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細心の注意を払って婚約破棄する事

 かつて、婚約を破棄された。

 色恋にうつつを抜かした王子が、邪魔者となった婚約者にあらぬ疑いをかけて断罪してしまう、どこかで聞いたような話だ。


 結局、偽りが露呈して、罰せられたのは王子と王子に色目を使った売女。男は廃嫡の上で城に軟禁。女の処遇は不明だが、命があるなどと思っている人間はこの国のどこにもいない。


 そして、残るは悲劇の少女。

 由緒ある公爵家に産まれ、王子の婚約者として育てられた淑女の中の淑女。しかし、その人生のほとんどが、たった一人のわがままによって泥に塗れてしまった。


 名前は、クリスタベル・フューイ・バーグマン。

 バーグマン公爵家長女にして、今や戯曲の題材になるほどの有名人である。


「まあ、そんなに怯えないで」


 クリスタベルは、優しく話しかける。

 城の一室。絢爛な装飾ではあるものの、端の端のそのまた端に位置する、ほとんど誰も立ち寄らないような場所。そこには、まるで生まれたての子鹿のように震える人影があった。


「や、やめろ! 来る、なぁ!」


「なんて愛らしいんでしょう。食べちゃいたいくらい」


「ヒィ!?」


 ガタガタと震える青年は、かつて誰もが羨む才人であった。

 容姿端麗、眉目秀麗、文武両道、質実剛健、頭脳明晰。彼を言い表す賞賛は枚挙にいとまがない。情熱的な紳士で、誠実な男で、女性のみならず男性ですら彼に憧れた。今では名前を出す事も憚られる存在ではあるものの、国にその人ありといわれた傑物に他ならないのだ。

 第一王子、クリストファー・ゴードン・ジェラルディン。かつて、王太子と呼ばれた人物である。


 完璧な紳士であるとすら謳われた彼ではあるが、ある時大きな異変が起きた。人ならば誰しも起こり得るものの中で、最も大きな影響を及ぼす変化。すなわち、恋を知ったのである。

 儚く、弱く、そして美しい少女。王子とは明らかな身分違いではあったものの、彼は身を焦がすほどの情熱を感じていた。

 ——そして、事実その身を滅ぼした。


 滑稽であると言えばそれまでだが、少女の口車に乗ってしまったのだ。婚約者に汚名を被せ、その身分を剥奪する。聡明であるはずのクリストファーだが、その大き過ぎる恋を前にして自らを見失ったのだ。

 国に注ぐべき愛を、一人の女性に与えようとしてしまった。そんな愚物の末路が、生半であるはずがない。


 クリスタベルの身の潔白は、容易く証明された。人の目、耳、口に戸を立てられないように、王子の思惑が何処かから漏れてしまったのだ。

 彼は廃嫡ののち、城の一室に軟禁状態にある。訪れる者といえば、かつての婚約者であるクリスタベルくらいのものだ。


「な、何をしに来たというのだ! 今更この私に!」


 かつての頼もしさはどこにもない。そこにいるのは、恋に溺れて軽はずみな行動に出た愚か者である。


「お話がしたいだけですわ。どうも領地が忙しく、ここにはあまり顔が出せませんでしたもの」


「今更何の話がある! わ、私は悪人で、お前は被害者じゃないか! 本当ならば顔も見たくないと避けるものだろう!」


「本当ならば、などとおかしな事を仰いますわ。(わたくし)以外に、王子から婚約を破棄された貴族がおりまして? 王子に婚約を破棄された令嬢の理想的な態度なんて、どこを探してもないはずですわ」


「……っ」


 クリスタベルは、持参した茶葉で紅茶を淹れる。領地で採れたものであり、一番の特産品である。


「どうぞ、クリス。折角見た目だけは豪華なお部屋ですもの。使わなければ勿体無いわ」


 恐る恐る、といった様子で、クリストファーはテーブルに着く。しかし、クリスタベルの紅茶には手を付けなかった。


「……彼女はどうなった」


「彼女……?」


「とぼけるな。マルタ・リベールだ。私のせいで、おかしな事に巻き込んでしまった」


「ああ、貴方が御執心だった」


 紅茶を一口飲む仕草一つとっても、彼女は貴族令嬢である。テーブルにカップを置いた音すらせず、そのカップには紅も付いていない。

 婚約者を奪った女の話をしてなお、その所作には寸分の狂いも見られないのだ。しかし、それもそのはず。

 何故ならば……


「始末しました」


「……は?」


「あ、別に恨んでいたわけではありませんの。ただ、口を封じたくて」


「何を……言って……?」


 クリストファーの口が、急激に渇く。目も、指もだ。しかし、それでも紅茶には手を付けなかった。ほんの少し動いた視線をクリスタベルに戻して、生唾を飲み込んだ。


「色々言われては困りますもの。あの子は口が硬い方でしたけれど、絶対とは言い切れませんわ」


「何だそれ……? あ、“あの子”だと? そ、それでは……それ……で、は……まるで……」


「ああ、言っておりませんでしたわね。マルタさんは、我が家の影ですわ」


 影。

 ある程度以上の貴族であるならば、後ろ暗い事からは逃れられない。暗殺、諜報、賄賂。しかし、そんな事を表沙汰にすれば、家の名に傷が付いてしまう。つまり影とは、貴族が成す水面下での仕事を行う裏の顔の事だ。


