ろを気にしていた。
何故、何が、彼女を走らせているのだろうか? 少女の怯えたような顔から、それは恐ろしいモノから逃れるためかも知れない。
あたりは太陽が沈もうとしている黄昏の時間だ。
ふと、彼女は立ち止まって、前髪を上げるように額の汗を拭うと、辺りを見渡した。どこにでもあるような、少し田舎の住宅街の路地であった。彼女は、今、その四つ角に立っていた。
白いブラウスが汗ばんで、肌に張り付いている。この寒い時期であるのに、明るいクリーム色のミニスカートから覗く足は、素肌だった。時折吹く強い風で、羽織っている紺色のスタジアム・ジャンパーが飜える。
(どうしよう……)
四つ角で、彼女はどっちへ行けばいいか悩んでいた。
と、その時、突然に少女の右肩から声がかかった。
「お嬢ちゃん、どうかしましたか」
抑揚のない、つぶやくような低い声に、彼女は反射的にビクつくと、相手の顔もよく見ずに飛び退った。
そのまま、走り出そうとするところを、声が呼び止めた。
「そんなに邪険にするなよ。オレは敵じゃない。落ち着いてくれ」
その言葉に少女は立ち止まると、声のした方を、おずおずと振り返った。
そこに立っているのは、黒いボロボロのコートに、鍔広の帽子を被った、貧相な男であった。男の顔はよく見えなかったが、帽子の下から覗くその目は腐った魚のようで、全く覇気を感じさせなかった。
(この人ではない)
少女は直感的に、この男が敵ではないことを察知した。だが、くたびれたジャケットを着た男は、味方でもなさそうだった。少なくとも、自分を脅威から護ってくれそうには見えなかった。
「オレは『虫取り屋』。もしかしてお嬢ちゃん、オレが探している娘かい」
男はそう名乗ると、彼女に尋ねた。
少女は息を呑むと、思い切って話しかけた。
「わたしは、理沙。東条理沙と言います。虫取り屋さん……と言いましたか。わたしが、あなたのお探しの方かどうか分かりませんが、えーと、あの……もし良かったら、わたしを助けてくれませんか」
少女の判断力は、もしかしたら、逃避行のうちに弱っていたのかも知れない。こんなヨレヨレの人物に助けを求めても、頼りになるかは怪しかった。しかし、行く宛もなく逃げてきた少女にとって、今すがれるのは、この男しか居なかったのだ。
「理沙っていうのか、お嬢ちゃん。まぁ、こんなところで立ち話もなんだから、どっかで一服しないかい」
理沙は、そう言われて、少し落ち着きを取り戻した。
「ここを少し行くと、ハンバーガーのファストフード店がある。お嬢ちゃんも、何か腹に入れれば、少しは落ち着くと思うぞ」
と、虫捕り屋と名乗った男は、ある道の方を指差すと、彼女を誘った。
理沙は、少し考えると、首を縦に振った。
「そうかい。なら行こうか」
虫取り屋はそう言うと、彼女の前に立って、トボトボと歩き始めた。慌てて理沙も後に続いた。
だが、彼のあまりの風体に、理沙は近づくのを少しためらっていた。どう見ても、ホームレスか浮浪者にしか見えなかったからである。
二人が少し歩くと、虫取り屋の言った通り、ハンバーガーショップが見えてきた。
虫取り屋は、上着のポケットから五百円玉や百円玉をじゃらじゃらとつかみ出すと、理沙に渡してこう言った。
「何か腹の足しになる物を買ってこい。オレじゃぁ、……その、おん出されるからな」
さもありなんである。見るからに不潔そうに見える虫取り屋は、店内に入ろうとしても、店の方が「お断り」したくなるだろう。
理沙は少し考えた後、渡された小銭を持って、店内に入った。カウンターで、テイクアウトのハンバーガーと飲み物を二人分頼む。少し店は混んでいたが、五分もすると、注文の品がポリエチレンのレジ袋に入れられて出てきた。
彼女は礼を言ってお釣りと品物を受け取ると、外で待つ虫取り屋のところに戻った。
「さぁて、どうするよ。あっちに行くと公園がある。座れるところはあるが屋外だ。少し寒いが、いいか?」
彼はそう言うと、太陽の沈む方向を指差した。
理沙は、頷くと虫取り屋に着いて行った。
