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中間試験最終日。
最後の答案を提出後、勉強会に参加した俺、昌美、イインチョー、能見の四人はライトの散歩コースとして鼎神社を目指していた。
桜井寺にも声をかけたけど、今日は用事があるのでと丁寧に断りの言葉をもらった。
「試験が終わったばっかりなのに散歩に付き合ってもらっちゃってごめんなさい」
「いーのいーの、気にしないで。ほら、ライトこっちだよー。おいでおいでー」
リードを引かせてもらっている昌美は上機嫌で鼎神社の階段を駆け上る。
「相変わらず元気よね」
先頭で駆けていく昌美とそれを追いかける能見の背中を見ながらイインチョーがため息をつく。
「ま、あれがあいつのいいところだからさ」
イインチョーは周囲を伺いながら声を潜めた。
「結局、三木さんはあの夜のことを覚えてなかったんだ」
「みたいだね」
「ふーん、ちょっと意外。あれだけ見事に大弓を扱っていたから、てっきり九十九として目覚めるのかと思ってたのに。あの弓、間違いなく九十九憑きよ」
鼎神社のご神体であり、かつて都を大いに騒がせた野狐を射殺したあの弓は九十九が宿るモノであるのは確からしい。
相応しい持ち主であれば弓を手にした時に九十九として覚醒しているはずだというのがイインチョーとカナの一致した見解だった。
家格を示す事にもなる九十九は家に仕えているとカナは言っていた。800年もの長きに渡りこの神社に保管されているという事は相当なものだと考えられる。
だが正直な話、スケールが大きすぎてイメージしづらい。
「正直言うと、ちょっとほっとしたよ。あいつまで夜の世界に巻き込みたくなかったし」
イインチョーは同意すると言うかわりにゆっくりと頷いた。それは昼の世界にまだいられる友人の事を大切にしている気持ちの現れでもある。
「あ、そういえばさ、昨日、早貴おねーちゃんから電話あったよー」
早貴さんの名前を聞いて足が止まる。
階段の上から振り向いた昌美の顔をまともに見る事ができず視線をそらす。その先には石造りの立派な獅子――口を開けた角を持たない阿形の狛犬がいた。
早貴さんの姿に変化していた人狐は意識を取り戻した後、俺たちの一方的な要求を涙目になりながら全面的に受け入れた。
夜属三人を相手に対抗しようとするのは勇気ではなく蛮勇だ。冷静で妥当な判断だと言える。
人狐には自身の予定していた通り今回の関係者全員の記憶をつまんでもらい、俺の周辺は平穏を取り戻す事ができた……はずだ。
「早貴さん、元気だったか」
「うん。今度はお盆に帰省するっていってたよ。でもつい最近、おねーちゃんに会った気がするんだけどなー。なんでだろ? あれかな、オデブとかいうやつ?」
「……それはもしかして、デジャブって言いたかったのか」
「あ、それそれ。近かった近かった」
全然、全く、これっぽっちも近くない。っていうか最後の「ブ」しかあってない。
「んでね、この前、また地震があったから、暇だったらおじさんたちといっしょに境内を見回ってくれないかなーだってさ。なんか前にも同じようなことあったよね」
屈託のない顔で昌美は笑っている。
それでいいと思う。こいつは難しい事を考えずに、ただ自分の感情の赴くまま突き進んでいくのが一番いい。
「あ、わかったぞ。それでライトの散歩コースを鼎神社にしたな」
昌美は片目を瞑ってぺろっと舌を出す。
「わかっちゃった? さっすがケージ。あたしのことよく知ってんじゃん」
「ま、付き合いだけは無駄に長いからな」
俺たちは境内を抜けて鎮守の杜に足を踏み入れる。
「先、こっちな」
西側の森を指差す。
「あいよー。いくよ、ライトついといで!」
まるで駆けっこをするかのように走り出す。ライトも尻尾を振ってそのあとに続いた。
サクサクと落ち葉を踏みしめながら鎮守の杜を進んでいく。
「神社の裏手にこんな大きな森があったんですね」
能見はくるくるとダンスを踊るように回りながら、たくさんの背の高い木々を見上げて微笑む。
「原始的な信仰だと自然なままの岩とか山、大きな木なんかには神様が宿っていると信じて信仰の対象にしてきたそうだから。森もその一つで、こういった森自体が信仰の対象だったりするんだそうよ」
相変わらずイインチョーのこの手の解説には淀みがない。
「ねー、なんかあるよー」
先行していた昌美からの声に、イインチョーと顔を見合わせる。
