奇々怪々(6)
<次は終点、駅前南口、駅前南口。お降りのお客様は、お忘れ物の無きようご確認下さい。次は終点、駅前南口>
ワンマンバスの車内に、運転手のアナウンスが響いた。
それを聞いたからだろうか? 理沙は、薄っすらと目を開いた。景色が斜めになっている。それで初めて、自分が虫取り屋の肩に頭を預けて眠ってしまった事に気が付いた。
彼女は慌てて身体を起こすと、傍らの虫取り屋をチラリと一瞥した。
「よう、お嬢ちゃん。お目覚めかい」
彼にそう言われて、少女は耳が熱くなるのが分かった。
いつの間に眠ってしまったのだろう。どのくらい寝ていたのだろう。
それよりも、あのボロボロの風体の虫取り屋の肩に、もたれかかって眠ってしまったのだ。周りの乗客は、一体どう思っただろうか?
そこで、理沙は、車内に自分達以外の乗客が居ない事に気が付いた。そして、何かしら、バスの車内に違和感があるような気がした。
実は、彼女が眠っている間に、乗客に化けていた鬼達に襲われたのだ。しかし、戦闘──いや、虐殺の痕跡は、ほんの一欠片も見つけることは出来ないだろう。アカシック・レコードの記録上では、そんな惨劇は無かったことになっていた。これも、アカシアのデバッグプログロムである虫取り屋の能力の一つだった。
(他の乗客は、わたしが眠っている間に、降りちゃったのね)
理沙は、そう納得した。それ以外には考えられない。
「そろそろ降りるぞ」
虫取り屋は、隣の理沙を一瞥だにせずにそう言うと、席を立ち上がった。
「あ、はい」
理沙も慌てて立ち上がると、虫取り屋を追った。乗車時に取った整理券は、手の中でクシャクシャになっていた。彼女は、それを丁寧に引き伸ばすと、バスの前面のパネルを見上げた。
『520円』
整理券のナンバーから運賃を確認すると、彼女はポケットの中の小銭入れを探った。
その時、目の前の虫取り屋が、
「二人分な」
と言いながら、小銭を料金箱に放り込んだ。
「あ、わたし、払えたのに」
理沙がそう言うと、虫取り屋は、
「小銭がジャラジャラすると、面倒臭いからな。気にするな」
と言って、さっさとバスを降りてしまった。
「あ、待って下さい」
理沙も、慌ててバスのタラップを駆け下りる。
「わたし、バス代くらい払えたのに。すいません」
彼女は虫取り屋に追いつくと、ボロボロのコートの背中に向かって言った。
「気にするな。これからも、こんな時はある。一々気にしていたら、神経が擦り減るぞ」
虫取り屋は、理沙を気遣ってなのかどうか、そんな返事をした。
「あ、……はい。分かりました。あ、あの……ありがとうございます」
理沙が、そう応えて、この一件は終わった。
彼女は、改めて周囲の様子を見渡した。
シャッターの閉まった店舗もあるが、駅前のアーケード街には、そこそこの人通りがあった。
温度の低い風が、足下を通り過ぎる。
理沙は、一瞬「ブルッ」っと身体を震わせると、あることに気が付いた。彼女は、少し恥ずかしそうに見をよじると、虫取り屋に向かって話しかけた。
「あ、あの……虫取り屋さん。少しここで待っていて頂いて、よろしいでしょうか?」
虫取り屋は、理沙の方をチラリと見ると、
「構わんが、どうした? 奴等の出る気配は無いが、気を付けるに越したことはないからな」
と、その腐った魚のような淀んだ眼差しで、棒読みのように呟いた。
彼女は、少し頬を染めると、
「あ、あの、お手洗いに行かせて欲しいんです。す、すぐ戻りますから」
と、事情を口にした。
「お手洗い? ああ、便所か。いいぞ。大でも小でも、ゆっくり済ませて来るといい」
虫取り屋は、そんな風にぞんざいに応えた。理沙は、少し言葉を荒げて、
「そ、そんな事じゃありません。少し、身嗜みを整えるだけです!」
と、反駁した。すると、虫取り屋は、
「排便は重要だ。我慢はよくないそうだ。オレは、……良くは知らんが」
と、ぶっきらぼうに応えた。そんな彼を、理沙は少し腹立たしく思った。
「だから、違いますって。もう、虫取り屋さんには、デリカシーと言うものが分かってません! そんなんじゃ、一生彼女も出来ずに独身ですよ」
