タイトル未定2024/05/15 00:56
生きる意味って何だろう。
僕が初めてそう思ったのは、親と本気の喧嘩をした時だった。多分17歳のときとかだった気がする。
親に人格を否定されて、自分のしてきたことを否定されて、人生を否定されたようなそんな気分だった。家庭内の相談なんて、誰にしたらいいかわからないから、ずっと自問自答していた。自分が悪いのか、親が悪いのか、とか。何が間違っていたのか。とか。
みんなはどうなんだろう。
予想にはなるけど、ほぼ確信して言えるのは、自分よりも辛いとされる境遇の人はいるということ。そんな境遇の人が、今の僕の家庭環境に投げ込まれたなら、きっと幸せに感じるのだろう。そういう風に考えた。でもそうじゃない。自分を孤高にしようという訳ではないのだけれども、僕の辛さは僕だけの所有物であって、何人たりとも理解できるようなものではないのだ。人の苦しさは人にはわからないのだ。想像することは容易い、だが、わからないのだ。
国語の現代文、登場人物の気持ちを考えろ。それを想像するのはいとも容易い。でも違う。人の気持ちは理解できない。もし完全に理解できる存在がいたとするなら、それは人智を超越した何かなんだと思う。
人は人の辛さを理解できない。だから他の人と比較してはいけない、なぜなら比較するには正確に推し量る必要がある。その人の辛さを、同じ数直線上で、定量的に、推量する必要があるのだ。だから僕より辛い人がいるんだから頑張らなくては、なんて思う必要はなかった。僕の中では、相対的ではなく、絶対的に辛いのだから。勿論、他の人に僕のほうが辛いよ、などと宣うのは以ての外である。
要するに、僕が考えた結論は辛さ、ないし、幸不幸において人と比較するのは、ナンセンスであるということである。誰もがわかっていることだろうが、今一度大切にしたい気持ちだと、僕は思っている。
でも、もし、それでも自分を奮い立たせたい、そう思うのであれば、僕と一緒に頑張ってほしい。
自分を奮い立たせるために、ぎりぎりで踏ん張った考え方は、僕よりも辛い人はいる、という思考だ。人にこんな考えを強制するのも、推奨するのも、どちらも良くない。だが、僕が踏みとどまることができたのは、前述の考え方だ。
僕は塵を積もらせ、山を作ることができるほど勤勉な性格ではない。頑張ろうと思っても、三歩進めば鶏のように忘れてしまう。3・2・1・ぽかんっ、といった具合にだ。その瞬間に持ったはずの強い情熱を僕は、すぐに冷めさせてしまう。だからいつも限界まで後退してしまうのだ。同年代の人や、友人から周回遅れしてしまう。そして最後には、別にこのまま堕落していってもいいのではないかという、悪魔からの誘惑を受ける。とても魅力的だ。怠惰に身を任せろという、魅力的な提案。
その提案に乗り、受動的に生きるのはすごく楽だ。僕の場合だったら、みんなが行くから塾に通って、みんなが通うから高校に通い、みんながするから受験をして、みんながするから大学生になる。まさに付和雷同なのだ。
そんな風に生きて、そして、人のせいにするのは凄く楽だ。僕がこうなってしまったのは、親、環境、社会のせいだって叫ぶのは凄く楽だ。事実、そのような側面もあるだろう。自分の潜在能力だけでは、どうしようもない理不尽で溢れていると思う。生きていると解決できないことのほうが、多いのだから。
でも、やはり人のせいにはしたくない。自分の幸せを人と比べたくない。
だから耐えられなくなるまで頑張って、それでだめだったら人のせいにしよう。そう思っている。
生きる意味はまだわからない。
敢えて何か言及するのであれば、死ぬ瞬間に理解するのだろう。生きる意味というよりも、生きてきた意味を理解するのだろう。例えば、家族を作った、人を幸せにした、とか。
だから正直のところ、死んでみないとわからない。
生きるのは辛いことがとても多い。多分僕より辛い人なんか沢山いるに決まっている。そんな人は、僕の生活を見て、贅沢を言うな、甘えるなと思うかもしれない。でもそれで精一杯なんだ。
僕は人にそんなことを言わない。言う余裕がないのだ。自分のことで精一杯で、時間がない。だらだら生きているけども、時間がないのだ。自分のことを好きになりたい。誰かに好きになってもらいたい。やりたいことをやりたい。
明日死ぬと思って生きろなんて、そんなのはみんなわかっている。それぐらい必死に生きたい。
死ぬまでただ呼吸をするというのは、生きているとはいえるのだろうか、という風に思うから。