手招いているところまでいくと、この場所で何が起きたのかある程度の察しがついた。
こんもりとした築山の西方に向いた面が大きく崩れている。そちらはかつての都――京都がある方角だ。
鼎神社の由来にはこうある。
――日本全国、六十余州の名山の土を集めて獅子形に仮山を築き、その面を宮中の方角に向け、野狐の霊を慰めるために稲荷社をお祀りした――
まさにここが野狐の眠っていた場所なのだろう。
霊を慰めるための稲荷社は見当たらない。長い年月を経る間に忘れ去られてしまったと考えられる。
祟りやすく人々に障る荒神を祀り上げるのは人間の知恵の一つだ。
そして忘却もまた人間に許された知恵である。それを責める事は誰にもできない。
「他にはなにも見当たらないね」
昌美は右手を庇のようにしてあちこちをキョロキョロと見渡している。
「じゃあ、反対側にも行ってみるか」
「うん! いくよライト!」
「あ、待ってくださいよー」
再び先頭に立ってライトと競争するかのように昌美は走り始めると、慌てて能見が友達と愛犬を追いかける。
「ここで憑かれたんだろうな、あいつ」
「でしょうね」
残された俺とイインチョーは築山を見下ろしながら小さな声で確認しあう。
「もしかして、寂しかったのかな」
「わからないわ。でも仮に寂しかったから三木さんに憑いたのだとしても、許されることじゃないけどね」
「だな」
滅びかけだった精神体の状態で再びあの弓矢を受けた以上、今度こそ復活する事はないはずだ。
この件については一件落着と言ってもよかった。
今度は東側の森を進んでいく。こっちの森にはカナがいた社がある。
「そういえば、あれからカナさんに会ったの」
「いや。テストあったし。怪我は自分で癒すから大丈夫、心配するなって言ってたから」
「ふーん。なんか泉君にしてはちょっと冷たい感じ」
「そうかな」
「そういうところ如才ないっていうか、バランス感覚のいい人だろうなって思ってたから。もしかして、狐につままれたとか?」
「やめてよ」
心底嫌そうな顔をしてみせる。
「しばらくキツネはごめんだよ」
「ふふ、そうね」
東側の森も落ち着いたものだった。周囲の生活音は全く届かない。耳に入るのは風が枝葉を揺らす音と、時折聞こえてくる鳥の鳴き声くらいなものだ。
「このへんって小さいころからぜんぜん変わんないよねー」
昌美と俺は子供の頃にこの森で秘密基地を作った事がある。
確かにあの頃からあまり変わった様子はない。もしかしたらこの森ができた頃からほとんど変化はないのかもしれない。
「お社に到着っと。ここもかわってないかも」
「え、そんなはずないだろ」
地震のせいでお社の石積み部分が一部崩れかけていて、そのせいでカナの封印が綻んでしまったのだから。
「あれ?」
「ね、どこも変わってないでしょ」
昌美の言うとおり、小さい頃に見た記憶のままの状態だった。
しゃがみ込んで崩れていたはずの石積みを確認してみたが、しっかりしたものだ。何百年もそのままだったように苔むしている。
目の前の光景が信じられなかったので、手近にあった頬をつねってみた。
「いら、いらひっへ! なんれあらひのほっへはふねふのほー」
「痛いって事は現実なのか……」
頬っぺたをさする昌美が鬼の形相で睨んでいる。
「あ、いや、別に悪気があったんじゃないんだ……怒るなよ」
断りなく頬をつねっておいて怒るなという方が無理だった。
「ふっ」
昌美の姿が視界から消える。やばいと思った瞬間には懐に入り込まれていた。
ズンと鈍い音と共に体がくの字に折れる。
「今のは泉君が悪いわよね」
「あ、あははは……」
イインチョーに同意を求められて、能見は困った顔をしていた。
「んじゃ、特に問題はなかったっておじさんに報告して帰ろっか。ライト、おいでー」
昌美の足元に絡みつくようにライトははしゃいでいる。
勉強会で昌美を警戒をしていたのは、妖狐の気配を敏感に察していたせいだろうか。なかなかどうして、こう見えてライトの鼻は効くようだ。
「俺たちも行こうか」
「ええ」
「そうですね」
既に背中が小さくなっている昌美を追いかけるように俺たちもこの場を後にする。
そして鎮守の杜は元の静寂に包まれた。
お社のすぐそばにある大木の陰から赤い和服を着た少女の姿を現す。
「精進せよ、ケイジ」
少女は四人と一匹の姿が視界から消えるまでずっと見守り続けていた。
完




