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一筆啓上! 言葉使い  作者: さくらうづき
妖狐の正体
35/38

5-2

能面のようだった顔に赤い裂け目ができる。

それが笑っているのだと気がつくのにしばらくの時間が必要だった。

その笑顔の意味するところに好意的なものを見い出せない。おそらくは嘲っている。

憧れの女性だった早貴さんの顔でそんな表情を向けられると心がざわついた。

だが、ここに立っているのは早貴さんの顔を写し取った倒すべき敵なのだと改めて自分に言い聞かせる。


「いつから気づいてたん」


声は早貴さんのものだが明らかに口調が変わった。おかげでより敵と認識しやすくなる。


「情けないけど気がついたのは今さっきだよ。イインチョーの推理を聞いて、俺なりに今日までの事を整理してみた。そうしたら、これが一番しっくりいく答えだった」


ぽっと青い炎が対峙する俺との間の地面近くにともる。

火と認識をしたため、本能的に一歩下がった。


「逃げなくてええよ。明かりがないとキミが不便だと思うただけやし」

「今さらそんな場違いな気遣いされてもな」

「好意は素直に受けておくものよ。ここまでたどり着いたキミをうちなりに評価して、相応の対応をすべきと思うたからこうしてるんやし」


ろうそく程度の微かな光源ではあるが、夜目が利かなくてもぼんやりと相手の姿が見えるようになった。

早貴さんに似た目、早貴さんに似た鼻、早貴さんに似た唇。

けれど、ここにいるのは俺の知っている井奈早貴ではない。


「ああ、そうやわ。彼女には寝といてもらおか」


白くたおやかな手が伸び、俺の背後を指差す。

何をするのかと身構えたが、背中にかかった重みに慌てて振り返る。


「イインチョー!」


その声に反応する事はなく、くたりと力なく膝から崩れ落ちる。


「い、いずみくん……ごめ、ん……」


両手を伸ばして体を支えるが、既に意識はなかった。


「イインチョー! イインチョー、大丈夫かっ!?」


両肩を持って揺すってみるが、首の座っていない赤ん坊のようにカクカクと力なく頭が揺れるだけだった。意識が戻る気配はない。


「イインチョーに何をしたっ」

「ちょっとつまんだだけやし、心配せんと」


右手の中指と薬指、親指を触れ合わせ、ユラユラと揺らして嗤う。

まるで影絵でキツネの図柄を映し出しているかのように。


「知っとった? 狐につままれるって言葉はうちのような人狐が夜の世界の出来事を覚えてしまった人に術をかけて忘れてもらったことから使われるようになったんよ。彼女にもその術を使った。目覚めた時にはこれまでのことをきれいさっぱり忘れとる。能力を持たない一般人のようにな」


目を覚ましそうにないイインチョーをそっと地面に寝かしつける。

明かりが十分ではないのではっきりとはわからないが、かすかに聞こえてくる呼吸音に乱れは感じられなかった。


「イインチョーは本当に大丈夫なんだろうな」

「最初から他人を傷つけるつもりはないんよ。その点については安心しよし」

「俺に怪我をさせようとしていてよくそんな事が言えるもんだ」


しばらくの空白。考え込んでいるようで、人狐の視線が宙を彷徨っている。

やがて思い至る事があったらしく、得心がいったと言いたげに二度三度頷いた。


「ああ、あの時のこと。あれは堪忍してな。あの数のキツネを操るのは初めてのことやったし、コントロールできひんかったんよ。自分でもどうしてあんな数を操ろう思ったかわからんけど。ただキミを傷つける意図はなかったんよ、本当に」


