第五話 二人の初恋
アレクヴェール視点
「あぁぁ……」
「大丈夫」
「もう……!」
「ははは!」
「ごめんなさい、アレク……」
涙目になっているリアがかわいい。
リアはダンスが苦手だ。
普通に走ったりするのは平均的に出来ると思うけど、何故かダンスだけはいつも間違って俺の足を踏むことになる。
本人曰く、頭と足の動きが連動してないらしいけど、まぁそんなところも可愛いから俺は何だっていいと思っている。痛くもないし。
「間違えても分からないようにするし、何ともないから気にしなくていいよ。リアが動きやすいように続けて」
「……ありがとう」
ちょっと涙混じりで見上げられれば、この世界の全てを敵に回してもリアだけは守り抜くと毎回思う。
リアは俺にとっての全てだ。
四歳の時に親が事故で死んでから、顔の知らない親戚の家に預けられた。そこには同い年の男の子がいて、その子供には執拗に嫌がらせをされた。
一方でその親は、俺に全く関心がなかった。ご飯も寝床もあるけど、名前を呼ばれることは最後までなかった。
ここ以外に行くところがないので子供からの嫌がらせに黙って耐えていたけれど、両親の悪口を散々言われた後、
「お前なんかをかばって死ぬなんて、お前の親は相当のマヌケだな!」
と蔑まれた瞬間、頭の中でブチッと何かが切れた。
どうして我慢しているんだろう、と思った。
その後のことはぼんやりとしか覚えていない。見渡したら俺達がいた部屋はめちゃくちゃで、子供は部屋の隅で蒼白な顔をして怯え縮こまっていた。
俺はすぐに家から放り出された。五歳の時だ。
それからは町の路地などで、拾い食いをしながら生きるしかなかった。孤児院なんて存在も知らなかった。
毎日必死に食べ物を探す中で、人の良さそうな大人からもらったものを食べて腹痛に襲われたことがある。
苦しむ俺を楽しそうに笑いながら見てるそいつを目にしてから、二度と人を信用するかと思った。
当然、治ってから人目のつかない場所でボッコボコにした。子供だからと甘く見られていたようで、手招きすればすぐ近寄ってきたから簡単だった。
俺の痛みを思い知れと思って殴っていたら命乞いしてきて、殺しはしないと言ったら泣いていた。
それを見ても、大人でも泣くんだなという感想だけだった。
俺はどうやら力も体も強いらしい。襲われそうになったことも何度もあったけど、全部返り討ちにした。その内に、町の人の俺を見る目が怯えきっているのが分かった。
七歳の時、荷馬車に紛れこんで知らない町へと辿り着いた。
しばらく歩くと大きな川があって、その周辺は草で生い茂っていた。川で汚れを洗い流して、そこからは食べられそうなものを探して歩いた。
どこからか、小さい悲鳴が聞こえた。
女の子の声だった。
顔を上げて周りを見回すと、見たことないくらい綺麗な女の子が野犬二匹に襲われそうになっていた。
大人もいたが彼女よりも後方にいて、犬たちは明らかに彼女だけを狙っていた。
野犬を前に動けなくなった女の子が、涙をいっぱい溜めた瞳で俺を見た。
目が合った。
そう思った時には、俺はその場から飛び出して、犬が彼女に届く直前で犬に一撃を食らわせていた。
すぐ近くにいたもう一匹もすかさず蹴り飛ばして、倒れた犬を上から見下ろす形で睨んでやった。動物は単純だ。どちらが強いかさえ示せば、襲いかかってくることはない。
犬たちはよろよろと逃げ出して、俺も一息ついた。
犬を殴った右手がやけにじんじんとして、よほど力を込めたんだなと、そこでやっと気付いた。
「……あの」
後ろから、すごく綺麗な音がした。
「助けていただいて、ありがとうございます。あなたにお怪我はありませんか?」
透明って、声にも当てはまるのかな、と思った。
ゆっくりと振り向けば、赤紫色の瞳がじっと俺を見つめている。
「……大丈夫。何ともない」
久しぶりに人と話したから、声はカスカスだった。
「本当にありがとうございます。私はシトリア・ファルマージャンと申します。お礼をしたいのですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
スラスラと紡がれるその言葉たちはとても綺麗で、俺なんかが話をしていいのか分からなかった。
「あの……?」
黙り込む俺に戸惑うように彼女が一歩こちらへと近寄るが、俺は咄嗟に後ずさり彼女から距離を取る。それにひどく悲しそうな顔をした女の子。
自分が傷付けたということは分かった。
でも、俺みたいな汚くて危ないやつが彼女の近くにいたらいけないと思った。
「近寄っちゃ、だめだ」
「……どうして?」
「俺は汚いし……あんたに怪我をさせるかもしれない。さっきの犬も……殴った俺も、恐かっただろ?」
川で流したけど、汚れは完全に落とせていないし、何日も体を洗えないことだって普通にあるから、川で洗ったぐらいでは匂いだって取れない。
さっき野犬を殴った手は赤らんで、それこそ暴力の証だった。
お願いだからそれ以上は近寄らないでほしいと思ったが、その願いは彼女には届かなかった。
