5-3
「あれ……?」
イインチョーは何かが気になるようで、しきりにあたりを見回している。その動きが気になったので、重い体を起こして周囲を見渡してみた。
街灯のおかげでさっきまではシルエットぐらいしかわからなかった社務所や手水舎の外見を確認する事ができる。ぱっと見たところは特に異常などはないようだ。
「何か気になるところがあるの?」
「虫の声が聞こえてこない……拝殿から出てきた時から虫の声はしてなかったけど、カナさんを助けた時にはうるさいぐらい聞こえていたはずよ」
そういえばカナを運んでいる時に虫の音が耳について気になったぐらいなのに、今はさっぱり聞こえてこない。
「この辺から逃げちゃったんじゃないの。イインチョーがすごい光で脅かしたからさ」
一瞬とはいえ昼間のように周囲を明るくしたせいで、虫たちがこのあたりから逃げ出した可能性を指摘してみる。
だがイインチョーは首を横に振った。
「多くの虫は集光性があるからむしろ光に集まってくるはずよ。あれから時間も経ってるし、いつまでも鳴き始めないのはおかしい……何かあるとしか……」
「くくくくくく……」
どこからか忍び笑いが聞こえてきた。
俺たちは顔を見合わせて、あちこちに視線を向ける。
「どこを見てるの。ここだよ、ここ」
存外に明るい声には聴き覚えがあった。いや、この声を忘れるはずがない。
声が聞こえてきた方に視線を向ける。手水舎の屋根の上だ。
ぼんやりとした人の姿をしたシルエット。風が吹いて、後ろで束ねられた長い髪が揺れる。
真っ直ぐでクセがない黒髪は口にする事はなかったが本人の自慢だった。
小さい頃からずっと近くにいたからよく知っている。
「お前、こんな時間に何やってるんだよ」
屋根に立っていたのは幼なじみの昌美だった。
学校帰りなのか、まだ制服を着ている。今日も能見の家でテスト勉強をしていたはずだ。
「圭二たちこそ、こんなところでなにしてるのよ」
「え、それはだな……」
言葉を濁す。
ここであった事を話したとしても信じてもらえるはずがない。それ以前に、関係ない昌美に夜の世界に関する事を教えたくなかった。下手に巻き込む事だけはしたくない。
「別にいいだろ。たいした事じゃないよ。それより、お前はなんだってそんなところにいるんだよ。馬鹿と煙は高いところが好きって言うけどさ、もう高校生なんだから少しは常識ってもんを考えてだな――」
「圭二に常識とかいわれたくないかな――よっと」
すたりと地面に降り立つ。着地の時にたいして痛がる素振りもバランスを崩す事もない。さすがの運動神経の持ち主だった。
飛び降りる時にスカートがめくれ上がったのを気にする様子もない。小さい頃から見慣れているので今さらツッコミを入れる気にもならないけど。
「それで、やっぱり説明はしてくれないのかな。なんでこんな時間に、こんな場所で、イインチョーと二人きりで、なにをしていたのか」
ニコニコと微笑みながら改めて問いかけられる。
「今すぐこちらへ来い、二人ともだ!」
背後から呼びかけられる。拝殿のある階段上からカナが手招いていた。
「お、もう大丈夫なのか。どこか具合の悪い――」
「いいから二人ともこっちへ来るんじゃ!」
必死の呼びかけに首をかしげる。
「どうしたんだよ、そんな粟喰ったような顔で大声出して。昌美には前にも会ってるだろ。心配するなよ。馬鹿だけどこいつは人畜無害だから……」
くいと袖を引かれる。
視線を向けるとイインチョーが上着を引っ張っていた。
「何?」
「立って……お願いだから」
見た事もないほどイインチョーの顔はこわばっていた。
顔ばかりではない。袖を握りしめる手も力が入りすぎてくっきりと甲に筋が浮き上がっているほどだ。
明らかな緊張状態にある。
まるで圧倒的な力を持つ魔王の前に不用意に立ってしまった駆け出しの戦士のように。
