§8
クロードの家はパリの西、ブローニュの森にほど近い邸宅街にあった。 三郎言うところの「最低でも一張羅を着て行かないと配達の御用聞きか、よからぬことを企んでいる者と間違われる街」だ。 そう言えば雅枝御用達の貸衣装屋での合言葉に『パッシー街』というのが出てくるが、この区に付けられた名前。 つまりはこんな高級住宅地の男は貸衣装など必要ない、という上流への皮肉が込められている。
雅枝がクロードから、「両親が食事に呼びなさい、というので」と家へ招待されたのは、クリスマスに程近い12月、街は凍て付き、数日前には雪も降った頃、しかし空気は澄んで夜のパリは美しかった。
三郎も彼と出会った最初の頃に、パンを学びに幾度かお邪魔したが、自分の身分を気にして文字通り裏の勝手口から出入りしてキッチンにしか立ち入らなかった、と言い、最近は行くのは遠慮していると言う。 雅枝は何時もより高価そうな衣装を『ベレー帽』から借りて、かなり緊張して彼の家に向かった。
約束の時間より20分ほど早く着きそうだったので予定を変更して、初めて独りで乗ったタクシーをセーヌを渡ってすぐの邸宅街に差し掛かる辺りで降り、石畳と白い壁が街路灯の淡いオレンジに輝く、絵心を誘われずに済まない美しい街路を歩いた。 クロード自身この風景を写実的なもの、抽象的なもの、それぞれ2枚ずつ描いていた。 後に彼女も描くことになる。
慣れない高めのヒール付き黒エナメルが石畳を不規則に叩き、彼女は転ばないようにゆっくりと歩いた。 街はどれも重厚で高級そうな三階から四階建てが街路を挟んでいて、路は微かに蛇行しながら軽く登りの坂になっている。
そんな彼女が靴のヒールを石畳に引っ掛けそうになってよろけ、ふと街の中途で立ち止まり振り返ると、思わず息を呑む光景だった。
そろそろ見慣れたはずの、輝くパリの夜景。 でもこの眺めは抜群に美しい。
間近に見えるセーヌの流れが街の明かりを写し、橋の灯りが色を添える。 これも近くに聳えるエッフェル塔、遠くに凱旋門。 その向こうにモンパルナスが緩やかなラインを夜空に引く。 なるほど三郎の言う通り一見の価値がある。
「お嬢さん、どうしたかね。」
はっと振り返ると、黒ダブルの上下に黒い毛皮の裏張りを覗かせたコート、高いシルクハット姿の老紳士が帽子の鍔に手を掛けてお辞儀した。 彼女もお辞儀をすると、
「あまりにきれいでしたから。」
「ああ、外国の方、東から来たのだね? ではこの風景をよく見てほしい。 我々の誇りだ。 こんなに美しい街は世界中探してもそうはないだろう。」
「確かにそうですね。 戦争もこの街を変えることがなかったそうで、なによりでした。」
「そうだね。 誰も変えることなど出来ないさ、この美しさの前では征服者なんざ、ちっぽけな存在だ。 ああ、お引き止めして悪かったね、いい夜を、お嬢さん。」
「ありがとうございます、おじさまもいい夜を。」
夜の街へ繰り出す紳士を見送ると、すっかりいい気持ちとなって緊張も多少納まった雅枝は、クロードの家まで足取りも軽く歩いて行った。
絵に描いたような、という表現は、実際に絵筆を握りそれで身を立てようとする者が使う言葉じゃない、と雅枝は思った。
でも、そうとしか表現出来ない、として次の1ページをクロードの邸宅内部のスケッチと見取り図に費やしていた。 それによると、屋根裏部屋が5部屋もある3階建ての邸宅は、部屋数大小30余り、寝室だけで7部屋あり、そのどれも4人の大人が一度に休むことが出来る広さがあった。
シャワールームも4つ、食堂は20人が一同に会せる大食堂とプライベートな5、6人用の小食堂があり、雅枝がクロードや彼の両親と会食したのもその小食堂だった。
日記には挿し絵風に固い鉛筆で、テーブルの上に燭台とセンターピースから零れるシクラメンとで飾られた豪華な食卓と、それを囲んだ四人の人物が描かれている。 その後ろ、ナプキンを片手に皿を持つ給仕2名が描かれ、それだけでもすごいお金持ちだと分かる。