飄々とした態度に腹が立つが、ここはぐっとこらえる。

やりあう前にいくつか聞いておかなければならない事がある。


「まず最初に教えろ。お前は何者なんだ」

「見ての通り、井奈早貴やよ」

「ふざけるなっ。早貴さんをお前みたいな奴と一緒にするな!」

「ふふ、そうやってムキになるところがかわいらしいな。キミの気持ちはようわかる。彼女は美人さんやし。ああ、外見やのうて内面のことやけどね。彼女はとても素直で、真っ直ぐで、純真やった。考えてみるとキミに似ていたかもしれへんな。似ているからこそ心惹かれあった。そんなところとちゃう」


早貴さんの話がすべて過去形で話されている事に気付く。


「まさか早貴さんを――」

「ややわぁ。キミにはうちが人殺しなんて無粋をする人間に見えるん? この短い期間だけ彼女の姿と名前を借りていただけ。最初から目的を達成すれば姿を消すつもりやったんよ。もちろん、関わってしまった人たちの記憶に手を加えてからやけど」

「じゃあ、早貴さんは今どこで何をしているんだっ」

「安心しい。彼女は今までと変わらず大学生活を謳歌してるわ。うちは彼女の姿に変化していただけやし」


不審に右の眉が上がる。


「何を不思議に思うん。言葉通り、彼女は今まで通り大学生として生活をしているわ。この姿は借り物。人狐は化ける。本人そっくりに」

「つまり――」

「変化や。得意なんよ」


そして胸を張る。


「うちは人ではない。人ならぬもの、人外の化生。宵闇を見通す目があり、どんな姿にも変化することができる。狐火を自在に操り、時に人を化かし、また人に憑く。人狐と呼ばれる、けものよ」


昔話でもキツネに化かされるという話は多い。キツネとタヌキの化け比べにはじめ、女性に化けたキツネを嫁に娶るといった話などは各地で語り継がれている。


「じゃあ、さっさとその変化とやらを解いて本当の姿を見せてみろよ」

「粋がるのは結構やけど、立場は弁えておいて欲しいわ。目覚めたばかりで自分の能力をろくに使えないキミが、人狐として生きてきたうちにかなうはずもない。やろうと思えば、今すぐにでもキミの記憶を消し去ることも、命を奪うことだってできるんよ」


