アイデンティティが息してなさそう
背中の治癒してもらった後、夢を見た。
それは見慣れた天界の魂センターの謁見広間。
相変わらず汚れひとつない白い床に放り出された様な体勢で寝転がり、神様から今後の予定を聞かされるというものだった。
私は条件反射で素早く跪くと言葉を待った。
「先ずはその背を治癒してくれた者と行動を共にするがよい。下界の生活で役立つことも多く知れよう。信頼を得られれば良き友ともなれるだろう。」
何時もながら眩しい輝きを放ち、美とはこのようなものの事を言うのだと言わんばかりの美貌を少しも陰らすことなく淡々と告げる内容に、痛い思いをしたばかりの私は腹が立った。
夢の中とはいえお顔を見れた喜びはあったが、ここは文句の一つも言ってやらないと。
そんな気持ちのまま私は口を開いた。
「お言葉ですが神様。私、初めて感じる苦痛のお陰でお相手を確認する余裕などこれっぽっちもありませんでした。例え私が役立たずであろうと翼を奪うだなんて神様とはいえ許せませんよ。でもいっぱい撫でてくれるならその限りではありません!」
鼻息も荒く嫌味と要望を吐き出してしまった。
こんなこと本物の神様の前じゃ絶対に言えないから、夢だと思えばこそ強気で言ってしまうけれど。ふふん。
すると、神様は眉間に皺を寄せ米噛みに手をやるとばつが悪そうに言葉を紡ぐ。
「まあ、些か乱暴だったことは詫びよう。すまなかったな。」
うん、この夢に出てくる神様は随分と素直であるらしい。現実じゃきっと相手にもしてくれないからね。こんな下っ端天使に詫びるとかあり得ないし、都合のいい夢だ。そんなのでも少しは溜飲が下りてしまう自分にがっかりした。
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「おはよう、目が覚めたみたいだな。」
いつの間にか夜が明けていたようだ。ノックの後、物音と共に部屋にやってきた昨夜の声の主が静かに私に話しかけてきた。
「院長先生がお話があるそうだから後で案内する。身体は起こせる?これで顔を洗って、朝のお祈りを捧げたらこれを食べるといい。」
そう差し示され盥や包みを順に目にし、その視線を声の主に向けその容姿に息を飲んだ。
この世界には大雑把に分けて神様を信仰するものと悪魔を信仰するものがいる。
そしてどちらかを信仰及び祝福を受けているのかは外見に如実に表れるのだ。
神様を信仰し祝福される者は明るい髪色と瞳を持ち、悪魔を信仰し祝福(又は呪いとも言う)される者は暗い髪色と瞳になる。
何らかの理由により信仰する対象を変えた場合はその瞬間から変化が始まり五分程で完全に変色してしまうのだ。
それを踏まえて言えば、彼の容姿は異様の一言だった。
少し燻んだ明るい蜂蜜色の髪に、月明かりすらない漆黒の夜を思わせる黒い瞳
どちらの要素も持つだなんて、そんな事有り得るのか?
呆然として無言になるこちらを伏せ目がちに見る彼を思わず凝視してしまい、目が合うとさっと反らされてしまった。そしてこちらが口を挟む間もなく片手で目を覆うと彼は言葉を吐きだした。
「気持ち悪いだろ。これ。朝から嫌なものを見せてしまって申し訳ないけれど、生まれたときかこうなんだ。君も、もしここで生活することになるなら早めに慣れてくれると嬉しい。」
そう綺麗な顔を僅かに歪めて言う彼に、しかし私は全く違う感想を抱いていた。
「確かに見たことのない組み合わせだけれど、蜂蜜の髪色に夜空の色の瞳なんて、とても個性的でミステリアスですごく格好いいと思いますし、私は好きですよ。それにあなただけ特別に両方の神様に愛されているんだなって感じがして。」
そう、両方を併せ持つ人間なんて初めて見た。天使をやっている頃にも見たことがない。同僚の話題にも出たことはなかった。
少し興奮ぎみに語れば、彼は目を何度か瞬かせ小さく震える唇で何事かを呟いた。
そんな彼を横目に私はベッドから完全に身を起こすと、背中の具合を確かめまた驚いた。痛みは完全になくなり後は肌が少し突っ張る違和感が残る程度になっていたからだ。
勢いよく立ち上がると縺れる足も焦れったく、立ち尽くす彼から引ったくるように両手を取ると上下に振った。この感動を余すことなく伝えたい。
「わあ、凄いよ!背中が全然痛くない、ありがとう!あの時はあまりに辛くてもう駄目だと思った!君は私の命の恩人だね、本当にありがとう!」
「お、わっ、」
ぶんぶん振られる両腕に彼は目を白黒させながら、されるがままになっていた。そしてそんな彼に私は更に勢い任せに抱き付くと力一杯の抱擁をした。
心臓が激しく鼓動する。彼が硬直しているのをいいことに私は思いのままに満足するまでしがみつく。
触れあった部分からじわりと彼の熱が伝わり、何だか胸が一杯になる。しばらくそうしてから「ありがとう」ともう一度伝え、拘束してしまったことを謝りながら彼を解放した。
彼は口を開けたり閉じたりし、真っ赤な顔で私を見ていた。
