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4-5

30分ほどかけて光は下の境内のほとんどを覆い尽くした。

注意深く視線を巡らせると、一ヵ所だけ他より光が暗い場所がある。以前、カナとお菓子を食べたりした北西側の階段のあたりだ。もし早貴さんがそこにいるのなら、鳥居をくぐって全速力で走ったとしてもわずかな時間ではたどり着けない場所だった。


「行って、泉君。助けられるのは泉君しかいないっ」


余計な事を考えている場合ではない。結界に閉じ込められた早貴さんを助けるのが先決だ。


北西の階段まで走る。

地面から立ち上るサファイアブルーの光の中にぼんやりとした影がある。おそらくはそこ。そこに早貴さんが捕らわれている。


筆を構える。


『闇を切り裂け。結界を打ち破れ。早貴さんを助けるんだ!』


筆で『斬』と漢字を書く。

間髪入れずに振り上げた右手に宿る〈斬〉の文字で影の部分を切り裂いた。


軌跡に沿って空間に線が生まれる。ピシリという音がして一文字に影が裂ける。

押し込められていたものが内側から溢れ出るように亀裂を押しのける。

線が広がる。ひび割れる。ビキビキと割れ目が広がっていく。

そしてついに細かな光の粒子をばら撒きながら空間が砕けた。

何もなかった空間から現れた人影を咄嗟に支える。思っていたよりもずっと軽い。


「これは……?」


腕の中にいるのは早貴さんではなくカナだった。


「無事に助けられたのね」


イインチョーが体を引きずるようにしてやってきた。先ほどの術でかなり消耗したと見え、疲労の色が濃い。歩くのも辛いようだ。


「でもここにいたのはカナだったんだよ。早貴さんじゃない。なんでこんなところにカナがいたんだ……」

「この子が泉君の言っていたあの……眠っているのかしら」


カナの目は固く閉じられているが、小さな胸は定期的に上下しているから意識を失っているだけなのだと思われる。その事に一先ず安心する。


「多分そうだと思う。でもなんだってカナが結界に閉じ込められていたんだ」

「おそらく境内に入った人を無差別に取り込むタイプだったんじゃないかしら。この子がこの神社で暮らしているのなら、境内のどこかで取り込まれてしまう可能性はあると思うけど」

「だとすると井奈のおじさんも捕まってる可能性が高いって事だよな。イインチョー、さっきの術はまだ使える?」


悔しそうにイインチョーは首を横に振った。


「ごめんなさい。今の状態だと広い範囲で発動させるのは無理。明日になればできると思うけど……今は小さい術ならいくつかってところね」


だが翌日まで結界に閉じ込められていて無事でいられるかどうかわからない。可能性に賭けるとしても分が悪いだろう。


「だったら結界を張った奴に解除させるしかないな。なんとか見つけて解除させよう。鼎神社に結界を張ったって事は、近くに犯人はいると思うんだ」


カナを抱き上げる。思っていたよりもずっと軽かった。

とりあえず意識を失っているカナの安全を確保しなければならない。社務所横にある自宅スペースへ連れて行くべきか。おじさんへの言い訳を頭の中で整理する。犯人を探し出すのはその後だ。


「それなんだけど、ちょっと気になることがあるの」


階段を二、三段上ったところで振り返った。虫たちの涼やかな声が少し癇に障る。


「気になる?」

「そう。早貴さんのこと」


カナは結界から無事に救い出せたが、俺たちと近いタイミングで結界に捕らわれたはずの早貴さんはどこにいるかわかっていない。


「早貴さんも早く見つけて助けないとな……くそっ、俺にもイインチョーみたいな術が使えたらいいのに。カナが目覚めたらそういうのができるか聞いてみるか」

「ううん、そうじゃなくて。あの結界はおそらく捕らわれた場所に居続けることになるはずなのよ。だから一緒に結界に捕まった私たちは同じ場所にいた。そうでしょ」


俺たちが脱出した時の位置は取り込まれた場所とほぼ同じだった。

カナが境内の北西側の階段の近くで結界に捕まっていたのは、このあたりが彼女のお気に入りでよくここにいたからだと考えられる。

ならば、俺たちより先に鳥居をくぐった早貴さんはどこへ行ってしまったのか。


「まさか早貴さんを疑ってるって事?」


信じたくなかった。

小さい頃から顔見知りの間柄だった。昌美の暴走に付き合わされていつも貧乏クジを引いていた俺にも優しく接してくれた年上の女性。


当時は幼かったから自覚はなかったが、きっと俺は早貴さんに好意を持っていた。甘やかせてくれる彼女に対して親近感があった。それは女性として好きというのではなく、母性に対する無条件の信頼のようなものだったが好意にはかわりがない。

だから――


「そんなの、信じられない」


自分の声にぞっとする。

イインチョーはクラスメイトであり、夜属として協力体制にある。互いの正体を明かしてまだ一日程度しか経ってないが、よい関係を構築していたはずだ。

けれど今のは仲間に対しての声ではなかった。


「それでも考えて欲しいの。私たちはまだ相手の正体を知らない。どんな手で出てくるかわからないのよ。さっきのような結界にまた捕まってしまうことだってある。圧倒的に不利な状態にあるの。ここはあらゆる可能性を考えて対策を練るべきだと思う」


