2-4
鎮守の杜には大きな建物があるわけではなく、せいぜい小さなお社があるぐらいだ。昌美が担当する西側の森にはこんもりした築山があったと記憶している。
境内よりも濃い影が枯葉の折り重なった地面に落ち、ケヤキやムクノキ、クスノキにタブノキといった雑多な木々が競い合うようにして枝を伸ばしている。
小さい頃の記憶を頼りに進んでいくと目的としていたお社にたどり着いた。俺のいる森の東側はこのお社以外には何もないはずだ。
お社は長い年月を経たせいか木材は黒くくすんでいる。
高さは2メートルほどか。土台は石を積んであり、それがこの前の地震でずれてしまったのだろう。心なしか傾いている。このままだといずれお社ごと倒れてしまうかもしれない。
「これは早貴さんに報告しておいた方がいいな」
他にも何かないかと調べてみたが、特に見当たらなかった。
とりあえずこのお社の現状だけは報告しておくべきかと顔をあげる。
「うん?」
視界の端を赤いものが通り過ぎた気がする。
咄嗟にそちらに目を向けたが、そこにはずっと奥まで疎らに生える木々があるだけだ。
「気のせいか」
緑と茶色が占めるこの空間で、赤いものがあれば当然目立つ。しかし改めて見渡してみてもそんなものは見当たらない。
聞こえてくるのはさわさわと木々を揺らす風の音と時折響く鳥の鳴き声だけ。足音らしきものは聞こえない。
再び視界の端に赤いものが横切る。
急いで体を捻ってそちらを見るが、その時には既に視界から消えていた。
鮮やかな赤だった。あんな体毛をした生物は自然界に、少なくとも日本には存在しない。明らかにあの色は人の手の入ったものだ。
まさか早貴さんから聞いた悪しきモノでもないと思うが、警戒するに越した事はない。
上着の内ポケットに入れてあった筆を取り出し、広がる視界をイメージする。
この能力は催眠術の一種だと分析している。
つまり自分にはこういう力があると暗示をかける事で無意識に肉体がセーブしている力を使えるようにするという事だ。
この筆はあくまでイメージを想起しやすくするためのきっかけに過ぎない。極限まで集中をすれば微妙な音を聞き分ける事も高いところまで跳躍するのも決して不可能ではないだろう。
この能力のキモはどうしたら集中できるかにある。
正直なところ今のままでは使い勝手が悪い。イメージを強く、明確にしないと思い通りの結果を得られないし、内容によっては効果が得られるまでに時間がかかる。
そこで考え出したのが実現したい内容の文言をつぶやく事だ。オリジナルの呪文を口にするとも言える。声にすればイメージしやすくなるし、声が耳に入る事でイメージはさらに強力になる。
欠点があるとすれば、他人の前でやるのはちょっと恥ずかしいぐらいだ。
昨夜、寝る前に何度か試してみたが、これとわかるぐらいには成果があった。
イメージはより具体的になり、応用も利くようになった。
今ならば死角がなくなるように視界を広げ、どんな小さいものでも、どんな動きの速いものでも見逃さないようにすればいい。それを文章化して呟く。
『我が視界を広げ、つぶさに見せよ。どんなに小さいものも、どれほど速いものでも決して見逃したりはしない』
文言を唱え、空間に『視』と漢字を書く。
俺にしか見る事のできない〈視〉という漢字が目のあたりで漂う。
眼鏡をかけるように覗き込むと、ぎゅわっと視界が広がりながらも細部まではっきりと見て取れるようになった。感覚的には頭を巡らさなくてもパノラマ写真のように周囲が見えているような状態だ。これなら死角というものは存在しなくなる。
その時、木の陰に赤いものが視えた。
「そこだっ」
素早く隠れている木の裏側に回り込む。
「ひゃっ!?」
小さな悲鳴と枯葉がたてる乾いた音が重なった。
眼下には和服の子供が尻もちをついている。
耳のあたりで切りそろえられた黒髪は早貴さんのように黒々としており、まるで市松人形のようだ。着ている真っ赤な着物は洋服などよりもよほどこの子に似合っていた。
「み、みえておるのか?」
「そりゃ、まあ」
筆の力で視界を強化したおかげもあるのかもしれないが。
集中を解くと視界が元に戻る。女の子の姿が消えるような事はなかった。
「それより、こんなところで何してたんだ。お母さんに怒られるぞ」
怖がらせるのが目的ではないので膝を折って視線を同じ高さにして語りかける。
自分たちが小さい頃にしでかした事は棚の上に放り投げておいた。
「わしはここにずっと住んでおった。おぬしにそんな事を言われるいわれはないわっ」
頭をなでてやろうと伸ばしかけた手が、思わぬ剣幕と発言内容のために止まる。
「住んでるってそんなはずないだろ。まさか早貴さんの年の離れた妹とか言わないよな」
よくよく見ると顔立ちが早貴さんに似ているような気がする。特に豊かで艶のある黒髪なんてそっくりだ。
でも早貴さんに妹がいたという話は聞いた事がない。
「サキとはこの神社の娘の事じゃな。わしがあれの妹であるはずがなかろう。まあ、まったく無関係というわけではないが」
変わった話し方をする子だった。やけに時代がかっているというか、ババくさいというか。
キャラづくりをしているのなら立派なものだ。もっとも、この年齢からキャラづくりというのもどうかと思わないでもない。
「そんな事より、真におぬしはわしが見えておるのじゃな? この間抜け面で忌とは考えにくいし、いずれかの血を受け継いでおるわけか……」