人狐の右手の爪がしゃきんと伸びる。鋭そうな先端は簡単に肉体を貫けるだろう。

つまり人狐の言っている事は脅しでもなんでもなく、ただの事実だ。

それでも俺は要求する。


「その顔で、その声で俺の前に立つな!」

「ふ、あはは。なるほど、そういうこと。それは悪いことをしてもうたな。キミは井奈早貴に惚れてたんやね」


動揺はなかった。その指摘は間違っていたからだ。

おかげで冷静になれた。揺るがない心で相手を分析し、対応する事ができる。


「おや、思ったよりも動揺せえへんな。ならば、こうしたら喜んでくれるん」


右腕を袖に潜り込ませると、合わせを緩めて片肌を脱いで見せた。夜目にも白い肌があらわになり、片方の乳房は夜気にふれている。


「くっ」


慌てて視線をそらす。けれど白い乳房と淡い色をした乳首の様子はしっかりと目に焼き付いている。

思い浮かべなかった事がなかったとは言わない。けれど、こんな形で目にしたくはなかった。


「ふふふ、なんや。もっと見てもええんよ」

「馬鹿にするなっ。誰がお前のなんか見て喜ぶか」


吐き捨てるような言葉に羞恥が混じるのは隠しきれていない。

悔しかったが、どうしようもなかった。


「姿形は井奈早貴そのものなんやけどな。さっきも言うたけど変化の術は得意なんよ。でもまあ、からかうのはここまでにしとこか。今の時期の夜はそんなに長くないんやし」


衣擦れの音がする。

音がしなくなるのを待って視線を向けると、人狐は巫女装束の合わせを整えているところだった。


「おじさんはどこだ。お前が造った結界にまだ捕らわれているんじゃないだろうな」


主導権を握られっぱなしでは癪なので、自分から踏み込んでいく。


「残念ながら、せっかく時間をかけて用意した結界はキミたちが活躍してくれたおかげで壊れてしまったわ」


きっとイインチョーの術の助けを借りてカナを救出する時に俺が結界を斬ったからだろう。ざまを見ろとほくそ笑む。


「しかし無知とは恐ろしいものよね。下手をすれば周辺5キロは跡形もなく吹き飛んでいたかもしれないのに結界を破壊するやなんて」


それを聞いて自分の表情が固まったのが自覚できた。


「あははははは。ウソよ、ウソ。キミは実に愉快やなあ。考えていることがすぐ顔に出る。見ていて飽きぃひん。ちなみに井奈氏は町内会と称した近所のおじ様たちとの飲み会に参加してるから、今日は戻るのが遅くなる言うてはったわ。つまり、彼もまた無事ということや。これでうちが危害を加えるつもりがないのをわかってもらえたかしら」

「お前がそう言っているだけで、おじさんの無事が確認できたわけじゃない。なにより、カナが結界に捕まっていた事実を忘れるなよ」


人狐は両手を広げ、人好きのする笑顔をした。思わず引き込まれそうになるほどのいい笑顔だ。

術を使わないでも相手の心の中に入り込む事は得意なのだろう。言葉の選び方から声の抑揚、さりげない仕草や態度からもそういった自信が伺える。


「それぐらいは自分で考えて気がついて欲しいところやけど。さっきの推理も見事だったし、どうやろ、わからん?」


予想はついていた。俺とイインチョー、それからカナの三人に共通する事は夜属として覚醒しているという一点に尽きる。

つまり人狐の計画の障害となりそうな三人を結界に閉じ込めようとしたのだろう。


「その顔は答えはわかっているけど、おまえには答えたくないって感じやね。キミはほんまわかりやすいわ。そこがいいところでもあるんやけど」


人狐は右の人差し指をおでこにあてると、やれやれと言いたげに首を左右に振った。


「そしてこの期に及んでもうちと敵対し、あわよくば打倒しようと考えとる。ちゃうか?」

「く……っ」


図星だったので歯噛みする。


「うん、キミのまっすぐなその正義感は貴重なものや。この先も失って欲しくはないな。知覚者かそうでないかは置いておくとしても、うちがキミのことを好ましく思っているのは事実なのを忘れんといてな。それに井奈氏――早貴嬢のお父さんもキミのことをよく褒めてたんよ。最近では珍しい男気にあふれた少年だって」


人狐は様子を伺うように俺の前を行ったり来たりしている。

ジャリジャリと草履が参道を歩く音がやけに耳につく。

こうして俺に落ち着いて考えさせないようにしているのだろう。

少しずつ集中力を削ぐ事によって状況を有利にしようとしている。


「さて、どこから話そか。こないなもんは当人以外に価値があるものでもなし。キミが納得してくれるとええんやけど、少し長い語りに付き合ってもらおかな」


ゆるく風が吹き、早貴さんの姿形をしたものの髪が踊る。

うるさげに顔にかかった髪を払うと改めて口を開いた。


「キミも知っての通り夜属の数は減りつつある。ニホンオオカミは絶滅し、人狼は危機に瀕しとる。アカギツネもその数を減らしつつあり、人狐として覚醒する数もそれほど多いわけやない。キミたち宿曜もまた後継者不足で系統がいくつも絶えていると聞く。だからキミはその知識、技術、力を後代に伝えていく必要があるのを忘れてはあかんよ」


落ちていた狐火がころりと転がると二つに分裂する。


「実は人狐と宿曜には因縁があってな。キミたちの遠い祖先である陰陽師、安倍晴明の母親は葛の葉という人狐や。日本各地に残されているキツネが化けた女性を娶るという話の一つとして有名やと思うけど、キミは知っとったかな。

