1.雪解けの山小屋にて
午前の山は、雪解けの匂いを含んだ風で満ちていた。木漏れ日が小屋の机を白く照らし、遠くから小鳥の鳴く声が聞こえる。
小さなノック音が山小屋に響く。まどろみの中で、彼は顔を上げた。
机の上には数列や魔法陣が描かれた羊皮紙が散らばり、半ば乾いたインクの匂いが漂っている。淡く光る魔法陣の線が、僅かに揺れていた。自分は突っ伏したまま眠っていたらしい。
ノックはまだ止まない。
眠い目を擦りながら、扉を開ける。
扉の前には白いローブで体を覆った小柄な女性が一人で立っていた。裾には魔術師の証である金の刺繍があり、陽の光に照らされ淡く輝く。赤茶の毛束がローブの影から覗いている。彼女は氷のように冷たい瞳で彼を睨みあげていた。
「これはこれは。あなたは【治癒の魔術師】、エリザベッタ・ローランズ様ではございませんか。いつもながらお美しいですね。……この山小屋には不釣合いなぐらいに」
「あら、ごきげんよう。【星芒の魔術師】の一番弟子、フェルディナンド・アークライトさん。お世辞は結構よ」
「バレていましたか」
山小屋には僅かに薬草の香りが舞い、紅茶の湯気が立ち上がり、重ねられた書物の間を漂う。
エリザベッタは小屋を見渡し、ドカッと椅子に腰を下ろし、机に置いてある一つの羊皮紙を手に取り、眺める。フェルディナンドは淹れたばかりの紅茶を差し出した。
「お疲れでしょう?どうぞ」
「ありがと。」
エリザベッタは陶器のカップを受け取り、少量を口に含んだ。
「して、本日はどのようなご要件で?」
「アンタの師匠に用があるのよ」
「……師匠、ですか」
エリザベッタは紅茶を啜り、フェルディナンドは眉を顰めた。
「残念ですが、師匠は二週間程前から姿を消しております。……師匠のことです、きっとなにか考えがあってのことでしょう」
「あっそ。……で、代わりにアンタが?」
「はい。師匠の仕事をさせていただいております。そのため、徹夜二日目です」
フェルディナンドの微笑みに、エリザベッタは額に手を当て引き攣った顔で笑う。
「アンタ少し楽しんでない?」
エリザベッタは紅茶に砂糖を入れながら、僅かに眉を上げた。
「そうかもしれませんねぇ。師匠はなかなか手伝わせてくれないので」
エリザベッタは手にしていた紅茶のカップを置き、神妙な面持ちで彼を見つめた。フェルディナンドも雰囲気を変え、真っ直ぐに彼女を見る。
「本日はあなたにあることを伝えに参りました」
「あること、とは?」
「あなたの師匠、ミケーレ・アークライトがある疑いをかけられております」
エリザベッタは一度息をつき、僅かに手を揺らしてから言葉を続けた。
「……国家反逆に関わっているのではないのか、と囁かれています」
エリザベッタがその言葉を発した瞬間、小屋の暖かな雰囲気が一変した。
机に散らばっていた羊皮紙が空に舞い上がり、描かれた魔法陣が赤く、燃え上がるような光を放つ。光が壁や天井に反射して、部屋全体を血の色に染めた。まるで彼女が敵であると示唆するように。
「……なぜ僕にそのことを話したのですか?」
エリザベッタは一瞬言葉を失い、目をそらす。赤く刺すような光が彼女を見ている。
フェルディナンドはわずかに体を硬直させ、手を机に置いたまま笑う。
「師匠が……国家反逆?面白い冗談ですね。師匠を知っていればそんな事は言えませんよ。まさか、師匠を陥れようとでもいているのですか?」
「そんなことは……っ」
魔法陣が揺れ、生き物のように蠢く。
エリザベッタは手を膝に置き、唇を噛んだ。
「今の発言は師匠への侮辱と受け取ってもいいようですね」
「違うわ!そんなこと断じてないわ!神に誓って!」
フェルディナンドは机に片手を突き、彼女を睨みつける。
魔法陣の光はさらに赤く燃え、小屋の木が焦げた匂いが漂う。
…………………………………
揺れる視界の中、炎の先に人影が、静かにフェルディナンドを見ている。幻か、記憶の欠片なのか定かではない。だが、確実に言える。これは過去の師匠だ。
