奇々怪々(5)
理沙は虫取り屋とともに、田舎道をゴトゴトと走るバスに揺られていた。
何ヶ月かぶりかで信頼できる者と出会った所為だろう。彼女は、いつの間にか虫取り屋の肩に頭を預けて、うつらうつらと居眠りを始めていた。
そんな理沙の様子をどう感じたのか。虫取り屋は、その腐った魚のような淀んだ眼差しを前に向けて、静かに座席に座っていた。
<次は役場前、役場前。お降りの方は、ボタンを押してお知らせ下さい>
ワンマンバスのアナウンスが、車内に響き渡った。
ボタンを押す者は、誰も居ない。バスは、誰も居ない停留所を減速もせずに通り過ぎた。
その時、枯れ木を砕くような、<ピシッ>という感覚がバスの車内に響いたような気がした。
一瞬の間さえ置かずに、首を項垂れていた虫取り屋の顔が前を向く。
彼は、右肩に預けられている理沙の顔を覆い隠すように、左手で、その額にそっと触れた。
「……う、ううん……」
束の間、理沙が意識を取り戻そうとしかけたが、再び混迷の淵に沈み込んでいった。
虫取り屋は、彼女の頭をそっと持ち上げると、席を立った。そして、理沙を、静かにバスの最後尾の席に横たえた。彼女は深い眠りに落ちているのか、目を覚まそうとはしなかった。
虫取り屋は、そんな理沙を一瞥した後、立ち上がって前を向いた。
そこは、バスの中のはずであるのに、異様な静けさと寒々しさが広がっていた。
薄い金属の板で外界と隔てられてるだけだというのに、バスの車内には、けたたましいディーゼルエンジンの音も、凸凹道を走る振動も感じられなかった。ただ、息を呑む静寂のみが車内に満ちていた。
程なく、座席に座っていた乗客達が、静かに立ち上がった。しかし、彼等は、人間の姿をしていた時の属性からは、かけ離れた存在に変形し始めていた。
ふと、彼等の一人がこちらを向いた。
着ている服はそのままに、中身だけが異形の存在に変化していたのだ。
真っ赤な体色。鋭く伸びた鉤爪。口元からは黄色く変色した牙が覗き、両の側頭部にはそれぞれ二本ずつの角を生やしていた。しかし、それらの身体的な異形よりも何よりも、その強い憤怒の形相が、そのモノの属性を雄弁に物語っていた。
──鬼──冥界の異形のモノ、かつてカミであったモノ
「遂に、ここまで追ってきたか……」
虫取り屋が、何の感慨も見せずに、静かに呟くように言った。
それに呼応するように、乗客達は次々に異界のモノに変形すると、椅子から立ち上がった。そのままゆっくりと、こちらを向く。
三人、四人、……、六人。理沙と虫取り屋を除いた全乗客が、邪鬼へと変貌していた。
それぞれ、ゆらりゆらりと、狭いバスの通路を伝って、最後尾に立っている虫取り屋達に近づいて来る。
運転手は、乗客の変貌に全く気が付いていないのか、淡々とバスを走らせていた。停留所には、バスを待つ者はいない。運転手は、無人のバス停をどんどん通り過ぎて行った。
深い眠りに落ちた理沙と、虫取り屋、……そして異形の鬼と化した乗客達。彼等を乗せたまま、バスは田舎道を走っていく。
外から見える車体はそのままに、車内の空間のみが、日常とはかけ離れた存在になっていた。手強い相手である。移動するバスの車内のみを、異空間に変える。そんな事も、鬼達には難なく出来るのだろうか。
いつの間にか、だらんと垂れた虫取り屋の両手に、赤錆た鎌が握られていた。どこかしらのホームセンターにでも普通に置いてあるような、農作業用の柄の短い草刈り鎌であった。
しかし、いつ、いったい、どこから取り出したのか?