ああ、意外に思うかもしれへんけど、歴史上に夜属の姿がよーけ見え隠れしているんよ。大江山の鬼退治の一説で知られる酒呑童子は朝廷に従わなかった鬼族のお話やし、元寇で神風と呼ばれた雨と風は水蛟と天狗によるものやし。太宰府天満宮に祀られている学問の神様こと菅原道真は水蛟の血筋を引いてはる。雷神としての言い伝えはキミも聞いたことがあるんちゃうん」


学校で教えられた歴史と異なる話。視点が変われば見えてくるものが違ってくる。

古の日本には多くの夜属が生きており、夜の世界に生きてきた者たちにしか伝えられていない歴史もある。歴史はいつだって勝者が自分の都合のいいように作っていくからだ。


「うちは遠い先祖たちのことをよく考えるんよ。長い年月を経てうちの代まで連綿と続くこの血のつながりを。千年以上の時の積み重なりをな。そして興味を持つようになったんよ。過去に生きた彼らはどんなことを思い、考え、行動したのか。そんな彼らの足跡をたどり、思いを馳せる。それは実にロマンティックだとは思わへん」


人狐は夜空を見上げ、両手を月に差し出す。決して届かない手を過去に伸ばし続ける。


「……復讐のためじゃなかったのか」


稲荷社として始まった鼎神社が今ではその名残を残していない事が今回の原因ではないかとイインチョーは推理していた。

つまり神として祀られていたはずなのに、いつの間にかその存在が忘れ去られている事が今回の事件――封印が緩んでカナが目覚めるなど――に関係しているのではないかという事だ。


「うちが何に対してどう復讐するんよ。野狐を弓で射殺した既に死んでいる武将に対して? でも時を遡る術がない以上、そんな事が不可能なのはキミにもわかるやろ。祀られるべき稲荷社を失わせたここの神主に対して? それが仮に廃仏毀釈のせいやとしたら、時流に抵抗するのは愚か者のすることや。当時の神主の判断は正しかったとしか言えへん。それ以外が理由だとしても祀るだけの理由がなければ廃れて当然だと思うしな。

つまりそのどちらも無駄なんよ。そんなことに意味はあらへん。それに建設的でもないし。今さら稲荷社を建て直して祀って欲しいなんてこれっぽっちも思ってへんよ」


二つの狐火はそれぞれが半円を描くように転がり、再び衝突する。今度は四つに分裂した。

分裂した狐火はさらに形を変えて四足を持つ小さなキツネの形になった。参道に四つの小さな狐形をした狐火が踊っている。


「うちの目的はただ一つ――この神社に残されている言い伝えから、遠い祖先である人狐の足跡を辿ることや。その人が何を想い、何をしようとしたのか。それがわかりさえすれば満足や。満足できたら大人しくこの場を去ることも約束するし」

「意味がわからないな。わざわざ遠くからキツネを連れてこの町まで来て、俺たちを見張ったりして、おまけに結界まで造ったんだろう。そんなの労力に見合わないじゃないか」

「労力ね。そういうことやないんよ。ロマンと言うたやん。理解してもらえへんかな、そのあたりの微妙なニュアンス」


腰をかがめ、下から見上げるようにして笑う。

明らかにからかっている。


「一つ今回のことで驚きがあったとすれば、過去に生きていた人が現代に蘇る例をこの目で見られたことやな。なかなかない有意義な体験やったよ」


カナの事を言っているのだとわかった。

しかしカナは知らない相手であっても友好的になれる能力を持っていた。実際、鼎神社の宮司であるおじさんはカナを親戚の子だと思って親しげに振る舞っていたのを目にしている。

またおばさんにはこの時代の服を買ってもらい、恥ずかしそうに披露してくれた事も記憶に新しい。


「カナの術にかからなかったのか」


人狐の口の端があがる。


「ああ、あれか。彼女の魅了の力は気休め程度のものなんよ。土蜘蛛の魅了の目ならいざ知らず、あの程度ならかからへん。そもそも他人の心を操る術は夜属の中では人狐が頭一つ抜けてるし。そやから逆にうちが操らせてもろた。まるで本物の姉のように私を慕ってくれたんよ。そんな彼女の微笑ましいところをキミにも見せたげたかったわ」