“フェル、落ち着いて。感情に流されたら真実は見えなくなってしまう”
「師匠……!」
そう言葉を残し、ミケーレは消えてなくなった。
…………………………………
ギィィ、と木材が軋み、赤熱した線が跳ねる音が響く。魔法陣の光が膨れ上がり弾けると、元の穏やかな空間へと変わっていた。先程まで浮いていた羊皮紙も静かに地へと落ちていく。
部屋には魔法の残り香だけが微かに漂った。
「は、ぇ?」
「……すみません、少々取り乱してしまいました」
エリザベッタはまだこの状況に追いついていないようだ。フェルディナンドは彼女に座るように促した。
「えぇと、少しは落ち着いたかしら?」
「はい、すみません」
フェルディナンドは深く息をつき、揺れる魔法陣の残光を静かに消した。
「全くよ。言っておくけど私はアンタよりも立場は上なんだから」
エリザベッタは頷き、膝の上で手を組み直す。
「話を続けるわ。この噂について国王陛下も既に知っているの」
「へぇ……国王陛下が……」
「そこで陛下がアンタに命令を下したわ」
エリザベッタは静かにフェルディナンドを見据えた。その声には一層の重みがあった。
「“【星芒の魔術師】を探し出し、連れ戻せ”と」
フェルディナンドは机の縁に手を置き、苦笑する。
エリザベッタは、声を落ち着かせたまま続けて話す。
「【星芒の魔術師】ミケーレ・アークライトは、この国にとって失えない存在よ。彼を逃せばこの国は大きく揺らぐでしょう」
フェルディナンドは無言で頷いた。
星魔法――それは火、水、土、風、影の全ての属性を極めた者だけが使える伝説の魔法。世界で唯一、師匠だけが到達した幻の魔法。
その力の可能性は未だ計り知れず、そんな師匠を失えばこの国の均衡は崩壊しかねない。
「……了解しました。このフェルディナンド・アークライトが【星芒の魔術師】を見つけ出してしんぜましょう」
「そう?随分とアッサリね」
「渋々ですよ。見て分かりませんか」
エリザベッタは紅茶を飲み干し、立ち上がる。苛立っているのか仕草が乱雑だ。素早く帰る支度をし、睨みつけながら彼女は言った。
「言い忘れていたけどこの任務には最低4人のパーティを組みなさい。あなた一人ではこの任務は成し遂げることは出来ないわ」
フェルディナンドの言葉を遮り、力強い声でエリザベッタは続けて言う。
「これは陛下からの命令よ。立場を考えなさい」
エリザベッタの言葉にフェルディナンドは口を噤むしか無かった。
――
エリザベッタが立ち去った後、フェルディナンドは散らばった小屋内を片付けていた。
魔法陣の残光を手で払う。胸の奥でまだ熱を帯びる鼓動を感じながら、部屋を見渡す。
彼女に言われた言葉が脳内で再生される。
“あなた一人ではこの任務は成し遂げることは出来ないわ”
しかし、一体誰と行動すれば良いのだろうか。魔法学校での友人とはもう連絡を取りあっていない。――それに、自分に着いていけるか不安だ。
「僕だけでもできると思うんだけどな……」
フェルディナンドは手にしていた羊皮紙を握りつぶした。
小さく零した独白が、木製の壁に吸い込まれて消えていく。
それでも行かなければならない。いや、これは違う。
「行きたいんだ。僕が、師匠を見つけ出すんだ。そのためならどんな試練も乗り越えて見せよう」
そうと決まれば、早速準備をしよう。
仲間を集める――それもまた、この終わりのない旅の第一歩の一つでしかないのだから。
「待っていてください、師匠」
フェルディナンドは冷めきった紅茶を飲み干し、息を整えた。
小屋の外にはまだ見ぬ未知の世界が広がっている。
「まずは、仲間を見つけるところからかな」
フェルディナンドは小さく笑い、小屋から一歩を踏み出した。
少し湿った微風が通り抜ける。鳥は歌い、暖かい日差しが心地よい。
その足取りは軽やかで、少し重い。不安が全くない訳では無い。むしろ不安しかない。それでも、あなたに会えるなら。
待っていてくださいね、師匠。
「さて、最初は誰を選ぼうか」