一歩二歩とずんずん進んできて、俺の目の前で止まる。
「私を助けてくれたあなたは、汚くもないし、危なくなんてありません!」
驚きながら見た彼女はさっきまで悲しそうだったのを怒りに変えていた。
「見ず知らずの人のために野犬に立ち向かえる勇気のあるお方を、そんな風に思うなんてありえません!」
父さんは、誰かを守るために強くなろうと言ってくれた。
「それに、あなたの瞳はとても澄み切っていて、あなたの心もとても綺麗なのだと思います!」
母さんは、この目が好きだと言ってくれた。
「だから私があなたを恐がるなんて、絶対にありません。信じてください」
どうしてあんたがそんなに必死なの、と聞きたかったけど、それらは遂に口からは出てこなかった。
代わりに溢れたのは、誰かに聞いてほしかった、俺のこと。
「……アレク、ヴェール」
掠れた声でもどうにか聞こえたのか、彼女はにこりと微笑んだ。
「アレクヴェール様というのですね」
自分の名前が、すごく特別なものに思えた。
「俺…………親が死んで……親戚の家を追い出されてから、一人なんだ。あんたみたいに綺麗な人、初めて見た。俺なんかが近寄っちゃだめだって……思った」
それなのに、あんたは詰め寄ってきた。ぐんぐんと。
「俺はすごく力が強くて……怒った時に周りのものを壊したり……人を怪我させるから、危ないと思う。大人に騙された時も、相手を殴って泣かせたりした。だから出来れば、あんたには怪我して、ほしくないから……」
離れてくれ、とは言えなかった。
離れてほしくなかったからだ。
「アレクヴェール様」
また優しく、名前を呼ばれた。
「これからはあなたのその力を、私を守るために使ってくれないかしら?」
最初は相手が何を言っているのか、本気で分からなかった。
けれどその言葉を噛み砕いていくうちに、喉の奥が灼けるように熱くなり、目が潤んできたのが分かった。
「私はあなたと一緒にいたい」
赤くなった俺の手を真っ白で柔らかな両手が包んでくれる。
「私は何があってもあなたを裏切らない。あなたを傷付ける全てから、私が守ってみせるわ。だからあなたも、その強さで私を守ってくれる?」
流れる涙も拭って、彼女が、美しく微笑む。
「あなたを幸せにする権利を私にちょうだい」
あまりの歓喜から体が震えた。衝動のままに手を伸ばして気付く。
俺は、危険なんだと。
しかし……
「大丈夫。あなたは私を壊したりしないわ。だってずっと、大事にしてくれているじゃない」
最後の引き金が引かれた。
思うがままに、彼女を両腕で抱きしめて、その細い体に縋り付いた。
「…………一緒に、いていいの?」
掠れた声で問いかける。
「ええ、私が望んでいるの。あなたにいてほしい。私のそばにいてくれる?」
「…………うん」
肩口の布地を濡らしているのに、彼女は一つも嫌な素振りをせず、ずっと抱きしめてくれた。
泣き止んだ俺がやっと彼女を解放したら、この世界で一番大切だと思える人が、俺を見て笑っていた。
この子に命を捧げようと思った。
「あ、ちょっと上手にできたわ」
「うん。いいかんじ」
「もう一回練習してもいい?」
「もちろん。何度でも」
努力家なところも好きだ。
座学に関して天才とまで言われるけれど、毎日難しい本を呼んで、教師や旦那様に何度も質問をして、いつだってリアは上を目指して努力を続けている。ダンスだって苦手だけれど、挫けずに何度も挑戦する。
そんなリアの隣に立つのに恥ずかしい真似は出来ないと、俺も出来る限りのことはしてきたつもりだが、きっとまだまだ足りない。
もっと周りにも認められて、リアを俺だけのものにしたい。
誰にも譲らないし、奪われるつもりもない。
「何か考え事?」
「リアのことしか考えてないよ」
「ふふ。私もアレクのことだけよ」
ドキッとしてリアを見れば、口元が愉快そうに開く。
「アレクの足を踏まないためにはどうすればいいかばっかり考えているわ」
イタズラ成功、みたいな顔して笑って。
とんでもなく可愛いな。
「踏まないようにするなら、これが一番簡単だけど」
「え?」
素早くリアの腰と膝裏に手を回し、その勢いで持ち上げてそのまま一回転してみせる。
「どう?」
パチパチと目を瞬かせるリアににやりと笑えば、リアはぷくっと頬を膨らませた。
「私のステップが上達しないから却下よ」
「それは残念」
まだ降ろす気はなくて、リアを抱えたままくるくると回る。
「もう、アレク、これ以上していたら目が回るわ」
「はい、了解」
最後一回りして、リアをそっと床に降ろす。そうするとリアはぽすっと俺の胸にもたれかかった。
「……目が回っちゃったから、もう少し支えていて」
ぎゅっと握られた胸元の服に、これは彼女からの甘える行為だと思って胸がいっぱいになる。
「ずっとでもいいよ」
「それはだめだわ。練習しなきゃ」
「残念。リア、好きだよ」
内緒話をするように小声で言って目を合わせたら、蕩けるように微笑んで、私もよ、と答えてくれたリアに、俺はまた心を奪われた。