鬼々怪々(10)
「お客様、どうかなさいましたか?」
──ハッ
女性店員の声で、理沙は我に返った。
彼女は、今、目の前の鏡に映る自分の姿を見つめていた。
白いブラウスを着て、自分でボタンを留め終えたところだ。
「あ、何でもありません」
理沙は慌ててそう答えると、ブラウスの裾を急いでスカートに押し込んだ。
彼女は、さっき胸のサイズを測ってもらって、下着を試着したところだった。脇の下から背中にかけて、メジャーが当たったひんやりした感触が、まだ残っているような気がした。
理沙は屈んで、床に脱ぎ捨ててあったセーターを拾うと、腕を通し始めた。
何気なく、鏡に映る首元を凝視した。白く細い首には、何かしらの異常も認められなかった。
──えっ? どうして?
彼女は、そこで違和感を感じた。「どうして首なんかが気になったんだろう?」と、何でもない事が頭の片隅にこびり付いている。
──何かが違う……
そんな思いが、少女の脳裏を横切った。
虫取り屋は、「鬼達が襲来した」と言って、この空間を隔離して消えてしまった。理沙は、この閉鎖空間となった下着売り場で、替えの下着を買おうとしていたのだ。
事実、足下の灰色の買い物カゴには、ショーツと靴下、そして今選んだばかりのブラが二つ、入っていた。
「お客様、可愛らしくて、よくお似合いですよ」
そう言ってくれた女性店員の笑顔を、今も覚えている。記憶には、どこにも齟齬は……無い。
理沙は頭を左右に振ると、何かを吹っ切るようにして、セーターを頭から被った。首に纏わりついた髪の毛を、両手で掻き上げると、後ろに流す。ヘアスタイルを鏡で確認。
(うん、よろしい)
それから、ハンガーに引っ掛けておいたスタジャンを手に取ると、袖に手を通した。二〜三回裾を払って形を整えると、もう一度、正面の鏡を眺めた。
いつも見ている自分の姿が、そこに映っていた。その場でクルリと一回転したものの、外傷や綻びなど、危害を受けた痕跡は認められなかった。
しかし、何だろう。不安感が、彼女の頭の中から抜けない。
──何かがおかしい。何かが間違っている。
そんな感覚が、どうしても理沙の心の片隅に残ってしまうのだ。
虫取り屋が消えて……、下着売り場を巡って……、そして、レジの女性店員に声をかけた……。彼女に試着室まで案内されて、胸のサイズを測ってもらった。その為に、彼女は上着を脱いだのだ。全て覚えている。
そして、店員がメジャーを、理沙の胸の周りに巻いて……。そして、……そうだ、「大きな胸ですね」と、言ったのだ。「形も良くて羨ましい」って。それを聞いて、少女は恥ずかしくて赤くなった。鏡には、頬を染める自分の顔が映っていた。
(これじゃぁ、まるで乙女だ)
鏡を見た彼女は、そんな気がしたのを脳裏で確認した。
──どこも間違ってはいない
そしてその後、店員がいくつか候補の品を持ってきてくれた。
「こんな大人っぽいのは、ちょっと……」
少し派手なブラを薦められて、理沙は困ってしまった。恥ずかしいし、何よりも手持ちのお金が限られていた。店員の薦める品物は、確かに素敵だったが、見るからに高そうであった。
「大丈夫ですよ。お客様のような方は、少し冒険しないと。もう、意中の人とかがいるのでしょう?」
人の良さそうな店員がそう言っていた……はずだ。どこにも、おかしなところは無かった。
しかし、次の瞬間、理沙は少し眼が眩んだような気がした。
──記憶の断片の、何かが……。そう、作り物のような気がして、現実感が無い。
「お客様。どうかなさいました。……カーテンを開けますよ。よろしいですか?」
試着室の外から、件の女性店員の声が聞こえた。
「あっ、はい、大丈夫です」
理沙がそう答えると、試着室のカーテンが少し開いて、女性店員の顔が覗いた。
美人とまでは言えないものの、人懐っこくって愛嬌のあるその顔は、確かに理沙がレジで見つけた店員の顔だった。
穴の開くような形相で自分を見つめる少女に、彼女は少し怪訝な顔をしながら、
「どうかなさいましたか?」
と、問い掛けてきた。
(大丈夫。何でもない。おかしな所なんて無い)
声だけでなく、店員の顔を直接見れたことで、理沙は安堵した。
「何でもありません。選んでくれたものが、わたしに似合うかなぁって、ちょっと想像してたんですよ」
理沙は、少し慌てて、そう取り繕った。
「何をおっしゃいます。お客様くらい可愛らしい方なら、何を着けてもお似合いですよ」
店員は、半ば冗談とも取れるような、お愛想で応えた。
理沙も、そんな彼女の笑顔で安心した。そして、もう一度鏡の方に振り返った。
鏡の中に、理沙の顔と、女性店員の顔が、並んで映っている。
──何も、どこにも、問題なんて……ない
理沙がそう思った刹那、鏡に映る店員の顔に、ドス黒い異形の相が重なった。
「ひっ!」
少女は思わず悲鳴をあげると、半回転して背中を鏡に預けた。正面には、カーテンの隙間から覗く店員のまぁるい顔が浮かんでいる。
「ど、どうかなさいましたか?!」
彼女は、突拍子も無い理沙の態度に、何事かと思ったのだろう。少し驚いた表情をしている。
理沙は、そんな女性店員の顔を、眼を大きく見開いて凝視していた。そこに、鏡に映ったような異形の存在は、見て取れなかった。ごく普通の人間の顔である。『ドス黒い色の肌』も、『鋭く尖った牙』も、『醜悪にねじ曲がった角』も、そこには存在していなかった。何よりも、彼女には、あの『憤怒の表情』が欠けている。
──怒りに満ちた憤怒の表情──それは、彼等『鬼』を『鬼』たらしめている、欠くことの出来ない無二のモノであった。
「あっ、ごめんなさいっ。ムシみたいなモノが見えたような気がして、ビックリしちゃったんです。驚かせて、すいません。……あっと、お会計、お願いできますか」
理沙は、なんとかその場を取り繕った。不思議そうな表情で、女性店員は、足下の買い物カゴを取り上げると、
「では、こちらにおいで下さい」
と、接客スマイルを取り戻すと、試着室のカーテンを開け放した。
天井の明るい蛍光灯の光が、試着室の中に差し込む。理沙は、少し眼を細めると、もう一度振り返って試着室の中の鏡を見た。
(間違いない。アレは、『現実に起こった事』なんだわ)
──理沙の脳裏には、二種類の記憶が同時に存在していた。
ひとつは、店員にサイズを測って貰って、下着を選んでもらった事──
そしてもうひとつは、鬼へと変化した店員に、首を締められた事!
