発現(1)
「ふん、ふん、ふん、ふふ〜んふ〜ん」
理沙は、いつになく上機嫌であった。
ここは、商店街の近くに見つけたコインランドリーだ。彼女は、念願の着替えと、荷物入れのリュックまで買ってもらったのだ。まぁ、多少は行き違いもあったりしたが、『終わり良ければ全て良し』である。
理沙は買物の後、駅の公衆トイレで着替えを済ますと、汚れ物の洗濯をすることにしたのだ。今は、萌葱色のワンピースに、ニットのベストを着ている。足下は茶色のショートブーツであった。今まで履いていたスニーカーは、靴専用の洗濯機で洗っているところだ。
(良かったわ。着替えも下着も、それにリュックまで買ってもらえるなんて。ようやく、わたしにも運が回ってきたのかしら)
理沙は、コインランドリーの椅子に腰掛けてファッション雑誌を眺めながら、そんな事を考えていた。そして、チラと左隣に立っている『人物』を見上げると、
(折角なら、格好良い男の人も用意してくれていたら、満点なのになぁ)
などと、不遜な事まで思っていた。
傍らの人物とは、虫取り屋の事である。
コインランドリーの中は暖房がかかっているというのに、相も変わらず彼は、古びた黒のコートを羽織ったままだ。無防備にも、両手はコートのポケットに、深く突っ込んでいる。そして、くたびれた鍔広の帽子の影から覗く瞳は、まるで腐った魚のように全く覇気を感じられない。今も、焦点の定まらない眼差しを、宙に投げかけていた。
理沙は、そんな虫取り屋を椅子から見上げると、こう言った。
「虫取り屋さんも、服を洗濯したらどうですか」
確かに、彼の着ている服は、古びてくたびれている。見るからに、年期の入った汚れが染み付いていそうである。
しかし、少女の問に、虫取り屋は彼女を一瞥だにせずに、
「必要ない」
と、無機質な一言で済ませた。
(まぁ、そう言うだろうと思ってたけど……)
理沙は、胸の内でそう思った。残念な見栄えの虫取り屋でも、コートとジャケットだけでも洗濯をすれば、少しは普通の人間らしく見えるだろうに。
しかし、彼は、自分の見てくれなどには全く関心が無いという風情で、ボンヤリとその場に突っ立ったままだった。神工知能アカシアのデバッグプログラムである虫取り屋には、『人間らしく』しておく必要性など、微塵も考えていなさそうであった。
理沙も、洋服代を払ってもらった以上、ネチネチとイヤミまで言うつもりなどは無かった。
彼女は、「ふぅ」と溜息を吐くと、椅子に座り直した。背中側では、壁に作り込まれている全自動洗濯乾燥機が何台か、ゴウンゴウンと音をたてて、自らの使命を全うしているところだ。
ふと雑誌から目を上げると、通りに面したガラス壁に、彼女の姿が薄ぼんやりと映っていた。
理沙は、生まれ変わった自分の姿を眼にして、満足の笑みを浮かべた。やはり、女の子だったら、こうでなくちゃ。
そんな彼女の似姿の隣には、ボヤッと棒立ちになっている虫取り屋の姿もあった。ガラスに映ったその姿は、本体以上にボヤケていて、更に存在感を無くしていた。
(にこやかにしてくれとは言わないけど、もう少しは表情が有った方が人受けがするのになぁ)
彼女は、人間らしさどころか、生命力すら感じられない、ゾンビのような──いやゾンビの方がまだ活力を持っているだろう──虫取り屋の姿にウンザリした。これが自分の相棒──ボディーガードだとは……。何度見返しても、この貧相な男が、人外の怪異──鬼をも倒すことの出来る戦士であることに、納得がいかなかった。少なくとも、知り合いに胸を張って紹介できるような人物ではない。
理沙は、もう一度、深い溜息を吐くと、誌面に視線を戻そうとした。
その時、傍らからボソリと呟くような声がした。