胸糞が悪くなる。他人の心を操っておいて言っていいセリフではない。


「おかげで彼女からも貴重な話がよーけ聞けた。彼女が生きていた頃のことを、現代に比べればまだまだ勢力を保っていた夜属たちがどうやって暮らしていたかをね。何も知らない村人たちとの付き合い方、中央――つまり政治権力者に目を付けられないための処世術。もしかしたら野狐のことを調べるよりも有意義だったかもしれへん」

「だったらカナが封印していたモノが何かわかったのか!?」


それがわかれば、もう一度封印する事だってできるかもしれない。

しかし人狐は両目を閉じると静かに首を左右に振った。


「残念やけど、本人が忘れていることまでは聞き出せへん。もともと相手に警戒心を抱かせないようにする術で、記憶を掘り返すためのものやないからね」

「じゃあ、なんだってカナまで結界に閉じ込めたんだ。俺たちはお前の邪魔をする可能性があるからだってわかるけど、カナはそうじゃないだろ」

「彼女は幼いとはいえ、うちよりも古い時代に生きていた夜属や。現代では失われた能力を持っている可能性もあるし、扱いには細心の注意を払ったんよ。どうやらうちの正体に気付いたみたいやから、目的を達成するまで一時的に結界に閉じ込めさせてもろうただけや」