こんな必死な顔で縋り付かれたら、動くのが億劫でも立ち上がるしかない。
重い体に活を入れてなんとか立ち上がり、お尻についた砂を叩いて払う。
イインチョーはそんな事すら待てないと言いたげに腕を取って引っ張った。あまりに強い力だったのでバランスを崩して転びそうになる。
「ちょ、そんな引っ張らなくても大丈夫だよ」
「いいからっ」
苛立ちの色が濃い声に事態の緊急さを悟る。
さっきからカナとイインチョーは何に対して警戒をしているのか。
二人の視線は一か所に向けられている。
振り返る。その視線の先にいるのは――昌美だ。
昌美は仰向けに倒れたままの人狐を見下ろしていた。中身が早貴さんの姿に化けていた人狐に戻っているとはいえ、身にまとっているのは昌美も見知った巫女装束だ。
どうしてこんな所に見ず知らずの人が倒れているのか疑問に思うかもしれない。そもそも夜の境内で泡を吹いて倒れている人がいる状況は普通ではない。
「ふーん、思ったより役に立たなかったかな。ま、しょせんはこの程度って事か」
小さな声ではあったが、確かに俺の耳にも届いた。
その声にはまるで心配する様子はない。むしろからかうような、嘲るような声音だった。
人狐を見下ろす昌美の表情はこれまでに見た事がないほど酷薄なものだ。およそ昌美らしくない表情だった。
「どうしたんだよ、お前……」
くるりと首が傾いてこちらを見る。
三日月の形をした口元は微笑みではなく、嘲笑だ。
「くははははは。まだわからないんだ。マヌケ、マヌケ、マヌケ! いひひひひ、ひぃひひひひひひひ!」
突然の哄笑に頭が真っ白になる。
「はーっははははは、ひぃぃ、ひぃぃぃひひひひひ。げらげらげらげらげら……」
虫の音もない夜の静寂をかき乱すように、昌美の大笑いは続く。まるで周囲の事なんて気にかけていない。
ただ茫然として昌美を見ているだけだった。その間も昌美の高笑いは続く。
「ひぃぃ、ははははは……まだ気がついてないのかよ。お前のそのマヌケさはどうかと思うがな。はははは、あははははははは! はーっははははははは!」
「わかっておるわっ」
カナの声に、ぴたりと哄笑が止まる。
「へー。いってみなよ。お前の考えが正しいかどうか聞いてやるからさ」
それはいつもの昌美の話し方ではなかった。男っぽいとかではなく、男の話し方だ。
いくらスポーツ好きで男子とも気兼ねなく話せる性格とはいえ、こんな乱暴な話し方をする事はなかった。むしろ男っぽい話し方は嫌っていたぐらいだ。活発的だからこそ努めて女の子らしくあろうとする可愛らしさが昌美にはあった。
けれど、今ここにいる昌美からはそんな可愛らしさを微塵も感じられない。
まるで性格が粗暴な誰かとそっくり入れ替わってしまったかのようだ。
「おぬしこそが今回の本当の黒幕。そこの人狐を隠れ蓑にしておったのじゃろう」
昌美の表情から笑みが消える。
その瞬間、周囲の気温ががくりと下がったかのような寒気が走った。
ガチガチとうるさいのは自分の歯の根があっていないからだと気付くのに数瞬が必要だった。
「おぬしの正体は野狐――かつて都で悪さを働き、退治され、この神社に祀られておった堕ちた夜属。一度死んで蘇った妖狐じゃな」
「くくく……いい読みだ。流石に無能な人狐や雑魚の宿曜たちとは違うな。一応、年の功とでも言っておこうか。ま、それでも己よりは年下なんだがな。ぃひひひひ……」
あまりの事に理解が追いつかなかった。
「正解の褒美として教えてやる。己は妖狐。人外の化生、800年前の夜属だ。ここに倒れている無能な人狐を使ってまたひと騒動起こしてやろうと思っていたんだが、まったく使い物にならん。眷属どもを影から操ってやったりと密かに力を貸してやったのにすべて無駄だったな。同族とはいえ嘆かわしいことだ。くくく、あははははははは」
昌美が800年前の夜属? 妖狐?
それはかつて退治された野狐とは違うのか?