と、ピシャリと言い放つと、踵を返して、駅の公衆トイレの方へ歩いて行った。
一人残された虫取り屋は、少女の向かった方をボウっと見やると、一人呟いていた。
「デリカシーとは何だ? あいつは、何を怒っているのだろう……。彼女? それは、良いモノなのか?」
そんな虫取り屋の瞳は、やはり生気を欠いていて、どこに焦点を結ぶわけでもなく宙を向いていた。
一方、公衆トイレの個室に入った理沙は、下着を下ろすと洋式の便器に座った。
「もう、虫取り屋さんったら。レディーに対して失礼だわ。大だの小だの、下品です。……結局は、するけど」
彼女は、ぶつくさとそんな独り言を放っていた。
ふと、履いていた下着に目が止まる。少し汚れが目立っていた。
(あ、やっぱり、替えの下着は買っておかなきゃ。虫取り屋さんと一緒に移動するんじゃ、どこかで手洗いして乾して置くわけにもいかないし。困ったなぁ……)
そう思って彼女は、スタジャンのポケットを弄った。残りの現金は、そう多くはない。いつまでも、虫取り屋に奢ってもらう訳にはいかない。理沙にも、彼女なりの事情があるのだ。
いつもなら、一旦どこかに腰を落ち着けて、バイトでもしたいところだ。しかし今までと違って、今回の逃避行には、ちゃんとした目的地がある。もう、当てのない風来坊ではない。それが、彼女には心強かった。
「早かったな、お嬢ちゃん。便はちゃんと出たか?」
早足で戻って来た理沙に、虫取り屋は、そんな無作法な言葉を、棒読みのように言い放った。そんな彼に、理沙は少しムッとした顔で応えた。
「ご心配なく。滞りありません!」
「排便は大事だ。体調を測る指標にもなる。問題なければ、それでいい。しかし……、何を怒っているのだ? オレに、何か問題があったのか?」
虫取り屋は、悪気があった様子は微塵も見せずに、棒読みのような返事をした。相変わらずぞんざいな彼の態度に、理沙は少し頬を膨らませると、プイッとあさっての方角を向いてしまった。
「ふむ。何かよく分からんが、済まなかった。それより、そろそろ飯時だ。どこかで食事でもするか?」
虫取り屋の言葉は、相変わらずぶっきらぼうだった。理沙の事を気遣っているのかいないのか、さっぱり分からない。
しかし、お腹が空いたのは確かである。
不貞腐れながらも、理沙は駅前のアーケード街を見やると、あるものを見つけた。
「虫取り屋さん、それなら、あそこなんかはどうでしょうか?」
彼女はそう言うと、赤字の大きな看板が掲げられている店舗を指差した。
「ふむ。『インターネット・カフェ』か。情報収集も兼ねられるな。悪くない発想だ」
彼は、字面だけは感心したような言葉を、呟くように話した。どう聞いても、とても褒めているようには思えない。
理沙は、
「インターネットサービスを使った情報収集の他にも、シャワーとかゲームとか、マッサージ機なんてものもあるんですよ。それに、安くてお得感がありますよね」
と、少し自慢げに言った。
「そうか……。なら、あそこにするか」
虫取り屋は、そう言うと、先に立ってすたすたと歩き始めていた。慌てて、理沙も後を追う。
「あん、待って下さい。わたしが見つけたのに」
理沙は、自分の手柄を横取りされたような気がして、悔しくなった。
(もう、この人は。一から十まで、どうしてこんなんだろう!)
彼女は、虫取り屋が、さっきのような言葉を発する事が奇跡にも等しい事を知らずに、そんな風に考えていた。
大股で歩く貧相な男に、やっとのことで追いつくと、少女は不貞腐れた顔で、彼の顔を睨みつけた。
しかし、虫取り屋は、帽子を深く被って、相変わらず焦点の定まらない淀んだ目を前に向けていただけだった。
(この人に、少しでも人間らしいところがあるなんて思っていた、わたしがバカだったんだわ)
この時の理沙は、自分の心が、虫取り屋の言葉や行動でコロコロと変わっている事に、未だ気が付いていなかった。頼れる者達を失い、一人で居た時間が、あまりにも長かったからだ。
常に周囲を気にして怯えていた彼女自身が、徐々に人間らしさを取り戻していたのだが、それを自覚するには、まだ長い時間が必要だった。