理性ではイインチョーの言う事を受け入れている。そうあるべきだと。

相手はこちらの正体を知っており、こちらは相手の事を何も知らない。


「相手は人狐よ。変化の術を使って誰かの姿に成りすますなんて簡単にやってみせる。それだけじゃない、憑依してその肉体を自由に操ることだってできるのよ。外見だけを信じて惑わされないで。真実から目を背けちゃ駄目なの」


相手の能力を踏まえ、イインチョーは当たり前の選択を提示している。


つまり、すべてを疑え。


そしてその疑いの向けられた相手――早貴さんには怪しいところがあるのも事実だ。


何故、彼女だけ結界に捕らわれていなかったのか。

実家でもある鼎神社は今でこそ違うが稲荷社と縁があった。

相手はキツネを操る事ができる人狐の可能性が高い。

そして人狐は他人の姿に化けたり、心を惑わせるのが得意だ。


早貴さんがそうだとは信じたくない。

もしかしたら800年前に死んだ野狐が現代に蘇り、早貴さんの姿に化けて今回の騒動を引き起こしている事も考えられる。

そんな馬鹿な事をと笑い飛ばしたかった。

でも否定する材料が何一つない。


「神社に来る途中でも言いかけたんだけど、彼女は四年制大学に進学しているの。高校を卒業したのは2年前よ。まだ大学を卒業している年齢じゃないはずでしょ。でも泉君は早貴さんは大学を卒業して戻ってきたと言った」


鼎神社へ移動中のあの時、記憶にある早貴さんの事を思い出そうとした瞬間だった。頭に鈍い痛みが走ったのは。

俺が倒れ、そこで話はうやむやになった。


冷静になれと心の奥底から声がする。一時の感情に流される事なく、今あるすべての情報をまとめ、整理し、真実を導き出さなければならない。


現状、もっとも怪しい人物は誰なのか――


この地域でこれまでキツネはほぼ目撃されていなかった。

だから人狐が外から連れてきた可能性が高い。人狐にとって眷属であるキツネを呼び寄せるのは難しい事ではない。


では最近、この町にやってきたのは誰か。


龍城市は人口が30万人ほどの地方都市だ。毎月それなりの転出、転入はあるだろう。

その中に複数のキツネを一時的とはいえ飼育できるだけの場所を持ち、夜の世界に関係している人物はどのぐらいの確率で存在するのか。


鼎神社にはキツネが隠れられそうな広い森――鎮守の杜がある。

鼎神社はかつて都を騒がせた野狐が祀られていた。

鼎神社の一人娘の名は井奈いな早貴さきである。

早貴さんは京都の四年生大学に通っているはずで、まだ卒業できる年齢ではない。


事実が並べられ、その一つひとつが可能性を突きつける。

けれど、感情がそれを受け入れるのを拒否する。


「何度も繰り返すようだけど、人狐は記憶の操作も得意としているのよ。それから変化の術もね。他人の姿を真似て、周囲の人の記憶をいじって他人に成り済ますなんて朝飯前なんだから」


例えば、まだ大学に通っているのに既に大学を卒業したと偽の記憶を他人に植え付ける事だってできる。


「……信じ、られ、な、い……」


力が抜けそうになるのをかろうじてこらえる。意識を失っているカナの首が力なく腕の中で揺れた。

どうしていいかわからない。俯いたまま、一歩、また一歩足を進める。

何かをしていないと嫌な方向に思考が転がって行ってしまう。


古い階段を上りきり、初春の頃には舞殿を紅白に彩る梅林を歩く。

柵に囲われた舞殿を横目に境内を進んでいく。

イインチョーは黙ったままあとをついてきた。


やがて左手奥に立派な拝殿が見えてくる。人の気配はなく、ひっそりとしていた。

さすがにこの時間は社務所の窓口も開いていない。何故か拝殿の正面扉はまだ閉じられていなかったので、入ってすぐの畳の上にカナを横たえる。

月明かりが差し込み、横になったカナの表情を照らす。小さな桜色をした唇がわずかに開き、白くて並びのいい歯が見える。呼吸も落ち着いているし、この分なら近いうちに目を覚ましそうだ。


拝殿前の階段下に立ち尽くすイインチョーを見下ろす。

瞳は揺らぐ事なく、真っ直ぐに俺へ向けられていた。

その目は言葉以上に雄弁に問いかけている。


「はー……」


いくつもの幸運が逃げていったとしてもおかしくないほど大きなため息をついた。

決断をするしかない。


「早貴さんを探そう……………………敵、かもしれないから」


敵という言葉をあえて使った。そうしなければ決心が揺らいでしまうからだ。

本心を言えば、早貴さんと相対したとして真っ直ぐ目を見る自信はない。顔を見てしまえば、声を聞いてしまえば悩まないはずがないからだ。

小さい頃から知っている人を簡単に敵と決めつけられるほど人間の心は簡単な構造をしていない。


だから、まずは確認をしたかった。

本人の口から「何を言っているのよ。そんなはずないじゃない」と笑い飛ばしてもらいたかった。

そうしたら信じる事ができるだろう。他に犯人がいるのだと。

そして戦う事ができるだろう。まさしく自分の敵として。


イインチョーは表情を変えず頷いた。

おそらく俺の考えている事などすべてわかっている。それでも、ここは頷く事しかできないのだろう。イインチョーだって本当に早貴さんが今回の一連の騒動を引き起こした犯人だと断言できないのだから。


「いつまでもここにいても仕方ないから行こうか」


拝殿前の階段を降りると二人とも自然と足を止める。

どこかに違和感があった。


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