「どういう事なんだ……800年前の野狐ってとっくに死んでるんだろ」
「あー? 今さらそんな事を言ってるのか。ヌルイヌルイ。頭が緩すぎるんじゃないのか、お前。ああ、そうか。宿曜は理屈っぽいからな。だからダメなんだよ、ダメダメだ。大妖と恐れられたこの己が蘇ったんだ。これが現実だ。その事実を噛みしめろよ。お前らが束になってもかなわない大妖怪を前にしている事だけを理解しておけ。くははははは」
乱暴な言葉遣いにイラつく。昌美は決してこんな口をきかなかった。
「そもそも800年前に退治されたはずなのにどうやって蘇ったんだ」
「退治、ね。ふん、勝手なことをぬかしやがる」
どこか寂しげな表情だと思った。誰にも理解されなくて、それでも自分の正しさを主張したくて、でもきっとそれは受け入れてもらえない事を理解している目だ。
かつて俺たちが舞殿を花火で飾って、早貴さんの奉納の舞をもっともっと綺麗にしてあげたかった時のように。
「どうやって蘇って、いつから昌美の姿に化けてたんだよ!?」
人狐の変化の術は本人と見分けがつかない。それは早貴さんに化けていた人狐で嫌というほど思い知らされた。本人だと疑いもしなかった。
もし昌美の姿に化けているのだとしたら、いつ、どこで入れ替わったというのか。仮に入れ替わっていたとして昌美は無事なのか。
「知りたいか。ああ、知りたいよなぁ。お前らはガキの頃から一緒だったらしいじゃねぇか。気になるもんな、自分の女がどうなったか。けけけけけけけ」
「そういえば、ここ何日か様子がおかしいとこがあったけどもしかして……」
試験前とはいえ真面目に勉強に取り組んでいたのはおかしいと言えばおかしかった。
家の前で話した時はやけに体を密着させてきた。ああいうのはいつもの昌美にはなかった行動だ。
シャツのボタンを付け間違えたようなちょっとした違和感。
昌美の姿をした妖狐はニヤニヤと嗤っている。その表情は全然似合ってない。
「そう急くでない。状況を理解せねば正しい答えにはたどり着けぬからの」
階段を下りてカナが俺とイインチョーを庇うように前に立つ。
妖狐の脅しの言葉を受けても、小さな背中は小揺るぎもしていない。
「ようやく思い出したわ。わしが封印しておったモノにな。アレは特定の形を持たず、ただ周囲の生きとし生けるものの生命を見境なく吸い上げておった。ヒトを襲うので忌じゃと考えられておったが、本当のところはわからぬ。まったく違う存在だったのかもしれん。じゃが、あまりに大量に、そして無差別に周囲の生命を吸い上げたため周辺の村がいくつか消滅した。まさに危機的状況となっておった」
「よかった。記憶が戻ったんだな」
「その事をおぬしに伝えようと思っていたところで人狐の張った結界に捕まってしまってな。話すのが遅れてすまぬ」
敵を前にしてカナが振り向く事はない。ただ頭が下げられたのは後ろからでもわかった。
「その黒い霧のようなモノは斬っても殴っても動き続けた。しかし多くの夜属たちが手を取り合い、力を合わせて戦い、弱らせる事ができた」
その時の事を思い出したのか、カナの小さな頭が少し揺れた。
「弱らせはしたがアレは大量の生命力を蓄えておった。このまま普通の封印を施したところで意味がないと判断され、大地と結びつきの強い木霊のわしが封印の要として選ばれた。共に封印されながら長い時を過ごし、その力を少しずつ消し去ろうというわけじゃな。そしてその封印は先日まで上手く機能しておった」
しかし、カナの封印は地震のせいで綻んでしまった。
「一方、この地には800年前に悪さをして退治された小狐が眠っておった。こいつは生意気にも神として祀られておったのじゃが、小物さ故にその存在を忘れられ、力をすっかり失った。畢竟、力のないカスだけが漂うように存在をしておったわけじゃ。じゃが、わしの封印が綻んだ事で、そのカスにアレが力を分け与えてしまったのじゃろう。それが妖狐――野狐が蘇った原因じゃ」
「おいおい、まるで見てきたように物を言うじゃないか。それに小狐だのカスだの好き放題だな。本人を前にして随分な言いようだとは思わないのか」
「ちょっと待ってくれ。あいつは野狐だったんじゃないのか? それが蘇って、昌美に化けて、堕ちた夜属が妖狐で……意味がわからん」