辿り着いた公園には、ベンチやテーブルなどがしつらえてあった。理沙はそのうちの一つを選ぶと、ベンチの端っこに腰掛けた。虫取り屋も反対側の端に少し離れて座った。
「喰え。遠慮はいらん」
彼の声は、今にも死にそうで弱々しかったが、その言葉は何故か理沙にははっきりと聞き取ることが出来た。
彼女は二人の間に置いたレジ袋から、ハンバーガーと飲み物を一人分取り出すと、虫取り屋の方に差し出した。彼の表情は、能面のように変わらなかったが、やや不思議そうな声でこう応えた。
「オレのか? オレが、そのハンバーガーを喰うと……」
少女は、「はい」と言って頷くと、ハンバーガーを差し出した。
虫取り屋はそれをおずおずと受け取ると、膝に置いた。まだ、温かみが残っている。出来立てのファストフードだった。
彼がハンバーガーを受け取ったのを確認してから、理沙は自分の分を袋から取り出した。まぁるい紙包みを開くと、肉汁とケチャップの匂いが漏れてくる。
理沙は、小さな口を開けると、カプッと一口噛み切った。口の中で咀嚼すると、旨味が広がった。思わずそのまま飲み込んでしまう。
彼女は、次にコーラの紙コップにストローを突き刺すと、これも一口分吸い上げた。炭酸特有の弾ける感触が、口の中を刺激した。逃げ回っている間に忘れていた感情が、込み上げてきそうになる。
そんな理沙の行動を、虫取り屋はじっと眺めていた。その視線を感じたのか、理沙はニコリと笑うと、
「虫取り屋さんもどうぞ。美味しいですよ」
と、言ったのだ。
「そうか……。これは美味しい喰い物なんだな」
ハンバーガーを手に持ったままの虫取り屋の言うことは、とりとめがなく、理沙にはいまいち意味がよく分からなかった。
尚も見つめる少女の瞳に諦めがついたのか、虫取り屋は左手の烏龍茶のカップにストローを突き刺すと、理沙と同じように、中身を吸い上げた。独特の渋みを持った液体が、彼の口の中を潤した……かどうかは、彼の表情からは分からない。
虫取り屋を知っている人間なら、彼が飲み食いをしているのを初めて目にしているかも知れない。そんな光景だった。
続いて彼はハンバーガーの包を開くと、理沙と同じように噛み付いた。そのままムシャムシャと咀嚼している。虫取り屋が握っていると、出来立てのハンバーガーも、ゴミのように見えるから不思議である。傍目には、楽しい食事をしているようには、到底思えなかった。
「うまいな」
彼は咀嚼物を飲み込むと、一言だけ、そう言った。この男から、こんな言葉が聞ける事は脅威に値する。
その言葉を言わせた少女は、
「そうですか。良かった」
とニッコリと微笑むと、自分の分を食べ始めた。
屋外で吹き付ける風に、彼女のセミロングの黒髪が流れては揺れていた。暗がりではあるが、こうやって今一度見直せば、理沙は可愛い少女だった。何故、こんな可憐な少女が、何から逃げていたのだろうか……
しばらく経って、ひとしきり食事を終えると、理沙は両手を組んで頭の上に挙げて、大きく伸びをした。
「お食事、おごってもらってありがとうございます」
理沙は、そう言って、お辞儀をした。
「お嬢ちゃん、あんた、どうして逃げてたんだい? オレはあんたを何から助ければいい?」
と、虫取り屋が、彼女に訊いた。
訊かれた方の少女は黙りこむと、俯いてしまった。
そのまましばらく時間が経った時、彼女はゆっくりと話し始めた。
「あ、……あの、信じてもらえないでしょうが、……わたしは、……」
そこまで言った時に、彼女は急に虫取り屋に抱きつかれ、ベンチから転げ落ちた。驚愕する少女を何も気にしていないように、虫取り屋は立ち上がった。
「もういい。分かった」
虫取り屋がつぶやくようにそう言うと、さっきまで座っていたベンチが真ん中で砕けて真っ二つにはじけ飛んだ。
「いやー!」
少女の悲鳴が、暮れなずんだ公園に響く。
虫取り屋は、理沙を背後にかばうと、『それ』と対峙した。
砕けたベンチの向こうに立っていたのは、頭に二本の醜悪な角を生やし、怒りに満ちた表情をした『鬼』であった……