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美和子と呼ばれた女は「はい」と小さく答えて家の中に引き返した。声と表情が沈んでいたから、本意な指示ではないのだろう。すると入れ替わるように、顔の無い謙介君が夏ミカンの入ったレジ袋を持ってきた。夏ミカンの量を見る限り、七菜香が転倒するリスクを背負ってまで自転車で運んできた柿の量に対して、謙介君の家が用意した夏ミカンの量は少ないような気がした。
「お待たせ。ありがとうねわざわざ」
「良いよ、気にしないで。昔からの付き合いだし」
謙介君の言葉に七菜香は笑顔で答えた。年頃の少女が異性に笑顔になるという事は、この二人には幼馴染以上の何かがあるのだろうか。本当なら謙介君の表情を見て、二人がどんな関係なのか邪推したかったが、謙介君に顔は無かった。
「そういえば、こちらのお姉さんは誰なの?」
謙介君は私の事について七菜香に尋ねた。私は周囲の人間に対してちゃんとしていない事に気づき、慌てて畏まって自己紹介をする事にした。
「東京から仕事出来ました。フリーライターの金本ゆりねと言います」
私が自己紹介をすると、初めて名前を知った七菜香ちゃんは意外そうな表情で私を見た。近くにいた老人と謙介君の視線が、名乗った私に集まるのを感じたが、二人がどんな表情をしているのかは分からなかった。
「仕事で来たっていうと、どんなお仕事で来たんですか?」
「この地域の様子を取材して、ネットのメディアに記事にする仕事です。〝日本のどこかにある、とある地方の様子〟っていうタイトルで記事にするんです」
私が簡単な説明をすると、集まった人間の中で唯一顔がある七菜香は不思議そうな顔をした。
「この辺りに、何か記事になりそうなネタってありますか?」
「あるわよ。たった今ここまで来たことが」
私が少し自慢するように話すと、七菜香は納得したように「ああ」と相槌を打った。それと同時に、老人に指示されて家の奥に行っていた美和子という女性が、お茶が入った人数分の湯呑を持って来てくれた。
「滞在の日程とかは?」
今度は謙介君が質問した。
「ここから少し離れた、飯塚さんのお宅に二泊三日で滞在する予定です」
「そうなんですか」
また七菜香が相槌を打つ。すると思い出したように「そうだ」と前置きしてこう続けた。
「明後日に、近くにある広場でフリーマーケットがあります。よろしければいらっしゃいませんか?私も謙介君も行きますよ」
「ええ、ぜひ伺わせてもらうわ」
私は朗らかな声で答えた。何もない所で小さくともイベントを見つけるのも、大切な事だった。
そのあと程なくして、私と七菜香は謙介君の家から離れた。時刻は夕方になりかけていたが、太陽は想像より西に傾いていて、気温がかなり下がっていた。
来た道を戻る途中、私は七菜香に思い切って質問をする事にした。
「あの謙介君っていう子と、中が良さそうね」
私の唐突な質問に七菜香は少し驚いた様子だったが、すぐに平静さを取り戻してこう答えた。
「はい、彼は昔からの幼馴染です。今は部活でテニスをやっていて、来年は県の大会に出る事になったんです」
「そう」
恥じ入るように答えた七菜香の様子に、私は少し安心感を覚えた。こんな畑と自然に囲まれて、男に顔が無い集落でも青春があるのだろう。
「見ず知らずの私を助けてくださってありがとうございました」
別れ際に七菜香は深々と頭を下げ、夏ミカンを籠に積んだ自転車に跨って走り去って行った。その後ろ姿は、素朴な空間の中で穏やかな日常を送る、地方を舞台にした青春アニメ映画のヒロインそのものだ。主人公が都会から来た美男子で、七菜香のような素朴で礼儀正しいヒロインとの青春模様を、美しい映像表現と音楽で表現できれば、オタクとは異なる、アニメをほとんど見ない一般観客を招き入れる作品が作れそうだ。ここにいる顔の無い同級生たちや年長者の男性と過ごすよりも、健全でよりビジュアルが映える作品、いや青春が絶対に送れるはずだ。
そんな一抹の嘆願にも似た気持ちを抱きながら、私はホストファミリーが居る飯塚家に向かった。