混乱している俺にイインチョーが説明をしてくれる。
「夜属の中にも自分の力に溺れてヒトを襲うようになる者がいるの。力の強い夜属ほど堕ちる可能性が高いと言われているわ。ヒトが夜の世界に興味を持つようになれば仲間たちを危機に陥れてしまう。それでは忌と同じ。だから忌み嫌われているの。
鬼の悪鬼、水蛟の堕竜、人狼の病狼。そして、人狐の場合は妖狐っていうのよ」
「堕ちた夜属の不始末は仲間が必ずつける。同族で力が足りなければ夜属全体が立ち上がる。かつておぬしを射た弓の九十九のようにな」
宮中で野狐を倒したのもまた夜属だったと知って驚いた。
知られていない歴史上の真実というのは一体いくつあるというのか。
「お前のその指摘を正しいと証明する事は誰にもできないのに言いたい放題だな。それに己の事情は一切無視かよ」
からかうような口調。顔つきも昌美のようには見えない。
いびつに歪み、醜く崩れ、性根を現すように曲がっている。
「ならば語ってみよ。話半分で聞いてやろう」
「おいおい、話半分かよ。まあ、別にたいした話じゃないんだけどな。己はあの皇女様を手に入れたかったんだよ。簡単に言えば一目ぼれってやつだな。へへへ」
「うわー……」
開いた口が塞がらなかった。遥か遠い場所にあって決して手が届かないと思っていた歴史上の出来事が、急に卑近なネタになった感じがする。
「顔は己も見た事なかったんだけどよ。皇女様ってだけで惚れる理由にはなるだろ。何しろこの国で一番偉い人の娘なんだぜ。男なら手に入れようと思うよな。だから己から絶対に逃れられないように呪ってやったんだ。こいつは覿面に効いたぜ。宮中をあげての大騒ぎになった。あとは己が皇女様を助けたらすべてが丸く収まるって寸法だったわけさ」
昌美の顔をした妖狐は期待に満ちた目で見ているが、ここで同意を求められても困る。
「ふん、やはり小物じゃな。結局は己の都合しか考えておらんではないか」
「なんだとっ。己だと釣り合わないとでも言いたいわけか!?」
「なんじゃ、自分の格を正しく理解しておったか。存外、己を知っておるようじゃ」
「貴様――」
昌美が四つん這いになって身構える。
「な、なあ、あれは昌美じゃなくて、野狐が化けているんだよな?」
まだ何かがひっかかっていた。
変化の術を使う場合、変身する本人の肉体が必要になる。自分の肉体を他人とまったく同じにするのが変化という術の本質だ。早貴さんの姿を借りた人狐がそうだったように。
では昌美の場合はどうなのか。
姿を写し取られた昌美と、それを真似た妖狐。しかし妖狐に肉体は存在しない。
カナの言葉通りならば、この神社に漂っていた野狐の残留思念体がカナの封じていた黒い霧と結びついて妖狐が蘇った事になる。
故に妖狐の肉体は存在しないのだ。そうすると変化という術の前提条件が成立しなくなる。何より姿を奪われた昌美はここ何日はどこで何をしていたというのか。
「ああ、何か勘違いをしているようだから教えてやるが、この肉体は元の持ち主のもんだ。己は〈変化〉じゃなくてこいつに〈憑依〉しているからな」
「ど、どういう事だ。昌美はどこにいるっていうんだよっ!?」
「つまり、目の前におるのが昌美本人という事じゃ」
「……え?」
思考が止まる。
「だ、だって昌美は関係ないだろ。あいつは普通の、そんな特別な力はないよ。そりゃ運動神経はいいけど、勉強なんてからっきしだし、ガサツだし、大雑把だし、他人を優先しすぎていつだって自分の事は後回しだし……俺はずっと小さい頃からあいつを知ってるんだ。あいつは、昌美じゃない。違う、違う、違う!」
「かかかかかかか。その面だ、その面を見たかったんだ! 小僧のその絶望に染まった面を見れて己は嬉しいぞ。己だけ悲恋の末に死んだなんて結末は面白くないからな。お前にも同じ思いをたっぷりと味あわせてやるぜぇ。くはははははは」
四つん這いの妖狐が大きく口を開ける。
「二人とも下がって!」
叫んだイインチョーが両手に持った呪符をばら撒いた。
はらはらと呪符は舞い、イインチョーを中心として同心円状に展開する。
「喰らいやがれ!」
轟と一抱えはある青白い炎が妖狐の口から放たれた。
次の瞬間、俺たちの前に立ったイインチョーに命中して炎の柱が立った。