「どうにか貴方を失脚させるために様々な手を打ちました。貴方の友人の何人かは我が家の息がかかっていましたし、使用人についても二人か三人は影が入り込んでいます。その中で最も早く効果が現れたのがマルタさんというだけですわ」


「何を言っているんだ……?」


「ですから、貴方には絶対失脚していただきたかったのです。そのために尽くした手段のうちの、たった一つが彼女ですわ」


「違う!」


 クリストファーは立ち上がる。後ずさると言ってもいい。動揺のあまり一歩退き、その際にテーブルに足をぶつけた。カップが倒れてクリスタベルの服を濡らすが、彼女がそれを気にする様子はなかった。


「な、何故殺す必要がある!? お前の家の影なのだろう!?」


「ええ、でも絶対とは言えませんもの。リスクマネジメントの一環ですわ」


「…………」


 声は返らない。

 人を一人殺しておいて平然と話すその精神性が、理解できなかったからだ。それは、他者からそそのかされて馬鹿な事をしでかしてしまったクリストファーとは違う、もっと根本的な異常である。

 昨日今日の間ではない。婚約者として、少なくない日々を過ごした。その上で、まるで気が付かなかった。クリストファーが特別に鈍いのではない。これほどの狂気を内に抱えながら平然と過ごしていたクリスタベルこそが、平常と対極に位置する特異なのだ。


「な、何故だ……」


「はい?」


「何故私を失脚させようなどと……」


「ああ、そんな事」


 クリストファーにとって、最も重要な疑問だ。しかし、クリスタベルにとってはそうではなかった。ゆっくりと紅茶に口をつけ、たっぷりと香りを楽しみ、新しく淹れ直す。彼女にとってその疑問は、午後のティーブレイクに優先するような事ではないのだ。

 何故ならば……


「貴方を愛しているから、ですわ」


 たったそれだけの、単純な理由だからだ。


「……は?」


「愛しておりますの、貴方を。誰よりも」


「いや……な、何を言っているんだ……? おかしいじゃないかっ。なんで愛していたら失脚させるんだ!」


「まあ、意外に物分かりが悪いのですね。でもそんなところも可愛くて素敵だわ」


 上品に薄く笑った口元、やや赤らんだ頬。あるいは美しくもあるクリスタベルのそんな様子が、クリストファーには恐ろしくて仕方がなかった。意味の分からないもの、得体の知れないもの。自分はここまで臆病だったかと驚くほどに、彼は心から恐れていたのだ。


「だって、貴方はいずれ国王になるんですもの」


「そ、それが一体……」


「国王にはなってほしくないのです。国王は、国を愛するものですもの」


 王は国を愛すもの。それ自体は、紛れもない事実である。それはつまり、一人の女性ではなく。


「貴方には(わたくし)を愛して欲しいのです! 国ではなく! この(わたくし)を! 我慢ならなかったのでですわ! 貴方の愛が(わたくし)以外に向けられてしまう事が!」


「な、なにを……」


 言葉が続かない。クリストファー自身ですら、その感情を言葉にする事ができなかったからだ。疑問符を浮かべてはいるものの、何を問い掛ければいいのかが分からなかった。何を説明されれば理解できるのかが分からなかった。何をすれば理解されるのかが分からなかった。

 何一つ。たった一つも。


「これで、貴方は(わたくし)のもの! もう誰もここには来ません! もう何もここでは起こりません! ただ貴方と(わたくし)がいるだけですわ! まあ! 安心してくださいなクリス! そんなに怯える事はありませんわ! もうずっと! ずぅっと! ずぅ〜っと一緒ですもの! あとは、()()()()だけですわ! 貴方の子である事は内緒ですけれど、それだけは我慢してください。構わないでしょう? だって、二人の愛の結晶であると私達が知っていれば充分ですもの!」


 ◆


 クリスタベル・フューイ・バーグマン。

 王国の歴史上、彼女ほど政の才能を認められた女性はいない。その頭脳と辣腕を遺憾なく発揮し、夫であるエドワード・J・ジェラルディン第九代国王を支えた。

 子はブライアン・C・ジェラルディン。エドワード死後、第十代国王となった。

 クリスタベルは、大変な子煩悩であったと伝えられている。

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