「なんだ。人狐の変化の術も噂ほどじゃないんだな。もしかしたら術はすごいけど使っている奴の問題なのかもな」


挑発の言葉に、すぅと人狐の目が細められる。


「お遊びもここまでにしておこか。どうやらキミも記憶を失いたいようやし。キミの記憶をいじってから、ゆっくりと目的を遂げさせてもらうわ」


嗤いながら人狐は一歩を踏み出す。

気力では絶対に負けないつもりだったが、相手のプレッシャーに押されて後ずさる。


「くそっ」


悪態を聞いてか、さらに人狐が歩を進める。

この状況をひっくり返す術がない事を完全に見抜いている。


俺が術を使うには筆で漢字を書かなければならないが、こうして正面を切って対峙している状況で、のんびり術の発動まで待ってくれるはずがない。

この能力は応用は効かせやすいが、使いどころが難しいのが弱点だった。


踵に触れるものがある。

視線を向けると仰向けになったままのイインチョーがいた。


瞳は依然閉じられており、かすかに口が開いている。

薄暗いこの状況でイインチョーの唇がわずかに動いたのに気がつけたのは幸運だったと言える。


人狐からは死角となる右側のスカートのポケットから何枚かの白い紙が見えている。

紙の上にのせられた右手は、人差し指と中指と薬指の三本が伸ばされていた。

薬指が折られた。残されたのは二本の指。そして次に中指が折られる。


カウントダウン――この状況でイインチョーは何をするつもりなのか。

おそらくは俺がしたくてもできない事――逆転の一手。

俺の術は筆で漢字を書くという工程が必要となるので瞬時に効果が得られない。

一方、イインチョーの術は事前に呪符を用意する必要があるが、発動にほとんど時間は必要ない。


人狐は夜目が利く。

今は真闇で俺のような普通の人間はほとんど視界が利かない。


つまり今、発動させるべき術は一つ。

顔を背けて目を瞑った。


「これでもくらいなさいっ」

「なっ!?」


人狐が驚きの声をあげる。完全な不意打ちだ。

右手を掲げたイインチョーの指先には複雑な文様が描かれた呪符が挟まれている。


刹那の光の爆発が起きた。

それはほんのわずかな時間、境内を白く塗りつぶす。

近くに立っていた俺の、近づこうとした人狐の影すらかき消されるほど圧倒的な光量。

暴力的なまでの光の奔流だった。

目を瞑っていたにも関わらず、俺は瞼を通して赤いものを見ていた。


次の瞬間には光は消滅する。

目を開いて状況を確認。

視界は白飛びしたようにコントラストがおかしかったが、相手の位置がわかりさえすれば問題なかった。


人狐までは約5歩の距離。この距離なら逃がさない。


「ああぁぁぁぁぁ……っ」


強烈な光によって人狐は両目を押さえてのた打ち回っている。

光源となるイインチョーの手から顔を背け、しかも目を閉じていても光の存在を感じられたぐらいなのだ。

夜目が利く人狐にとってあの光はまさに致命的なダメージとなった。


筆で『痺』と漢字を書き、その力を左拳に宿らせる。

殺す事はない。圧倒出来さえすればいい。


「目がぁ、目がああぁぁぁぁ……」


ふらふらと動き回るが、しっかりと踏み込んで確実に拳が届く距離に捉える。

まだ目を押さえて苦しんでいる人狐は懐に入り込まれた事に気がついていない。


「ふぅっ」


腰の回転を活かした左中段突きが人狐のボディに深々とめり込む。

同時に拳が青白い燐光を発して人狐の体が感電したかのように跳ね上がる。


「ぎゃん……っ」


体をくの字に折って頭が下がったところを狙い澄まして右膝でかち上げた。


「ぐふっ」


膝が綺麗にアゴを撃ち抜き頭が跳ねる。十分な感触があった。

強い衝撃を頭部にもらって人狐は白目を剥く。完全に意識を断っている。

その状態で足に力が入るわけもなく、すとんと膝から崩れ落ち、膝を折ったまま後ろにどうっと倒れた。


ぶち込んだ拳と膝は一切の躊躇も容赦もしなかったが、〈痺〉はそこまで強烈なイメージにはしてないので命に別状はないはずだ。

現に倒れている人狐は泡を吹いてはいるが、胸は一定のリズムで上下している。


よくよく見ると顔つきが早貴さんとは変わっていた。

表情は膝を受けたせいで歪んでいるが整った顔立ちをしている。美人だが早貴さんと違う人物なのは間違いない。これが人狐本来の顔なのだろう。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


イインチョーによる光の爆発から10秒程度しか経っていない。

自分でもほれぼれするほどの、まさに電光石火のラッシュだった。


全身の力が抜けて、境内に尻もちをつく。

気がつけば街灯に明かりが灯っていた。機械的に回路を破壊していたのではなく、人狐の術によるものだったのか。人狐が気を失った事で術が解けたのかもしれない。


「だ、大丈夫なの?」


ようやく上体を起こしたイインチョーの声。

すぐには返事ができなかった。しばらく呼吸を整える事に専念する。


「な、なんとかね……はー、勝ててよかった……」


ばったりと倒れて両手足を思い切り伸ばして大の字になる。

立ち上がったイインチョーは体を引きずるようにそばまでやってくると、寝ている俺の頭の近くに腰を下ろして女の子座りをする。

気力、体力共に限界だった。


「クス。ホントにね。泉君がちゃんと私の意図を汲んでくれて助かったわ」

「何度も人狐の特徴を聞いていたからね。あそこで呪符を出してたって事は、あれしかないって思ったんだ。間違ってなくてよかったよ。

でもさ、人狐に記憶を操られたんじゃなかったの? よく無事だったね」

「ああ、それはね」


微笑みながら上着をめくって内側を見せてくれた。


「呪符を貼っておいたのよ。こうしておけばある程度の術になら対抗できるし。前にいろいろと下準備はしてあるって話したでしょ」

「へえ、耳なし芳一みたいだ。さすがイインチョー。用意いいね」


自分の能力の特性をよく知っている。さすがは宿曜の先輩だと感心した。


「イインチョーがいてくれてホント助かったよ。正直、俺一人だとどうにもできなかったと思うし」


わずかに吹き抜ける夜風が気持ちよかった。

戦いであがったテンションと体の火照りが少しずつ冷めていく。


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