疑わしげな目で見られる。その老成した表情は子供然とした見た目とギャップがある。
「わしはカナじゃ。おぬしの名は」
「泉圭二、だけど」
「ふむ、ケイジか。めでたい名じゃの」
そんな感想を言われたのは初めてだった。
しかもイントネーションが微妙に違う。
「っていうか、子供がどうしてこんなところにいるんだよ。もしかして家出って事か。だったら警察に連れて行かないと……」
「だからわしはここで暮らしておると言っておる。頭の悪い奴じゃな」
「嘘をつくのならもう少しマシなのにしろよ。こんなところで子供が一人で暮らせるわけないだろ。どこの野生児だよ。まあ、秘密基地ならギリギリありかもだけどな」
実際、小さい頃の俺たちはこの鎮守の杜で秘密基地ごっこをしていた。
滅多に人がやってこず、適度に周囲が囲われており、いろんなモノを隠しておける場所もあるとなれば秘密基地になるのはある種の必然と言える。
「ふふん」とカナは鼻で笑うと、くいくいとお社を指差す。
「お社がどうかしたのか?」
「わしの住処はあそこじゃ。封印が綻んでしまったので、こうして姿を現せるようになったんじゃがな」
「封印って……」
早貴さんの言葉を思い出す。
『だってこの神社は悪しきモノとかを封印しているんだから』
悪しきモノがなんなのかはわからないが、もしかしたら目の前にいる女の子がそうなのだろうか。
その割には凶悪そうな顔はしていない……というか、むしろ可愛い。
「なんじゃ、そんな顔をして。わしの顔に何かついておるのか」
口の端があがる奇妙な表情は、どことなく相手を馬鹿にしている雰囲気がある。
(ヤバい、なんかヤバい。こいつは危険だ)
そもそも最初に「みえているのか?」と聞かれた。つまりこいつはみえたらまずいものという解釈が成り立つ。
全身の毛孔が開く感覚。手足に力が入らない。背中を冷たい汗が伝い落ちる。一刻も早くこの場から立ち去らなければ……。
「ふっ、そんな怯えた顔をするな。別にとって食ったりなどはせぬ」
「……は?」
「おぬし、わしの事を悪鬼羅刹の類と思っておるのじゃろ」
そしてカナと名乗った少女は人の悪い笑顔をして見せる。
「逆じゃ、逆。わしはそういった悪しきモノを封じておったのじゃ」
「……え?」
「おぬし、血の巡りが悪いのか? あー、つまり阿呆か?」
「誰がアホだ、誰が!」
「おぬしの事だが」
「指を差すな!」
ムキになって言い返すとニヤニヤと笑われた。
完全に相手のペースになっている。
「おぬし、夜の扉を開いておるのじゃろ。でなければ姿隠しを使っておったわしの姿がみえるはずがないからの。まあ、よほど勘がよいのなら話は別じゃが」
「なんだよ、その夜の扉がなんとかっていうのは」
「む、おぬしは知覚者ではないのか。異能の力を持っておるのじゃろ」
「異能の力ってもしかしてこれの事か?」
おばあちゃんからもらった筆を見せる。
「ほう、おぬしは九十九か。しかし筆に憑いておるとは珍しいの」
「つくも?」
「あー、おぬしは間抜けか?」
「誰がマヌケか!」
「何を怒っておるのか知らんが、おぬしは自分の力の事を正しく理解しておるのか」
相変わらずニヤニヤと人の悪い笑顔をしている。
背格好からするとどう考えたって子供なのに、その表情は相応の年月を生きているように見えた。
「どういう意味だよ」
「ふむ。その反応はわかっておらんようじゃな。おぬし、それを誰から譲り受けた」
「……この前の連休で遊びに行った時におばあちゃんからもらったんだけど」
「ほう、九十九なのに血族で受け継いだのか。あまり聞かぬ話じゃが……そうやって手に持っておるという事は〈試儀〉はまだ経ておらんようじゃな。見た目はただの阿呆にしか見えぬが、おぬしによほどの才があったという事か」
「おい、さっきからまるっと考えてる事が聞こえてるぞ! いちいち、俺の事をアホとか言うな!」
「おぬしが間抜けである事は置いておくとしてじゃ」
「俺はマヌケじゃない!」
「おぬしの力の事、祖母殿から何も聞いておらぬのか」
意外にも真剣な顔で聞かれて虚を突かれる。
「あ、ああ……っていうか、これってただの催眠術みたいなものだと思ってたし」
「さいみんじゅつ?」
「なんていうか……自己暗示みたいなものって言えばいいのかな。自分にはできる、自分はすごいって思い込ませる事でちょっとだけ効果を高められるみたいなさ」
「なるほどの」
小さな手をアゴにあてて、カナは何やら考え込んでいた。
声をかけるなという雰囲気を出しているので考え事がまとまるまで待つしかない。
「……あー、つかぬ事を聞くが、その先代は既に亡くなっておるのか」
「いや、元気だぞ。畑仕事はまだまだ現役だって笑ってたし。この前だってとれたての野菜を食べさせてもらったけど、すげー美味かったし」
「そうか、それはよい事じゃな」
どこか遠くを見るような表情でカナは優しく呟いた。
「祖母殿を大切にせよ」
「そりゃまあ……遠くに住んでるからそうそう会えないけどな」
カナはお社の前にある石段に腰かけると俺を見上げる。
「仕方ない、わしが知っている事を話してやる。ほれ、おぬしもそのあたりに座れ。目の前に立たれると落ち着かぬからの」
「いや、別に話してもらう必要はないんだけど……」
「いいから座らぬか。この阿呆が」
「だからアホって言うな!」
いつまでもこうして言い合っていても仕方ないので、カナの正面にあった大き目の石の上に腰かける。
ぐらぐらして落ち着かないが、他に適当な場所がないので仕方がない。




