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放課後、勉強会へ行く昌美たちと別れ、俺はイインチョーと図書室へ向かった。
本当はすぐにでもイインチョーとカナを引き合わせるつもりだったが、その前に確認しておきたい事があると言われたのだ。
試験前というのもあってか図書室はかなり混んでいた。
彼らの邪魔をしないよう図書準備室に席を確保する。図書委員をしているイインチョーの職権を利用させてもらった。
イインチョーが持ってきたのはこの地域に住む在野の研究者がまとめた小冊子だ。
椅子に腰かけると鞄から小さなケースを取り出してメガネをかける。
「この本でいくつか気になった記述があったのよ。鼎神社の成り立ちについて書かれているんだけど……ほら、ここ」
イインチョーの広げたページには奇妙な姿をした動物の挿絵があった。不格好だが四足の獣なので犬かと思ったが、ほっそりした顔つきや太くて長い尻尾からキツネなのだろう。
「ここを読んで。宮中で退治されたキツネのことについて書かれているわ」
――今からおよそ800年前の事。宮中に夜な夜な怪しく光る物体が飛来し、その頃から皇女が病に伏せるようになった。
当時、宮中の警備にあたっていた武将が天皇の命を受けて家来とともに怪光物を成敗する事にした。毎夜、その怪光物と戦いを繰り広げ、ついに弓で射落とす事に成功する。射落としたものをよく見てみると、それは野狐であった。
正体がわかり、射落とす事にも成功したので安心したのだが、皇女の病は癒える事がなかった。天皇はいろいろな事を試した。医者に診せ、薬を飲ませ、神仏に祈り、加持祈祷を行ったが皇女の病は重くなるばかり。病の原因も対処方法もわからず、ついに陰陽博士に相談をした。博士の卜筮によると皇女の病は射落とした野狐の祟りである事が判明した。
博士の提言により野狐を退治した武将の故郷であるこの地へ遺骸を送り、日本全国、六十余州の名山の土を集めて獅子形に仮山を築き、その面を宮中の方角に向け、野狐の霊を慰めるために稲荷社をお祀りした。すると皇女の病は癒え、すっかり元気になった。これが現在の鼎神社の始まりである――
「井奈のおじさんに聞いたのとほとんど同じかな。こっちのがかなり細かいけどね。ところで野狐っていうのはどういうものなの」
「ああ、それは人間から見た人狐のことだと思っていいわ。皆川淇園の解釈は夜属のそれとは違ってるけど、そもそも夜属は人間と接触を持たないようにしていたわけだから仕方ないわよね」
イインチョーによると、皆川淇園というのは江戸時代の儒学者で、妖狐の事を天狐、空狐、気狐、野狐の順番に格付けをしたという話だった。
「ここで私が気になったのは野狐の霊を慰めるために稲荷社を建立したのに今の鼎神社にその稲荷社が見当たらないことなのよ。あそこの神社って狛犬がいるでしょう」
「狛犬って石でできた犬の像だよな。そういえば鳥居の近くにあったけど」
鼎神社には三対の狛犬があった。一の鳥居と二の鳥居のところに一対ずつ、拝殿の前にも一対ある。
本殿前のはかなり古いらしく、他のものとは明らかに形が異なっていたと記憶している。
ここからはイインチョーから聞いた話を簡単にまとめておく。
本来は獅子と狛犬の一対で存在する守護獣像である。必ずしも石造りとは限らず、木製やブロンズ像、焼き物なども存在するらしい。
狛犬は空想上の生物であり、向かって右側が口を開けた角を持たない阿形の獅子、左側が口を閉じた角を持つ吽形の狛犬とされる。
もっとも、この阿吽については仁王像からの流れとも言われており、本来の獅子と狛犬にはなかったと考えられる。またいつの頃からか獅子も狛犬と呼ばれるようになり、それが現在は定着して両方とも狛犬と呼ばれている。
狛犬は神使であり、同様の役割を果たす守護獣としては狐や猿、蛇や鹿や牛などが知られる。なお、四国には全国でも珍しい猫の狛犬があるらしい。猫なのに狛犬とはこれ如何に。
「そもそもさ、稲荷社っていうのはどういうものなの」
「稲荷神をお祀りする神社のことよ。お稲荷さんって聞いたことないかしら」
「あー、あるある。油揚げのお寿司もお稲荷って言うけど、もしかして関係あったり?」
「想像上のキツネの好物が油揚げだからっていうのが理由らしいけど、本物のキツネは肉食だから、エサとして油揚げをあげても喜ばないでしょうね」
キツネといえば油揚げというイメージがあったので少し意外だった。
