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十五分ほど経つと、一階から美菜子さんがお昼ですよ。と声を掛けた。私は裁判で名前を呼ばれた刑事事件の被告みたいに「はい」と答えて、不安を抱えた足取りでリビングへと向かった。先ほどみた顔の無い信一郎さんと勇将くんは、私の一時的な目の錯覚で顔が見えなかっただけで、普通の人間としてちゃんと目と鼻と口、眉毛によって構成される顔がある普通の人間であるという事を思いたかった。そんな淡い期待を微かに胸に抱きながらリビングに入った。
リビングに入ると、幸福な食卓を彩る料理たちが放つ匂いが鼻先を売った。カレー粉のスパイシーな香り、市販の焼肉のたれで調理した時の匂いが幸せな中流家庭という物を感覚で表現してくる。だが私が気になったのは料理の内容ではなく、食卓に着くこの家の男たち、信一郎さんと勇将くんの顔があるのかどうかという事だ。
私はリビングに入って、先に席についている家人の人たちの顔を見た。美菜子さんは良妻賢母らしい、柔らかい笑みを浮かべていたが、向かいの席に着く信一郎さんと勇将くんに、相変わらず顔は無かった。
私はまた言葉が出なかった。変換ミス、あるいはデータの破損で文章が欠落した文書ファイルのように、言葉が消えてしまったのだ。
「さあ、どうぞ席についてください」
美菜子さんは笑顔で私に着席を促した。
「ご相伴にあずかります」
私はネットの動画サイトにあった古い映画のそのまま口にして、夢見心地な気分で席に着いた。
「せっかくの来客なのに、平凡な献立ですいませんね。お口に合うと良いのですけれど」
美菜子さんは謙遜ように言って、私にテーブルに並んだ料理を勧めた。テーブルの上に並んだ料理は、玉ねぎとブロッコリーのカレー炒めに、豚小間肉のソテー、それに麦飯とネギと豆腐の味噌汁、キュウリの浅漬けという内容。塩分過多なメニューに、私はこの家が中流のブルーカラーの家庭であることを実感した。そう実感しないと、現実にいるような感覚を忘れそうになった。
「では、頂きます」
私は一言そう答え、目の前に置かれた箸を手に持った。
「いただきます」
語尾が間延びした漫画チックな挨拶を口にして、飯塚家の人々は料理に箸を付け始めた。私もワンテンポ遅れて、料理に箸をつけ始めた、野菜、肉、麦飯、味噌汁の順番で料理を口にすると、今まで刺激が無かった味覚が働いて副交感神経が刺激されたのか、張りつめていた神経が少し緩んで、混乱していた思考が少しずつ落ち着いてくる。
「あのハーレーは、金本さんの奴だよね?」
食べ物を口に運んで咀嚼する行為を少し行っていると、信一郎さんが私に質問してきた。
「そうです。中古で買ったスポーツスターのXL1200NSです」
私は口の中の食べ物を飲み込んでから答えた。自分の中の情報を口にして発言すると、また少し気分が楽になった。
「改造とかしているの?」
「バッサーニの2in1マフラーと、YSSのリアサスが入っているくらいですね。あと、今日みたいな泊まりの予定に使えるように、スラッシンサプライというメーカーのバッグを買って付けました。後はタンデムシートに替えたくらいです」
私は自分が乗っているハーレーに施した改造を説明した。私のような売文稼業の人間には、極端な改造は必要なかった。
「うちのCX‐5にはオプションでオートエグゼのスプリングとマフラー、タワーバーを入れましたよ。今度ホイールをワークの一九インチに替える予定です」
「そうなんですか」
私は適当な相槌を打った。
「私の弟が自動車修理店で働いて居ましてね、そこでやってもらう事になっています」
美菜子さんが喜んだ様子で付け加えた。一家の車の改造を喜ぶ当たり、信一郎さんの趣味に理解があるのか、それとも同じ感性を持っているのだろうか。
「うちのCX‐5はクリーンディーゼルで燃料代が安くて燃費がいいんですよ。そういえば、金本さんは何でハーレーにしたのですか?」
「高校の先輩で、私は付き合っている人がハーレーに乗っていたので、同じメーカーのバイクに乗りたくて、ハーレーにしたんです」
「そうなんですか」
今度は信一郎さんが相槌を打った。
「僕と美菜子も同じ中学の先輩後輩なんですよ。僕が二年生の頃に美菜子が一年生として入って来ましてね。最初の頃は普通に上級生と下級生の関係だったんですけれど、二学期の終わりくらいから付き合いはじめましてね。その後は僕の就職や美菜子の進学で距離が出来た時期もありましたが、今ではこうして所帯を設けていますよ」
信一郎さんは少し前に美菜子さんが話したのと同じ内容の馴れ初めを語った。飯塚家には自分たちの馴れ初めを語る時の定例文があり、それを暗記して相手に話す決まりでもあるのだろうか。飯塚家の誰かから「金本さんも先輩と結婚すれば?」というセリフが出てくるのではないかと身構えたが、出てこなかった。
「私たちが通っていた中学はこの村の西側にありますよ、もし興味があれば行ってみてください。と言ってもただの地方の公立校ですが」
信一郎さんが最後の方を少し自嘲気味に語ると、私は苦笑いで返した。
「ほかに、何かこの地域に面白い物はありますか?史跡や特徴的な施設とか」
私は自分の苦笑いをごまかすつもりで、信一郎さんに質問した。
「この地区を流れる川の上流に砂防ダム公園があるのと、その近くに小さな神社があります」
「わかりました。後でちょっと立ち寄ってみます」
私は不器用な返事をした。
「ただ、この家からだとちょっと距離がありますよ。自転車でも使いますか?」
「いいえ、必要なら乗ってきたバイクで行きます」
私は信一郎さんの申し出を断るように答えた。