そう、確かに理沙は、ここで鬼に襲われたはずだ。
温厚そうな女性店員は、あの醜悪な鬼に変貌した。そして、手に持ったメジャーを少女の首に巻きつけると、それで締め付けてきたのだ。理沙の首には、肌に食い込む樹脂製のメジャーの感覚がありありと残っていた。鏡で見ても、手で触れて確認してみても、何の痕跡も無い。しかし、確かに首を締められた筈だ。その記憶は、今、鮮明に彼女の脳裏に存在していた。
理沙は、左手を額に当てると、その場に屈み込んでしまった。
(何が、起こったの……。記憶が、二つある。鬼に襲われた記憶が。わたしは、鬼に襲われて、……そしてどうなったの)
理沙の頬を、汗の雫が伝っていた。ふと、手の甲に眼を止めると、鳥肌が浮かんでいる。それを見て、彼女は<ゾッ>とするのが分かった。震えをおぼえる程に体感温度は下がっているのに、背中からは脂汗が噴き出しているのが感じられた。
理沙は、今一度、鏡を見つめた。そこには、真っ青な彼女の顔が浮かんでいた。気を取り直して歯を食いしばる。そして、気力を振り絞って立ち上がった。
──こんな事で負けてはならない
理沙はようよう立ち上がると、両手で頬を叩いた。しっかりしなくては。そして、何でも無い顔を作ると、レジに向かった。
ポスシステムの横のテーブルには、選んだ品を包装したポリエチレン製の袋が置かれていた。
「合わせて、18,521円になります」
店員がにこやかにそう言うのを聞いて、理沙は右手をスタジャンのポケットに入れた。そこには、虫取り屋が潜ましてくれたクシャクシャの一万円札がしまってあるはずだ。
理沙がポケットを弄っていると、耳元で、
「これでお願いする」
と、呟くような声が聞こえた。
「ひっ、ひゃぁっ!」
思わず理沙は、悲鳴をあげてしまった。
「どうした? 何故、そんなに驚く?」
飄々としたその声は、虫取り屋のモノだった。
「いっ、いつの間に。って、どうしてココにいるんですか! 女性の下着売り場ですよ」
と、理沙は、すぐ隣に立つ黒いコートに言葉を投げつけた。
「別に……。買物は済んだようだな。代金は、オレが払っておこう」
そう言う虫取り屋の指には、真新しい一万円札が二枚挟まっていた。
「では、二万円、お預かりしますね」
そう言う店員の態度は、少し不機嫌なモノだった。きっと、虫取り屋の風体が、彼女の気分を害したのだろう。一緒にいる理沙を見つめる眼まで、さっきとは様変わりしていた。まるで、不快なものを見るかのような目付きであった。
「レシートとお釣りをお確かめ下さい」
そう言って、店員はぶっきらぼうに、釣り銭を白い紙と共に差し出した。無言で差し出した虫取り屋の左手に何とか触れないよう、店員はお釣りを振り落とそうとしていた。どうにかして、「目前の客と視線を合わさないように」と苦労しているのが分かる。虫取り屋の腐った魚のような淀んだ眼差しに、居たたまれなくなったのだろう。
(まぁ、しかたないかぁ)
さっきまで、恐怖で心が折れかけていた理沙だったが、虫取り屋の出現で、それも何処かへ吹き飛んでしまった。
「虫取り屋さんたら、遅いですよ。わたしをガードしてくれるんじゃ無かったんですか! わたし、さっき、凄く怖い目に遭ったんですよ」
理沙は、少し苛立ったような声で、脇に立つ帽子の男に話しかけた。
「…………」
彼女の言葉にも、虫取り屋は無言だった。『全く興味が無い』と云う感じで、その焦点の定まらない眼差しを、宙空に向けていた。
「っもう。虫取り屋さんったら。もう、いいです」
少し怒った口調で理沙はそう言うと、テーブルの上の袋を取り上げて、レジを後にしようとしていた。そんなふくれっ面の少女の背中から、か細い、囁くような声が聞こえた。
「……お前、能力を使ったのか……」
「えっ?!」
予想だにしなかったその言葉に、彼女は思わず振り返ると、
「虫取り屋さん、今何て!」
と、問い返した。
しかし、彼は、そのぼうとした眼差しを宙に向けたまま、理沙の期待していたような答えを発することはなかった。