「例のパンツじゃないんだな……」
少し残念そうな虫取り屋の言葉だった。
理沙は、「えっ」と思って、再び視線を目の前のガラス壁に戻した。椅子に座っている自分の姿が映っている。視線をそのまま少し下に向ける。少し短めのワンピースの裾の奥に、彼女の生足が見て取れた。少し膝が開いている。そして、その奥には……。
理沙は「あっ」と口走ると、急いでワンピースの裾を、持っていた雑誌で押さえつけた。同時に、両膝を閉じる。彼女は、ムッとして隣の虫取り屋を見上げると、
「何見てるんですか! エッチ」
と、罵声を浴びせた。羞恥で頬が上気していた。耳まで赤くなっている。
「いや、何とはなく、見えたもんだから……」
だが、虫取り屋の言い訳は、何の悪びれも無いような、いつも通りの低い呟くような声だった。
「たとえ見えそうでも、見ちゃいけません。もうっ、ほんっとうにデリカシーが無いんだから」
理沙は口を膨らませると、虫取り屋に抗議をした。
「そうか? だが、例の黒いやつの方が、お嬢ちゃんには似合うと思うがな」
彼女の訴えをものともせずに、彼はこう呟いた。その声は、か細く、低く、今にも洗濯機の騒音で掻き消されそうだった。それも、理沙には気に入らなかった。
「別に、虫取り屋さんの好みに合わせるつもりはありません。それより、女の子の下着を覗き見するなんて、ヒドイです。変態です。犯罪です」
彼女は、勢いもあって、そう罵声を浴びせかけた。
(くぅぅぅ。失態だ。新しい洋服を買ってもらって、気が緩んでいたんだわ。クヤシイ)
彼女は、膝の上の雑誌に目を戻すと、奥歯を噛み締めた。少し涙目になっている。
──ピー
その時、室内に電子音が響いた。靴の洗浄が終わったらしい。
彼女は、再度、キッと虫取り屋を睨みつけると、バンと乱暴に椅子から立ち上がった。部屋の中央のテーブルに、読んでいた雑誌を無造作に置くと、ランドリーの隅にある小型洗濯機に向かった。
(くそ、くそ、くそっ。もうっ、恥ずかしい)
理沙は、恥辱と憤怒で赤くなりながら、洗濯機の蓋を開けた。中には、彼女のスニーカーが、ブラシの付いた洗浄棒に引っ掛かっていた。彼女は、洗濯槽からスニーカーを引っ張り出すと、洗濯機の上部にセットされている靴専用の乾燥機の扉を引き開けた。曹内の金具にスニーカーを引っ掛けると、扉を締め、百円玉を二個投入した。
百円で二十分。二個なら四十分の乾燥だ。それだけ乾かせば、湿気も飛ぶだろう。
まだ赤い顔をしている理沙は、靴用の乾燥機を後にすると、再び虫取り屋のところまで戻ってきて、椅子にドッカと音をたてて座った。わざとである。こうやって、「わたしは怒ってるんだぞ」って云う自己主張をしたのだ。
しかし、思春期の少女のささやかな自己主張にも、虫取り屋は全く動じなかった。相変わらず、ボンヤリと店外を眺めているように見えた。
「もうっ」
理沙は、そう言って「ぷい」と虫取り屋に背中を向けた。
(もう、知らないんだから)
機嫌を損なわれた彼女は、気を取り直してテーブルのファッション雑誌を手に取ると、再度それを眺め始めた。
誌面には、様々な洋服を着こなしたモデル達が、ポーズをつけていた。自分と同い年くらいの女の子も、歳相応のキュートな洋服で着飾っていた。
(あ、この娘の髪型、カワイイな。わたしにも似合うかなぁ)
理沙は、紙面の中の一人に目を止めた。彼女は、背中まで伸びた栗色の頭髪を、複雑に結い上げてあった。アクセントのシュシュも極っている。
理沙は、それを眺めながら、『胸前まで』垂れ下がっていた髪の毛を、左手の指でクルクルと玩んでいた。
そうしているうちに、ふと気がついた。
(えーっと、この前、髪を切ったのはいつだったっけ?)
