12
服を着替えてリビングに入ると、ペットボトルに入った野菜ジュースと、電気ポッドの湯で溶いたインスタントコーヒーの香りが私の鼻先を打った。テーブルの上には四人分の焼いたベーコンとスクランブルエッグ、塗り物はマーマレードとマーガリンという献立。ベーコンも卵も、近所のスーパーで購入した物だろう。
「言ってくだされば、私もお手伝いしたのに」
「いえいえ、ゲストの手を煩わせる訳には行けませんから」
私の言葉に対して、美菜子さんはそう謙遜した。見た目が美しく、細かい気配りが利く女性。こんな女性と所帯を設ける事が出来た信一郎さんは、間違いなく人生の勝ち組だろう。収入があるとか社会的地位とかよりも、一人の人間として保守的な価値観だが核心的な要点を、信一郎さんは手に入れたような気がする。
「おはよう。ああ、ゆりねさんもおはようございます」
私がぼんやりと空想に耽っていると、ジャージ姿の信一郎さんがリビングに入ってきた。ジャージ姿という事は、この寒い朝に屋外で身体を動かしてきたという事なのだろうか、アクティブな男性と美しく気配りの出来た女性の組み合わせ。限りなく完璧に近い組み合わせだが、男の信一郎さんには顔が無いせいで、すべてが奇妙な物に思える。それが飯塚家であり、この地域の特色であるように思えた。
「おはようございます」
少し間を開けて、私は信一郎さんに返事を返した。朝の運動後のスッキリした表情を目にすれば、信一郎さんが妻子のある身と理解していても、ときめきの心を覚えずにはいられなかっただろう。だが私にときめきを抱かせるはずの信一郎さんに、顔は無かった。
「昨日はよく眠れました?」
「はい、夜が真っ暗なのでぐっすりと」
私は複雑な心境を抱きながら、信一郎さんに応えた。
「ここでは、自慢じゃありませんが日の出と日没に合わせた生活が出来ますよ。僕は勇将を起こしに行きますので、ゆりねさんはお先にどうぞ」
信一郎さんはそう言い残して、勇将くんを起こす為にまたリビングから出て行った。まだ眠っている我が子を起こしに行く後ろ姿は、優しい理想の父親ともいうべき姿だった。
やがて信一郎さんが勇将くんを連れてきて、私たちは朝食となった。勇将くんはよく眠れなかったのか、フォークを動かす手の動きや、彼用に用意されたインスタントのポタージュスープを飲むしぐさがぎこちなかった。まだ開ききっていない眼差しを見れば可愛らしさも感じただろうが、勇将くんにも顔は無かった。
「きょう、紘一おじさんの所に行くの?」
勇将くんはポタージュのカップを口のある場所から話して質問した。
「行くよ。九時くらいに。頼んでおいたホイールの交換と、今履いているホイールにスタッドレスタイヤを着ける作業にね。お前も行くんだろう?」
「うん」
勇将くんは信一郎さんの言葉に応えた。
「私もご一緒していいですか?この街の中心部に行ってみたいので」
私は信一郎さんに訊ねた。顔の無い信一郎さんは、私の言葉を聞いて何を思ったのだろうか。
「構いませんよ、でも中心部と言っても、地域の人間が集まる事が多いというだけの場所ですよ」
「それでいいんです。地域の人からお話を伺って、記事にしたいんです」
私はそう信一郎さんに応えたが、信一郎さんには顔が無かったので、私の言葉を受け入れているのか否定しているのか分からなかった。
「良いですけれど、戻る時に今履いているタイヤを車に積み込みますから、四人は乗れませんよ」
「私はハーレーで後から付いてゆきます」
私が答えると、顔の無い信一郎さんはデータ読み込み中のゲームの画面のように固まって、こう続けた。
「じゃあ、それで。出発は九時半になります」
「わかりました」
私はすぐに答えた。