卓越した動体視力を持つ鬼達にも、それは分からなかった。気づいた時には、既に鎌を握っていた。そんな風に、虫取り屋の武器は、突然に現れたのである。
鬼達の先頭にいた深緑の肌をした一本角の鬼が、少し目を細めた。そして、その右腕を高く上に伸ばすと、力強く拳を握りしめた。その握り拳からは、陽炎のような濁った揺らめきをした空気が、細い棒状になって音もなく伸びたように思えた。
と、突然に、緑の一角鬼が右腕を大きく前方に振りかぶった。すると、音もたてずに眼前の座席の背もたれが、真っ二つに引き裂かれたのだ。
「亜空間の刃か……」
虫取り屋が、誰に言うとでもなく静かに呟いた。
それを聞いたからだろうか。緑鬼の口角が少し持ち上がった。彼等流の笑いの表現だろうか? しかし、その憤怒の表情は変わらないまま、そのモノ達は虫取り屋に迫って来ていた。
対して虫取り屋は、鎌を握った両手を自然にだらんと両脇に垂らして立っていた。無策に見えて、どんな方向からの攻撃にも、瞬時に反応できる自然体の構え。
一瞬、鬼達の前進が止まる。
その僅かな一瞬に、虫取り屋の姿が霞んだように見えた。ほぼ同時に、緑鬼も半透明の刀刃を振り下ろした。
音にならない音が響いて、亜空間の刀身は、何の変哲もない草刈り鎌に受け止められていた。
鬼が、初めて憤怒以外の表情を見せた。
それは驚きのようでもあり、困惑のようにも見えた。
──あらゆる物を粉砕・崩壊させて切り裂くはずの亜空間の刃が受け止められた。しかも、何の変哲もない草刈り鎌で!
緑鬼は信じ難い事態に遭遇して、一瞬の間、次の行動を起こすのに躊躇してしまった。そして、それは大きな致命傷となった。
虫取り屋の鎌は、容赦なく鬼の右腕を肩から切り落とすと、返す刃でその首を切断したのだ。頭と腕を失ったソイツは、苦鳴をあげる間もなく、狭いバスの通路に倒れ伏した。傷口から、紫色の異界の体液が、泉のように吹き出している。
──この男、強い
鬼の一派は、虫取り屋の本性を察して、怯んだように見えた。
が、それも束の間のこと。鬼達は、それぞれが手に獲物を持って、虫取り屋に対峙した。
ある鬼は短い果物ナイフを握っている。また、別の鬼はナタを手にしていた。刃物ではなく、その鋭い爪を長く伸ばして振りかざすモノもいた。
この狭い車両の中で、しかもその大部分が座席で塞がれている。これでは、いつもの虫取り屋の、神速とも言える動きが制限されてしまう。
それは鬼達にとっても同じではあったが、数を揃えただけ、分があるように見えた。虫取り屋は、そのハンデを、どうやって埋めようというのか。
狭いバスの通路の後方に、虫取り屋は立っていた。相も変わらず、両腕を左右に垂らした自然体。
それに対して、鬼達はバスの前半部に陣取っていた。
怒りを面に見せたその顔は、更に醜悪になり、憤怒の眼差しを虫取り屋に向けていた。
しばしの間、彼我は動かずに睨み合っていた。
バスが急カーブを曲がっても、内部では生じるはずの遠心力は感じられなかった。もとより通常空間とは異質な場所に隔離されているのである。常識は通じない。
じっと睨み合った中、先に動いたのは鬼の集団だった。それぞれが手にした武器──ナイフやナタ、鉤爪が唸りを上げて、棒立ちになった虫取り屋の姿を襲った。
ぼうっと立ち尽くすのみの貧相な男は、多数の刃物で全身を切りつけられた。だがしかし、それは全て彼の身体を通り抜け、手応えもなく宙を薙いだだけであった。
──残像
虫取り屋は、この狭い車内をどう移動したのだろう。鬼達が気が付いた時には、虫取り屋は彼等の背後──バスの先頭の位置に移動していた。二体の鬼が、首や肩から体液を吹き出して、その場に突っ伏した。
「やるな、お主」
鬼達の中でも一際大きな一体が、振り向きざまに、そう言った。
「随分と流暢な日本語だな。人間界は長いのかい?」
虫取り屋は、棒読みのように、ボスと思しき鬼に問うた。