そんな彼と視線を合わせていると、まだ名前を聞いていない事に気が付いた。それにこちらもまだ名乗っていない。なんということだ、申し訳ない。
「あの、自己紹介がまだでしたね。私は、」
そこまで言って、口を開けた表情もそのままに愕然とした。
私の名前は何だったか。私は、元恋の橋渡し人、元魂の案内人にして元天使の、元天使の…
「私の、名前は何だったでしょうか?」
「え?」
「私は、私、は…」
思い出そうとすると頭が酷く痛み、視界がぐにゃりとゆがむ。翼を失った時のような足元が不確かになっていく感覚に襲われ、その場に力無くへたり込む。
私は、自分の名前を忘れてしまっていた。
「そんなに落ち込むな、とは言えない、よな。」
茫然自失とする私をベッドに座らせると彼は静かに背を撫でてくれた。少しの間そうしてから彼は「院長先生に話してくるから」と言い部屋を出ていった。
そんな事って、ある?
職を失い、天使の翼を失い、自分の名前も忘れるとか、本当にもう、本当に。神様、意地悪が過ぎない?
座らせてもらった体勢からそのまま横に倒れると、投げ出された右手が視界に入る。自分の記憶とは違い、その手は細く小さく頼りない。薄々気が付いてはいたけれど、この受肉した身体は天使だった頃と比べると随分と縮んでいる様だった。思わず溜め息が洩れてしまう。
天界での記憶は確かにあるし、新品(いや、傷物と言えば傷物かしら。背中とか。)ほかほかの受肉したての人間であることも自覚している。
名前、名前、名前。
私は天界で何と呼ばれていただろうか。
もしかして人間になったのだから新たに好きな名前を名乗れと言うことかしら。そんな、まさか。
でもそう思えばその考えはしっくり来るものがなくもない。
部屋の外では他の子供たちも活動を始めたのだろう、話し声や足音といった生活音が聞こえてくる。
ショックやらこれからの生活の不安から少しぐずぐずしていると、あることを思い出した。
神様はあの時、生きていけるだけの生活環境は保証してくれると仰っていた。ならば今すぐに餓えや渇き、寒さで死ぬことはない。名前が無くても死ぬ訳じゃない。生きていけるならいいじゃないか私。と、そんな気持ちになってくる。
「うん、ええい、思い出せないものは仕方がない!きっとこれも神様の思し召しってやつだ!そうだそうに違いない、神様!感謝します!」
両手を天に向かい振り上げ、最後はやけくそとも言えなくもないが自分を鼓舞する為にあえて口に出して言ってみた。
心の内であれこれと思っていると扉をノックされる音に気付き身体を起こし、身形を整えてからそれに応える。すると音を立てながら扉が開き中に彼と大人の男性が入室してきた。この男性が先程彼に院長と呼ばれていた人物だろう。
背が高く綺麗な金髪翠眼で清廉な雰囲気を纏った人物だ。少しだけ神様に印象が似ている。
彼はこちらに目をやると、目元を緩め口角を柔らかくあげ話し始めた。
「やあ、昨日は大変な目に遭いましたね。僕はこの孤児院で院長をしているヴィンセントといいます。隣接している教会では司祭をしています。
傷の方は癒えたと彼から聞きましたが、念のため後で僕も診ましょう。
ところであなたは昨日の早朝、この孤児院の表で大怪我を負って倒れていたと聞きました。丁度パンの配達に訪れた子が見付けたのだけれど、そのことで何か覚えている事はあるかい?」
院長は落ち着いた甘いバリトンボイスでそう訊ねてきた。
ううん、良い声。見た目も良いし、これはご近所の奥様方が黙っちゃいないだろう。っていやいや、現実逃避している場合ではない。
天界から下界に落とされ受肉させられた元天使だなんて言って信じてもらえるだろうか。それは隠しておいた方がいいだろうか。
元は天使と言っても今は人間だし、特別な力なんて何もない。変に期待されても困るしね、よし。
「まずは命を助けて頂きありがとうございました。こちらで治療をして頂かなければきっと命を落としていたと思います。しかし申し上げにくいのですが、何から何まで覚えていないのです。
自分の名前ですら先程彼に名乗ろうとして、思い出せなかったことに気が付いた有り様でして。覚えている事と言えば、背中が痛くて熱くて苦しかったこと。
意識が朦朧とする中で彼に治療を施してもらってことです。」
ある程度誤魔化して伝えることにした。すると院長先生は微笑を浮かべたまま少し首を傾けると軽く頷いた。何その気になるリアクション。
「そうでしたか。出先で胸騒ぎを覚えて彼を一足先に帰していて良かったということですね。これも主のお導き、という事でしょう。
自分のことが不確かという事は、さぞかし心細いことでしょう。しかしあなた自身の事は、時と共に、あるいは何かの弾みで思い出すこともありましょう。
行く当てもないでしょうし、街での奉仕活動や孤児院内での作業をしてもらうことになりますが、それでも良いならばこの孤児院で暮らすことも出来ますが、どうしますか?