青白い炎は天を焦がさんばかりに立ち上り、まるで意志を持つかのようにその場でとぐろを巻いて燃焼し続ける。ゴウゴウと音をたて燃え盛る。
この炎にさらされては骨すらも残らないのではないかという圧倒的な火勢だった。
しかし。
「二人とも大丈夫?」
イインチョーの声に顔をあげる。俺たちは妖狐の放った炎に包まれてはいなかった。三人を中心に半球状の護法円が展開されており、炎はその表面をなめるように燃え盛っているだけだ。
「娘、よくやった。この護法はいつまで持たせられる」
「長時間は無理、かも……」
額に大きな珠になった汗を浮かべている。
この術がそう長くは持たないのは苦しげな表情からも伺えた。
「では手短に言うぞ。あの妖狐は簡単に倒す事ができる。あれはあくまで野狐の消えかかった精神という入れ物を黒い霧の力で無理やり動かしているにすぎん。依り代となっている肉体から追い出されれば、おのずと消え去るしかない」
「仮に三木さんの肉体から妖狐を追い出したとして、他の人に憑依する可能性は?」
「この場にはわしら以外おらんから問題ない。わしら三人は夜属じゃ。そう簡単に乗っ取られはせん。それは目覚めたばかりのこやつであってもな」
くいとアゴで俺を指し示す。
「じゃが他の者は別じゃ。力を持たぬ者に憑りついて潜伏されればわしらには手が出せなくなる。この場から絶対に逃すな。ここで決着をつけるのじゃ」
カナの言葉に俺たちは頷いた。
「でも昌美からどうやって追い出せばいいんだよ。俺の術でなんとかできるのか」
「正直わからん。憑依して肉体を操っておるだけじゃから、それをできなくすればいいわけなのじゃが……」
「それなら解呪すればいいはずよ。ばらばらにする、解き放つ、解き分ける。私の呪符でもできるけど、今はここを維持しないといけないから……」
イインチョーの集中が緩んだためか、護法の円がわずかに小さくなった。
「わかった。『解』だな」
憑依された状態を『解』除してやればいい。簡単な事だ。
「あやつもおぬしの術がどういう形で発現するか知っておるから簡単には隙を見せんぞ。できるのか」
「できるか、じゃない。ここはやるしかないんだ」
立ち上がった俺をカナは眩しそうに見上げる。
「でも昌美から妖狐を追い出すのは俺の術じゃない」
「どういう事じゃ」
「カナの言う通り、俺の術だと無理だ。俺の力を発動させるには手順がいる。それをあいつが見逃してくれるはずがない。だからイインチョーに頼みたいんだ。あいつの中から妖狐を追い出してやってくれ。そのあとの足止めは俺がやるよ」
「で、でも、私もいっぱいいっぱいなんだけど……」
またわずかに護法の円が小さくなる。もう何分も持たないだろう。
「大変だと思うけど頼む。俺はなんとかあいつが身動きをとれないようにするから。妖狐を追い出すのはイインチョーに任せるよ」
覚悟を決めた俺の表情を見て、カナは満足げに頷いた。
「よし、やってみせい。あとの事はわしがなんとかしてやろう」
「ははは。カナにそう言ってもらえると頼もしいな。行くよ、イインチョー」
イインチョーの顔は既に蒼白だが、無理をして笑顔を見せる。
「わかった。でも絶対に無茶はしないでね」
それは約束できないので、あえて応えなかった。
「この狐火はわしがなんとかする。その隙をついておぬしは妖狐に食らいつけ」
「いくぞっ」
俺の掛け声とともに護法円が解かれる。同時に燃え盛っていた炎が霞のように消えた。
周囲の木々が枝葉を伸ばして妖狐の放った炎をかき消したのだ。
「なんだと!?」
一瞬にして狐火を消され、三人を燃やし尽くすつもりだった妖狐が驚愕の声を上げる。
「うおおおおおおおおおっ」
叫び声をあげて駆け出す。当然、妖狐の意識はこっちへ向いた。狙い通りだ。
低い姿勢で弾丸のように妖狐に迫る。
相手が四つん這いのままなので、まるで相撲の立ち合いのような激しいぶつかり合いになった。
「ぐがあっ!?」
「痛ぇっ」
頭と頭が激突し、視界内にぱぱぱっと火花が散る。気を失いかけるが、覚悟を決めていたので痛みに苦しむ妖狐より先に次の行動をとる事ができた。
頭を抱え込んでいる妖狐の上体を起こすために両肩に手をあてて押し上げる。
「ぐっ、な、何を……」
上体を起こすと、右手は首の後ろの奥襟をつかみ、左手は相手の右肘を取る。