もう何ヶ月も、美容院の類には行っていない。風来坊だった理沙には、行きつけの美容院も、ヘアスタイルを整えるための予算も無かったからだ。しかし、髪の毛は、ある程度短くしてまとめておかなければ、取っ組み合いにもつれ込んだ時に不利となる。兄からも、『髪は伸ばし過ぎるなよ。せめて、セミロングまでにしておけ』と、言われていた。
そのため、理沙は『現在』の長さを維持するようにしていた……筈だ。だが、いつ髪を切ったのかを思い出せない。
彼女は、何の気無しに髪を巻きつけている『胸前』の左手を見た。
(栗色? わたし、染めてたっけ?)
頭髪は黒かったはずだ。そもそも、髪を染めるなんて贅沢が出来るはずがない。
理沙は、眼にかかる前髪を鬱陶しく思って、手で掻き上げた。
(あ、あれ? わたしって、前髪を伸ばしてたっけ?)
何かしらの違和感を感じて、彼女は傍らのリュックの中から小型の手鏡を取り出すと、自分の顔を映してみた。
(え? これが、わたし?)
そこに映っていたのは、見知らぬ少女であった。明るい栗色に染まった長髪は、背中の半ばまで伸びていた。憂いを帯びた目の下に、微かに隈が出来ている。肌はやや青白く、若干頬が痩けていた。今は、それが理沙だった。
(そうだ、そうだったっけ。わたしって、こんな顔してた。……うん、間違いない)
ようやく、理沙の記憶と、鏡の中の顔が一致した。
長い放浪生活で、髪を切る暇など無かったのだ。その所為で、今では、もう少しで腰に届くほどまで伸びてしまっていた。栗色の髪の毛は、生まれつきである。小学校の頃から、「染めているのではないか」と先生に注意されたり、男の子にからかわれたものだ。
ようやく自分の容姿に納得した理沙は、再び誌面に眼を戻した。心の整理をつけるように、ゆっくりとページを捲る。
そんな時にふと目に止まった少女は、ポニーテールに纏めた頭を振りかぶっていた。挑戦するような鋭い眼差しが、誌面から理沙を睨めつけていた。頬が少し紅潮している。きっと、撮影の時には気温が低かったのだろう。
次のページに進もうとした時、理沙は、ブルッと身を震わせた。コインランドリーの中は、暖房がかかっていたはずだ。温度が再設定されたのだろうか。……いや、違う。確か、ここに入った時から寒かった筈だ。
理沙は、もう一度鏡の中を覗いた。そこには、ふくよかな頬をほんのりと赤くした少女の顔があった。彼女は、鏡の奥から挑戦するようなその眼差しで、理沙を睨んでいた。長いまつ毛が印象的である。
(え、あれ? これが……、わたしなの? じゃぁ、さっきのは……)
理沙は、もう一度、自分の記憶と鏡に映る少女のそれを照合しようとした。
(あ、なんだ。気の所為か。……わたしって、こんな顔だったよな)
小さい頃は、この挑戦的な目つきの為に、よく兄とケンカになったものだ。自分の記憶に間違いが無いことを確認すると、理沙は納得した……つもりだった。
──しかし、何かおかしい
自分という存在が、何か不安定で、あやふやなモノであるような気がした。だからだろう。彼女は、振り返って虫取り屋を見上げると、
「虫取り屋さん。わたし、変じゃないですよね」
と、つい訊いてしまった。
その言葉に反応して理沙を一瞥した虫取り屋の目は、大きく見開かれていた。いつもの腐った魚のような淀んだ瞳が、初めて焦点を結んでいる。
「お嬢ちゃん、一体何をしている!」
虫取り屋は、いつに無く強い口調で理沙を恫喝すると、両手で彼女の肩を掴んで椅子に押さえつけていた。
「え? 痛い。虫取り屋さん、何をするんですか。痛いです」
尋常でない雰囲気を感じた理沙は、そう言って虫取り屋の手を振り離そうとしたが、人智を超えたその力に、どうしても抵抗することが出来なかった。
一体、虫取り屋に──いや、理沙に、何が起こったと云うのだろう……