勿論記憶を思い出された時にはご両親の元に無事帰れるように協力します。」
見るものを安心させる笑みを浮かべて院長先生が言う。この孤児院がきっと神様が仰っていた衣食住に不自由しない場所なのだろう。ならば独立できるくらい大きくなるまでお世話になろうと思う。
「こちらで暫く過ごさせて頂きたいと思います。何が出来るかはわかりませんが、精一杯頑張りますので宜しくお願い致します。」
こうして当分の間、ここで生活する決意を固めると院長先生に言葉を返した。
院長先生の横でじっと話を聞いていた彼の表情は心なしか明るい。
そうだ、今朝見た夢で神様が仰っていた。彼の信頼を得ることが出来れば私達は良き友、即ち親友~ベストフレンド~となれるのだ。と
ん?待って、あれもしかして夢じゃなくて現実だったりする?私神様に不遜な態度をとってしまっていたのだけれど…ひぇ
またも心の内に意識を持っていかれそうになったところで院長先生から声がかかった。そう言えば会話の最中だった。危ない危ない。
「はい、ではあなたも今日からうちの子ですね。これから宜しくお願いします。
最初の一週間程は彼を補助に付けますので共に過ごし、孤児院内での生活に慣れてください。それで、あなたのお名前ですが、思い出すまでは仮の名前でサニーと呼ぼうと思います。あなたから受ける印象が由来です。他に希望があるようでしたらそちらのお名前にされても良いですよ。」
笑顔でそう喋る院長先生は、私の頭を優しく撫でた。その横の彼は首を頷かせ賛成の意を表している。
特に嫌とも感じなかったので私も賛成の意を表すと、再び彼の両手を取り改めて自己紹介をすることにした。
「私の名前はサニーです。歳も何も覚えていませんが、これから宜しくお願いします。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
少し見上げる形で彼の綺麗な夜空色の瞳を見詰めれば、彼はそっと視線を外し僅かに頬を紅潮させながら静かな声で応えてくれた。
「俺の名はファレノという。今日から宜しくな、サニー。」
やっと彼の名前が知ることが出来て喜びと共に何故か私の胸に暖かな火が灯されたような心地がした。ファレノ、ファレノと心の中で繰り返し呼ぶ。よし、覚えたぞ。
「うんうん、実に微笑ましいね。我らが孤児院のモットーは皆仲良く元気良く、だからね。ようこそサニー。」
仮初めとは言え名前を呼ばれること。それはアイデンティティを失っていた私の心を満たしていくものだった。
受肉人生のスタートこそ最悪な状態で迎えてしまったものだが、結果オーライ。
以前は業務外で深く関わる事が許されなかった下界で人間達と過ごす新生活に、期待に胸を膨らませてしまう。
ああ、安心したら催してきた。
思えばこの身体を手に入れてから精神的にも肉体的にも余裕がなく、そういったものも引っ込んでいたんだろう。
水差しから飲ませてもらった水が巡りめぐって外に出たがっている気配がする。危ない。ここで致してしまうと人としての何かが損なわれる気がしてならない。
これが噂の第六感というものか。
出すのは感覚的に解る。今きゅっと閉めてるこれを解放すればいい。
だが、どこで?もじもじとしていると院長先生が素晴らしい洞察力でもって察して下さり事なきを得た。
そこでも驚くことがあったのだけれども長くなるので割愛する。自分にあんなものが生えているだなんて、本当にもう驚いた。
因みに人生で初めて致したそれは、我慢した分解放感が半端無く気持ちよかったとだけ言っておこう。
人間の身体、凄い。神秘に満ちている。