「それなりにはな。それでも、人間の文化の発展の速さを追いかけるのは辛い。このままでは、我々の存在は、伝承からお伽噺となり果てる。やがては、我らの存在は、忘却の彼方に取り残されてしまうだろう」
その鬼は、そう応えた。
「だから、そのお嬢ちゃんを狙うのかい。あんた達の思惑通りに、事が進むとは限らんぞ」
虫取り屋は、敢えて鬼達に警告をした。
「アカシアのプログラム如きの分際で、大きな事を言いよる。我々が、いつまでもお前達の管理下に留まっているとは思わないことだな。大いなる力を得て、我々の新しき『鬼の王国』を作るのだ」
大鬼は、そう宣言した。
しかし、虫取り屋は、その腐った魚のような眼差しを鬼に向けると、
「そんな事をされちゃあ、困るんだよなぁ。アカシック・レコードに、大きな歪が生じてしまう。それは、雪崩式に時空の歪みを膨張させ、この次元宇宙を崩壊させるだろう」
まさしくその通りなのだ。だからこそ、それを防ぐためのデバッグシステム──虫取り屋が存在しているのだ。
「それがどうした。たとえそうなりそうになっても、『アカシア』は自らを存続するために、変貌した時空を丁度良い状態に安定させるだろう。お前など、はなから必要なかったのだ」
鬼はそう主張したが、虫取り屋の表情が変わることはなかった。
「あんた達は、元々は何の変哲もない、小さなバグに過ぎなかった。千と数百年前まではな。だから、オレも気付くのが遅かった。今となっては、時折出現するあんた等を、チマチマと消去していくのがせいぜいなんだ。あんた等は自分達を誇っていい。こんなにまで、アカシアのデバッグプログラムであるオレを、手こずらしてくれたんだからな」
そう言って、虫取り屋は肩をすくめて見せた。
しかし、鬼達は、それすらも憤怒の形相で以って受け止めた。静寂だった車内に、強烈な悪意を伴った気が荒れ狂い始める。
「そうか……。ならば仕方がない。高レベルのバグと認定する。デバッグを続行する」
虫取り屋は、か細く呟くような声で宣言した。今にも途切れそうな、低い微かな声であったが、どうしてか、鬼達にははっきりと聞き取れた。そして、その言葉は、異形のモノ達の怒りを、増幅してしまったようだった。
ヤツラは、単なる憤怒の表情を見せるだけではなく、高濃度の怒りの波動さえ放つようになった。その波動は、日常から切り取られた異空間をすら震えさせていた。
それに対して、虫取り屋がどんな感覚を受けとったのだろう。それは、鬼達にも分からなかったに違いない。彼は、潰れそうな帽子の下の表情を、一筋も変えていなかったからだ。その腐った魚のような淀んだ目は、一体何を写しているのだろう。
鬼達が、虫取り屋に対し、それぞれの武器を振るおうとした時、空気が動いた。それは一迅の風となって、鬼達の間を吹き抜けていったように思えた。
次の瞬間、虫取り屋は再びバスの最後尾──理沙の横たわっている座席の前に立っていた。両手に握られている草刈り鎌は、紫色の異界の体液で濡れている。
しかし、鬼達は振り返って、それを確認する事は出来なかった。
あるモノは肩口から胸を袈裟がけに切り裂かれ、またあるモノは首を落とされていた。心臓があると思しき胸を刺し貫かれて、血しぶきを上げるモノもいた。
この一瞬の邂逅で、六人の鬼達が、虫取り屋の手にかかったのだ。
異空間内とは言え、バスの中は、口と鼻を覆いたくなるような異様な臭いに包まれた。鬼の血臭である。虫取り屋の術で混迷させられた理沙でさえ、無意識に顔を背け、片手で口元を覆ったくらいだ。
バスの車内には、一瞬前までは鬼の姿をしていたモノ達の部品が、体液にまみれ、床や座席に転がっていた。大量の血糊が、座席のあちこちを覆い、不快な色に染め上げていた。
こんな惨状であるにもかかわらず、ワンマンバスの運転手は、何も気が付かない様子で、飄々と田舎のローカル路線にバスを走らせていた。
「デバッグ完了。これより後処理に入る」
虫取り屋は、独り言のように小さく呟くと、鬼達の残骸に、その淀んだ眼差しを向けていた。