柔道で身長差がある相手と組み合う時のような形になった。こうなると背が低い方は頭が下がりがちになり体力を消耗してしまう。そうならないためには奥襟を持っている手を振り切って距離を取るしかない。
そうはさせまいと上から体重を預ける。
「くぅ、重い! いい加減はなせぇ!」
運動神経抜群とはいえ女子である昌美相手ならば筋力で負けるはずはないと思っていた。
しかし、力任せに振り回されるとズルズルと引きずられてしまう。普通ならリミッターがかかるようなところでも、妖狐が昌美の筋力の限界を超えて無理やり動かしているのだろう。
しかし体格差だけはいかんともしがたい。筋力勝負に応じるのではなく体重差を活かす。
さらに体を預けるようにすると妖狐は倒されまいと両足で踏ん張った。完全に意識は上半身に向いている。
足元への注意がそれたのを見て取って、自分の左足を左前方に踏み込ませる。
胸を合わせ、さらに左手を引いて妖狐の重心をあげさせる。身長差もあるので、妖狐の体は完全に棒立ちになった。
「喰らえ!」
次の瞬間、右足を前方に振り上げて、振り戻す勢いで妖狐の右足を後ろから刈る。
「なにぃ!?」
妖狐の右足を刈り取ると腰ごと宙に浮く。柔道の大外狩りだ。
下半身の踏ん張りがなくなったので、こうなると背中から倒れるしかない。
咄嗟に奥襟を持っていた右手を放し、昌美の後頭部を守りながら体を浴びせ倒した。
「ぐはっ」
背中を強打して妖狐は呼吸に詰まる。
動きが止まった隙を逃さず、胴を両足で挟み込むように馬乗りになった。総合格闘技でいうマウントポジションだ。この体勢なら上にいる側は両手が使えるので顔を殴ったりして相手の戦意を奪う事が容易になる。
また相手の両足を足と腰でコントロールできるので、ブリッジして逃れようとしたり、足をかけようとしても防ぎやすい。
さすがに昌美の顔を殴るわけにはいかないので、妖狐の両肩を地面に押し付けるように体重をかけて胸を密着させる。柔道における立四方固めの形だ。
上に乗っているので体重を使って相手の体力を奪う事ができる。
「くそ、どけ! どきやがれ!」
「いやだね。誰がどくか」
必死にブリッジをして逃れようとしたり、足を伸ばしたり曲げたりして蹴りつけようとするが、何をやっても体力を無駄に消耗するだけだ。
下から殴りつけようにも体が密着しすぎて威力はないに等しい。
それでもしつこく脇腹を殴り続ける左手を押えるために妖狐の肘を掴む。昌美の女の子らしい細い腕が今は野球のバットのような太さと硬さになっていた。
今のところ距離を奪う事によって相手の反撃の手段を封じる事ができている。完全に思惑通りだった。
「このまま大人しくしとけ。今すぐ昌美の体を返してもらうからな」
荒い息が首筋にかかる。
胸の下で昌美の胸が押しつぶされている。
「はははは。この距離で抱き合ってるのにエロい気持ちにはこれっぽっちもならないな」
「このクソガキが! どきやがれ!」
「昌美は絶対にそんな言葉遣いをしない。あいつはな、ああ見えてすげー乙女なんだよ。ガサツで大雑把だから全然そうは見えないけどな。俺は小さい頃から知ってるんだ。今のはお前は違和感があって気持ち悪いからさっさと出て行ってく――」
やばいと思った瞬間、顔をあげた。
「くそっ」
「首筋に噛みつこうとするとか危ない奴だな。下手したら死ぬぞ」
「死ね! 殺してやる!」
憎しみのこもった瞳で睨みつけられる。
その表情は昌美のものではない。だからこそ、心を鬼にする事ができた。
「悪いけど、まだ死にたくはないんでね」
左肘で相手の右肩を押さえつけるようにして、手のひらで首とアゴの動きを封じる。
「ぐは、が、がああぁぁ。はふ、ぐうぅ……」
息苦しいせいか暴れる力がさらに強くなる。しかしこの体重差ではひっくり返しようがない。
勝負あった。
あとはイインチョーの呪符で昌美の体から妖狐を追い出すだけだ。
「イインチョー、たの――」
ズブリ、と。
熱いものが脇腹を突き抜けた感覚があった。
「……え?」
一瞬おいて背筋を冷たいものが這い上がってくる。
視線を下に向けると、獣のような飢えた表情をした妖狐が見上げていた。
勝利を確信した顔。口元が嫌な形に歪む。
「な、なにを――」
ごぼりと口から熱いものがこぼれた。




