episode11 別にたいしたことない
ブラックミュカス――黒い粘液状の体を持つ個体で、内部は強酸性を示し、体液を変質させた毒液を噴射することもできる。粘液状の体は自由自在に変形させることができ、離れた位置にいる獲物を素早く絡め取ったり、狭い場所に侵入したりとなかなかに厄介であり、武器による攻撃、特に打撃に高い耐性を持つ。
とまあ、一介の兵とかなら苦戦を免れないところなのだろうけど、私には関係ない。
さっさと、悪臭の元を断って帰って着替えたい。
そんなことを考えていたら、ブラックミュカスが唐突に体の一部をこちらに伸ばしてきた。
「危ない!」
敵の攻撃を察知したイサイアスが、私を庇う様に両腕を広げて前に立った。
けれど、ごめんなさい。正直言って邪魔です。
敵の攻撃は私が張った見えない防壁に弾かれた。
当然、私もイサイアスも無傷である。
「ありがとうございます。私には必要ありませんけど、その心は嬉しいです」
私は咄嗟に守ろうとしてくれたイサイアスに感謝を伝える。
言葉通り、私の神聖力をもってすれば、対処は簡単なので庇ってもらう必要などないのだが、私を守ってくれようとした心は嬉しかったし、彼の勇気は称賛に値するものだ。少なくとも、後ろで怯えてガタガタ震えるしか能のない護衛とは名ばかりの連中とは比ぶべくもない。
「下がっていてください。さっさと終わらせますから」
私はシミターを抜くと、刀身に神聖力を込めて敵に斬りかかった。
「本当にありがとうございました。聖女様、宰相補佐様」
問題無く汚染源を排除し、村へ戻った私の手を握りながら頭を下げ、村長が私たちに感謝を伝える。
仕事とはいえ、感謝の言葉を聞くと嬉しくもなる。
王都民とは違い、王都から離れた町や村に住む人々は私に対して嫌悪感を抱いておらず、むしろ、助けに来てくれたことをいの一番に感謝し、喜んでくれた。
私はそのことが嬉しかった。
そう思うと、私も存外に単純な性格をしているのだろう。知らないうちに誰かに絆されないように気を付けなければ。
ちなみにイサイアスから借りたガラス球もしっかりと回収してある。ヘドロの残骸塗れになっていて触るのは嫌だったので、神聖力で宙に浮かべたまま、私が触れることなく護衛の騎士に押し付けた。
あの時の強烈な衝撃を受けた顔は実に良かった。
「聖女様!」
「ありがとうございました!」
王都への帰路につく私たちを乗せた馬車に手を振る村人たちに、私も窓から身を乗り出して手を振り返す。
馬車が遠く離れ、姿が全体の輪郭しかわからないようになっても、村人たちは私に向かって手を振り続けてくれた。
「まんざらでもなさそうですね? ヘスティア嬢」
「……その言い方だと、まるで私が人の心も持たない欠陥品のように聞こえるのだけど?」
窓を閉めて席に座り直した私に、揶揄うような意地の悪い笑みと言葉をイサイアスが私にかけてきたので、私も負けじと嫌味を返す。
「そんなことはございません。穿った解釈ですね」
おどけた様子でイサイアスが肩をすくめる。
今、馬車の中にはヘスティアとイサイアスしかいない。
本来であれば、未婚の子女だけで密室にいるのは好ましくないが、護衛には「今後の政策について話がある」と、締め出した。さすがに宰相補佐から、『国政に関わることで耳に入れることは許さないし、それだけで他意は無い』と、言外に言われれば引き下がる他ない。
ただ、カーテンは閉めず、外にいる護衛から常に中の様子が見える状態にはしてある。これが最大限の譲歩ということだろう。
「それで、こんなじゃれ合いの為に護衛を外に追い出したわけじゃないのでしょ? イサイアス様」
私がふんわりと微笑みを浮かべる。護衛を追い出した理由はわかっている――と、言葉の端に乗せて。
「そうですね。それではヘスティア嬢の目算ではいつ頃の予定ですか?」
「種は十分に蒔きましたし、既に根も張り巡らされたと思います。ただ、今のところは近いうちにとしか」
「そうですか。もう一手、何か必要ですか?」
「できれば、勝手にあちらからやってもらえると助かるのですが。やってくれそうですけどね」
私とイサイアスは表を穏やかな微笑みの仮面で隠しつつ、心の中で冷たい笑みを浮かべるのだった。
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