鬼々怪々(8)
シャワーで身体を洗い終えた理沙は、虫取り屋とともにネットカフェの食事スペースに来ていた。
彼女の目の前には、昔ながらのオムライスが皿に乗っていた。サイドには、野菜サラダ。和風ドレッシングがかかっている。
向かいに座っている虫取り屋は、カレーライスであった。理沙が薦めた、大辛の特製カレーだ。
「虫取り屋さん、お味はどうですか?」
理沙は自分で薦めておいて、そう尋ねた。今までの不遜な虫取り屋の態度に頭にきていた彼女は、仕返しに辛口カレーを彼に食べさせようと云う魂胆であった。
そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、虫取り屋は淡々とカレーライスを口に運んでは、咀嚼し、嚥下していた。
「辛いな……」
何口目かを口にした虫取り屋は、棒読みにそう応えた。傍目には、辛さなど、ものともしないように見えた。
(ふふん。辛口の特製カレーは、食べた後から辛さが際立ってくるのよ。少しは反省すればいいんだわ)
そんな理沙のイジワルにも、虫取り屋の表情は、一向に変わる様子が見えない。
彼女は、オムライスを飲み込むと、もう一度尋ねてみた。
「辛いのは、大丈夫なんですか?」
虫取り屋は、平気な顔で淡々とカレーを食べ続けている。
「香辛料が、ふんだんに使われているな。インドの東南部では、このような味が好まれているそうだが」
これが、彼なりの感想なのだろう。
「も、物知りなんですね」
理沙は、辛さに平気な虫取り屋を少しばかり残念に思ったが、それは顔に出さないようにしていた。
「うむ。データベースを検索したら、そう言う回答だった」
彼は、辛さなど全く感じないように、淡々と応えた。
「データベース? ですか。それも、アカシアの機能なんですか?」
理沙がこう返すと、虫取り屋は、少し顔を上げた。
「そうだ。膨大な情報量を持つアカシックレコードを効率よくリーディングするには、高速なDB検索機能は必須だ。アカシアには、その創られた当初から『超高速DB検索システム』が実装されている」
と、さも当たり前のように応えた。
(ふぅん。そうなんだ。そのうち、わたしにも使えるようになるのかなぁ)
などと、理沙はオムライスを口に運びながら、考えていた。
彼女は、いつの間にか、虫取り屋への『仕返し』の事を忘れてしまっていた。その代わり、大事な用件がある事を思い出した。
理沙は、チラッと虫取り屋の顔を覗くと、こう声をかけた。
「あ、あのう、虫取り屋さん。お昼の後、ちょっとだけ、付き合ってもらってもいいでしょうか?」
少し恥ずかしそうな理沙の態度に、珍しく虫取り屋が反応した。彼は、カレーを食べる手を止めると、
「何だ、お嬢ちゃん。大事な事か?」
と、返事をした。それに対して理沙は、少しモジモジしながら、こう応えた。
「えっとぉ、今のうちに、身の回りの物を買い足しておきたいんです。きがえとか、キガエとか、着替えとか……」
それを聞いた虫取り屋は、少し思案するように首を傾げた。彼が、まともな人間のような反応をするのは、貴重な現象と言える。
それを起こさせた本人は、全くそれとは気が付かずに、
「だ、ダメでしょうか?」
と、おずおずと尋ねた。
訊かれた方の虫取り屋は、ヨレヨレのジャケットのポケットを弄りながら、
「そうだな。買物ぐらいなら良いだろう。奴等も、そうむやみに襲ってはこないだろうし」
と、応えた。
それを聞いた理沙は、顔をパァッと明るくすると、
「虫取り屋さん、ありがとうございます」
と、言った。これが、さっきまで復讐を考えていた当人とは、彼女自身も忘れていた。
「年頃の少女というものは、ショッピングというものが大好きだという。これから先、あまり良い事ばかりでは無いだろう。今のうちに、息抜きをしておくのも良いだろう」
相変わらず、無味乾燥で独り言のような虫取り屋の言葉だ。
よくよく内容を吟味すると、身も蓋もない返事だったのだが、理沙はそんな事よりも買物が出来る事が嬉しかった。
そんな理沙を無視するように、虫取り屋はカレーライスを食べ終わると、最後に紙ナプキンで口の周りを拭いた。そして、それを丸めると、空になった皿に放り込んだ。そして、ボソリとこう言ったのだ。
「そのう、何だな……」
その言葉に、理沙は不思議そうに返事をした。
「何がですか?」
すると虫取り屋は、
「カレーライスと云う食べ物も、……美味いな」
と、満足げに言ったのである。
「はぁ……」
理沙は、味覚など無いように思えた虫取り屋が、そんな言葉を発したことに呆気に取られていた。
──そして今、理沙は虫取り屋と二人で、近くの洋服屋に来ていた。
高そうなところではない。何処の町にもあるような、全国チェーンの普段着などを売っている洋装店であった。
「あっ、これカワイイ。どうですか、虫取り屋さん。似合ってますか?」
理沙は、薄桃色のニットのセーターを見つけると、身体に合わせてみた。
「ん? そうだな。暖かいだろうな」
彼は、全く興味がないと云う感じで、つまらなそうな返事をした。
「ん、もう。虫取り屋さんたら。こういう時は、『カワイイね』とか『似合ってるよ』とか、気前の良い褒め言葉を並べるんですよ。そんなんじゃ、彼女が出来た時に困りますよ」
と、理沙は、つれない態度の虫取り屋に、そう言った。
「彼女か……。それは、良いモノなのか?」
どう考えても『彼女』には縁の無さそうな男の答えが、これであった。
