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工場に入ると、機械油とガソリン、ゴムと金属の削りカスがブレンドされた独特の香りが私の鼻を打った。この香りはハーレーを見て貰っているバイクショップと同じ匂いだったから、嫌いではなかった。
工場の片隅には、ワークのメッシュスポークのホイールを装着した新品タイヤが四本置かれていた。これがあのCX‐5に装着されたら、飯塚家は、夫と長男に顔がない事以外は、名実共に地方の労働者階級の家庭になるような気がした。
「ゆりねさんは、これからどうされます?」
不意に背後で男の声が私の名前を呼んだ。誰だと思って背後を振り向くと、声を掛けたのは信一郎さんらしかった。
「私はここにいてもお邪魔でしょうから、ちょっと街の方を散策してみます」
私は慌てて朧気に頭に浮かんでいた予定を口にした。この工場とその周辺を『街』と形容してよいのか分からなかったが、他に言葉が出てこなかった。
「どうぞ、と言っても目ぼしい建物はありませんが」
「いえいえ、色々堪能させていただきます」
私は小さく答えた。堪能できる施設や出来事が起こる訳ないのは自分でも理解していたが、ひとまずこの空間から逃げたかったのだ。
「もしお昼を食べるなら、通りに昔からやっている中華屋がありますよ」
「ありがとうございます」
私は小さくそう答えた。
顔の無い男たちのいる工場の敷地から出ると、私は胸のつかえがとれたような開放感を味わった。顔の無い存在を人間として意識し、会話をするというのが想像以上に自分の中でストレスになっていたのだ。
私は集落の中心を走る道路を、山の方へと向かって歩いた。進行方向には信一郎さんが話していた年季の入った中華屋があり、昼時の開店に合わせて準備している様子だった。
その中華屋を通り抜けると、何もない所に出た。山林が近く、観光客に民芸品や木工製品を売る店や農産物直売所があるのかもしれないと思ったが、私の興味を引きそうなもの、大衆的な関心を引きそうな商品や話題を提供しそうなものは無かった。
私は集落から離れると、『○○池公園』と、青地に白文字で書かれた看板が目に入った。昨日、助けた七菜香という女子中学生が話していた、フリーマーケットが行われる公園だろう。一瞬足を伸ばそうかと思ったが、池のほとりに行ったら得体のしれない何かが現れて引き込まれそうになるような気がして、近づく気にはなれなかった。
そこから離れると、私はこの地域に何もない事を思い出して軽く失望感を覚えた。普段の心情なら、一見何もないようなところであっても、様々な修飾を用いてそれなりに表現出来ただろうが、男に顔がないという集落にやってきてしまったせいで、本来なら表現できるはずの人間的な表現が奪われてしまったような気がする。致命的に不完全なままの世界が、私から平穏な感覚、プライマリーとかニュートラルなどと表現できそうな状態を奪っているのだ。
「すいません」
背後で私を呼ぶ声が聞こえた。女の声で、少し離れた場所から私に声を掛けたらしい。振り返ると、私と同い年らしいポニーテールの女が、軽く右手を上げていた。
「突然お声がけをして申し訳ありません、失礼ですが金本ゆりねさんでいらっしゃいますか?」
男たちとは違ってしっかりと顔のある女は、私が金本ゆりねであるかと、丁寧な言葉づかいで質問してきた。
「はい、そうですが」
私が素直に答えると、女は頭を下げた。
「昨日お世話になった、南中学校に通う明坂七菜香のクラス担任の飯塚歩実と言います。先ほど義姉の実家に行ったら、こっち方面に向かったと聞いたので」
飯塚歩実と名乗った女教師は私に声を掛けた理由を手短に語った。私は昨日、顔の無い信一郎さんと勇将くんに驚いたあと、田舎道で太ったネズミのような女子中学生を助けて、彼女と一緒に同じように顔の無いボーイフレンドの家に行ったのを思い出した。
「ああ、あの女子生徒の」
私は口に含んだものを吐き出すような感覚で答えた。男子生徒やその家族の事は上手く思い出せないのに、明坂七菜香という女子生徒の事を太ったネズミと喩えられたのは、顔があったからだろうか。
「あの時は本校の生徒がお世話になりました。あの後明坂さんから連絡がありまして、飯塚家へホストファミリーしていると聞いたので、すぐに連絡を義姉にしたら、姉の実家にいると聞いて、一言お礼の言葉をしようと伺った次第です」
歩実さんは腰が低い言い方でさらに詳しく続けた。私はこんなにも丁寧な受け答えが出来る学校教員が、地方の公立校に居るという事、そしてちょっとした小さな親切が、プライバシーの壁を突き破って大きな波紋を作り、コミュニティの情報として共有される事に驚いた。もしあの七菜香という女子生徒がボーイフレンドと結ばれ、ネズミのように繁殖して所帯を設けたら、二人の情報はそれぞれの実家のプライバシーの壁を破って共有されるのだろうか。そして生まれた子どもが男だったら、この集落の住人の男がそうであるように顔がないのだろうか。
「いいえ、お礼をされるような事をしたわけではありませんから」
私は少し間をあけて答えた。
「いいえ、明坂さんがあなたの事を褒めていましたよ。〝意外な場所でいい人に出会えたって〟嬉しそうでした。私も親類がお世話になっている身分として、個人的にもご挨拶がしたかったですし」
歩実さんの放った言葉は、きわめて真っ当で確信を突いていた。私は自分の疑問を勝手に答えてくれたような気がして、しばらく呆然とした。
「こちらへは、何を?」
押し黙っていた私を不審に思ったのか、歩実さんは声を掛けてくれた。
「ああ、なにか記事になりそうなものが無いかと調べるために歩いていただけです」
「地元の人間である私が言うのもなんですが、この辺りは何もないですよ。あるのは義姉の実家の修理工場と私が勤める学校、昔からある中華屋くらいですから」
歩実さんは私が刺激の多い都会に住む都会人であるからと思ったのだろうか、妙に遜った言い方で自分の故郷を形容した。感謝の言葉を伝えに来た後なら、もうすこし美化したような表現には出来なったのだろうか。
「もし何もご予定がなければ、戻って一緒にお昼にしませんか、兄も甥も、よかったら四人でお昼を食べようと言っているので」
歩実さんは私にそう提案してきた。もし歩実さんと一緒なら、顔の無い男に囲まれて息が詰まるような思いをするよりも、多少リラックスした環境で昼食が取れるかもしれない。
「ええ、ぜひ」
私はすぐ答えた。