「稲荷神は字面からもわかるようにもともと稲の神様で、そこから転じて食物神、商業神として知られるようになるの。今では五穀豊穣や商売繁盛、交通安全といったご利益があると言われてるわ。まさに万能の神様よね」
話を聞く限りなんでもありって感じだ。神様もあれもこれもと願い事をかけられていい迷惑ではないだろうか。
「それから仏教における荼枳尼天と同一視されているわね。ちなみに荼枳尼天って白狐にのった天女様の姿をしてるの。こういう共通項があるところが面白いでしょ」
稲荷社の総本社は京都にある伏見稲荷大社だ。
稲荷山は奉納された一万もの鳥居による独特な景観で有名だというのでネットで検索したら納得した。これはちょっとすごい。
延々と続く鳥居のトンネルはまるで異世界へとつながっているかのような不思議な雰囲気を作り出していて、まるでこの世とは思えない。
ちなみに日本三大稲荷の一つと言われる豊川稲荷は正確には妙厳寺という寺院であり、境内に祀られる荼枳尼天のため稲荷と呼ばれている。境内には多数の狐像が安置される霊狐塚の他、千本旗という信者の願い事が書かれた幟が並び、伏見稲荷とはまた違った景観をしている。
「日本においてキツネは古くから神聖な生き物としてみなされていて、それがやがて稲荷神の使い、眷属として考えられるようになるの。だから普通の神社なら狛犬がいるんだけど、稲荷神社には狛犬のかわりに狐の像が置いてあるのね」
狛犬には様々なバリエーションがあるが、それは狛犬が想像上の生物であり、作り手のイメージが統一されていなかった事が原因の一つにあげられる。
それに対し狐は実在の動物という事もあり、形状のばらつきよりもポーズの変化が目立つ。さらに付属物として口に咥えた鍵や珠、巻物、稲といったバリエーションが存在する。尾の先に乗った宝珠なども独自のもので、これは狐火は尻尾から放つという言い伝えからイメージされたのかもしれない。
「もしかしてイインチョーが気になってるのは、稲荷社なら狐の像が置かれるはずなのに鼎神社には狛犬が置かれているって事?」
「そういうこと。神仏分離の時に稲荷社が宇迦之御魂神とかを祀る神社になったり、荼枳尼天を本尊とするお寺になったから鼎神社もそうなのかもしれない。でも野狐を射落とした弓弦はご神体として残ってるのに、神社ができた一番の理由である野狐の霊を慰めるための稲荷社が残ってないのはおかしいと思うの。どこかで歴史が塗り替えられている可能性がある」
真剣な表情でイインチョーは話を続ける。
「思い出してみて。退治された野狐は呪術的に守られた京都で暮らす皇女様を病にするほどの力を持っていたのよ。しかも死んでもなお皇女様を苦しめたほど強大な力を持っていた。その力は白面金毛九尾の狐――玉藻前にも引けを取らなかったかもしれない」
「白面金毛九尾の狐って中国とかで国を滅ぼすような悪さをした化け物の事だよな。玉藻前と同じものなんだっけ」
「よく知ってるじゃない。まあ、鼎神社の野狐は九尾の狐ほどじゃないとしても相当の力を持つ存在だった。だから稲荷社を建ててその魂を慰めようとしたのに、今ではその社が残っていない……どう、気にならないかしら」
「つまりあのキツネたちを操っていたのは、蘇った野狐の仕業だって言いたいわけか」
「可能性としてね」
しかしその野狐は800年前の平安時代に退治されている。百歩譲って平成の現代に蘇って復讐をするにしても、俺を襲う理由はないはずだ。
「可能性って言うけどさ、一度死んだ野狐が蘇るとか常識じゃ考えられないと思うんだけど。ゲームやアニメじゃないんだしさ」
「泉君、野狐はただの動物じゃなくて人狐よ。私たちと同じ知覚者なのを忘れてる」
「あ、そうか」
「宿曜である私たちは身体的に人間と同じだから違いはわかりにくいかもしれないけど、異能の力を持っている以上、普通とか常識って枠で考えない方がいいわ。それに泉君は実際に会っているんでしょ。遠い過去に生きていた人と」
「そういえばそうだった……」
俺も夜属として覚醒し知覚者となり、そして過去に封印されて現代に目覚めたカナとも出会っている。それはもう普通という言葉で片付ける事はできない。
「うーん、ここでこうして話してても埒が明かないし、カナに相談しよう。イインチョーを紹介したいしさ」
「そうね、行きましょうか」
立ち上がるとイインチョーは本を元の場所へ返しに行く。
戻ってくるのを待って、俺たちは図書室を後にした。