理沙は、少し不貞腐れると、店内を歩き始めた。
「あっ、これもカワイイ」
目に止まったのは、星の飾のついたピンドメであった。
彼女は、それを手に取ってはみたものの、軽く溜息をついて、元に戻した。
今は、こんなモノを買う余裕は無い。オシャレは、ゆとりのある者の特権だ。自分には無い。
「買わないのか?」
虫取り屋は、そんな彼女の態度に興味を示したのか、そう言った。しかし、彼の目は淀んでいて、全く焦点が定まってはいない。とてもじゃないが、興味があるようには見えなかった。
「これは、今度来た時で構いません。……今度があるかは、分かりませんが」
そう言う理沙の顔は、少し沈んでいるように見えた。そんな理沙を、虫取り屋は、相変わらずボウっとした瞳で眺めていた。
理沙は、吹っ切るように顔を挙げると、本命の売り場を目指した。下着売り場である。
虫取り屋も、危なっかしい足取りで彼女の後に続く。左手にはねずみ色の買い物カゴを下げていた。
「何だ。これが欲しかったのか……」
女性用の下着売り場の前で、虫取り屋がボソリと言った。
少女は、顔を赤らめると、
「そんなんじゃありません。ってか、こんなところにまで、着いて来なくて大丈夫です」
と、声を荒げた。しかし、虫取り屋は、
「いつ奴等が襲ってくるか分からん。オレは別に何とも思わん。好きな物を選べ」
と、呟くように応えた。
「わたしが恥ずかしいんですっ!」
そんな彼に、理沙は真っ赤になりながら怒鳴った。
「別に、オレは、お前がどんなパンツを履いていようと気にはしない。……ふむ、では、ああゆうのはどうだ」
虫取り屋は、そんな理沙の態度を気にもせずに、近くのマネキンを指差した。大人っぽい、黒のレースの下着を着けていた。
「あんな恥ずかしいのは、履けません」
理沙は、自分の耳が赤くなるのが分かった。
「別に、誰かに見せる訳でもあるまい」
虫取り屋は、理沙の心の内など眼中に無いように、そう応えた。
「そ、そうですけど。は、恥ずかしいじゃありませんか」
理沙は、大人っぽい下着から目をそらすと、そう応えた。
「恥ずかしい? どうしてだ? 誰かに見せるからか?」
この問題は、虫取り屋のツボにでも入ったのだろうか。今の彼は、やけにひつこかった。
「見せる訳ないでしょう! それとも虫取り屋さんは、あんなセクシーな下着が好みなんですか」
理沙がこう反論すると、
「別に、オレには、あんな物を履く趣味はない。……もしかして、履いているところを、オレに見せたいのか?」
とうとう虫取り屋は、あらぬ事を口走った。
「見せません。見せる訳ないでしょう。それより、虫取り屋さんは、どこかで休憩してて下さい。女性の下着売り場に男の人が立っているなんて、恥ずかしいでしょう」
理沙は、穴があったら入りたい思いだった。自分がつける下着を選んでいるところを、虫取り屋に見られるのは恥ずかしかったからだ。
「いや。オレは、別に恥ずかしくはない。それより、大事なのはパンツだ。早くパンツを選べ。うかうかしていると、奴等に付け込まれるやも知れん」
虫取り屋は、無表情に、そして真面目に応えていた。
「パンツ、パンツって、連呼しないで下さい。恥ずかしいでしょう」
理沙は、そんなデリカシーのない虫取り屋と一緒にいることが、恥ずかしかった。
「何を怒っているのだ。……もしかして、履いてないのか?」
またも虫取り屋が、トンデモナイことを口にした。
「そんな筈ないでしょう。ちゃんと履いてますっ」
今度こそ理沙は、顔を真っ赤にして返答した。同時に両手でスカートの前を押さえる。
実は、手洗いをして乾かしてはみたものの、ゴワゴワした感触にいたたまれず、ショーツは履かなかったのだ。スカートの下は、素肌であった。彼女は、その事だけは虫取り屋には絶対に知られたくは無かった。
「お嬢ちゃん、ノーパンは危険だぞ。襲われた時に、動きが制限される。早くパンツを買わなければ」
変なところで勘の良い虫取り屋だった。彼女の返答から、ノーパンである事を察知したのだろうか。
「だからっ、履いてるって言ってるでしょう。そんな事より、あっちを向いていて下さい。恥ずかしくて、選べません」
理沙は、頑なにパンツに興味を示す虫取り屋の気をそらしたかった。これ以上は、恥ずかしい思いをしたくない。だが、そんな彼女の態度には全く気を止めない虫取り屋は、下着売り場でボウっと立ったままだった。
そこに突然、妙な雰囲気の風が吹きぬけた。空調が切り替わったのだろうか……。
いや、違う! この気配は……、
「お嬢ちゃん。残念ながら邪魔が入ったようだ」
虫取り屋は首を左に向けると、ボソリとそう言った。同時に、理沙の目の前の景色が陽炎のように揺らぎ始めた。
「この辺りの空間を隔離した。ココに、奴等は入ってこれない。オレは、奴等を迎え撃つ」
虫取り屋の言葉に、
「迎え撃つって、鬼が来ているんですか。というか、わたしはどうしたら……」
だが、理沙が言い終わる前に、
「お前には、大事な役目がある」
と、虫取り屋はそう言った。と同時に、彼の姿も揺らいで影が薄くなっていった。
「や、役目って? 何をすれば……」
理沙が、溶けるように姿を消しつつある虫取り屋の背中に、問い掛けた。
「パンツを買うのだ。それが、お前の役目だ」
虫取り屋は、この言葉を最後に、その場から消え去った。
後には、ねずみ色の買い物カゴが、ポツンと残されただけであった。