国会議員で、戦中はレジスタンスを指導した英雄であるクロードの伯父であり義父、ニコラスは50代後半、恰幅のよい身体に理知的な顔を持った活動的な男だった。 彼は食事の最中、矢継ぎ早に雅枝に質問を浴びせ掛け、それにいちいち彼女が真面目に答えるものだから、執事(だろう、と雅枝が決め付けた黒服)は、デザートを除いて5品からなるコースの采配にかなりの臨機を要求されただろう。
いつまでも2品目の『ポロ葱のポアレ・マッシュルームソース掛け』が片付かないので奥様が、「少しは料理を楽しまれたらどうかしら?」とやんわり注意したほどだった。
「これはすまん、さ、片付けてしまおう。」
それでもその後、最後にコーヒーが注がれるまでニコラスは雅枝に話し続けていた。 奥様は時折諫めていたが、雅枝がそんなに厭がっていないのを感じると諦めて食事に専念した。 クロードはただ黙って義父が彼女に話しかけるのを、ほほ笑みを浮かべ目を細めて見ていた。
雅枝はこのニコラス・ルフェーヴルという人物をあまりよく知ってはいなかったが、クロードとの仲が進むにつれ、学校の図書館や、カルチェ・ラタンにある大学の図書館で新聞や雑誌を立ち読みして、しばしば政府を攻撃する論客としての彼を見出していた。 そうした先入観もあって、雅枝は何かと気難しい、怒りっぽい男だと思っていたが、こうして目の前に見るクロードの義父は、ユーモアがあり前向きでバイタリティ溢れる、素敵な『お父さま』だった。
ニコラスが雅枝に尋ねたのは、日本の風習や彼女の家族のこと、政治の印象や普段の学生生活、フランスの印象など、あちらに飛んではこちらに戻る、といった感じで的を射ない。 それを実ににこやかに、軽やかに、雅枝が自国語にまだ不慣れだと感じると英語に切り替えて聴いて来るものだから、雅枝も何がしか答えない訳には行かなくなっていたのだ。
食事の後、奥様は立ち上がって雅枝を呼ぶと、英語で、
「せっかくのお食事を台無しにした人がいてごめんなさい。 ニコラスもあなたに夢中なのよ。」
そういうなり、イレーヌ夫人は雅枝の両手を取って、
「しっかりした方で安心しました。 2人の様子はシャトレ座やリュクサンブール館で見かけた方から教えて頂いていたので、あなたが素敵なお嬢様だということは分っていました。 でも私たちはお国のこともあまりよく知らないし、逆にあなたが迷惑している可能性もあったから、この目で見てみたかったのよ。 あなたを試すようなことをして、ごめんなさいね。 これからもクロードをよろしくお願いします。」
緊張して聞いていた雅枝は、その時唐突にこの貴婦人の経歴を思い出す。 イレーヌは貴族の末裔にも拘らず、戦争中は夫と同じくレジスタンスに参加、地区の連絡員をして、何度も逮捕されそうな場面に遭遇しながらも才気で切り抜けた人だった。 美しさの下に秘めた強さと才覚。 雅枝は一つ息を吸い込むと、期待されていることをした。
「いえ・・・、クロードさんにはいつもお世話になるばかりで、申し訳ありません。 出来るだけご迷惑をかけないよう慎みますのでお許し下さい。 それに、今夜はこのような素晴らしいひと時を与えて頂いて、ありがとうございました。 お食事も大変おいしく頂きました。 料理をされた皆様によろしくお伝えください、ごちそうさまでした。」
雅枝は、ともすれば目の前に霞がかかり、足が地に付かないような感覚に陥りそうになりながらも、意識して頭をフル回転し、何とか言うべき事を捻り出した。 2人の男性も立ち上がって軽く頭を下げる。 夫人もにっこりとほほ笑むと、
「私はこれで失礼します。 あなたはゆっくりしていらしてね、帰りはクロードが送りますから。 では、おやすみなさい。」
クロードとニコラスが見送る中、イレーヌ夫人は優雅に退席した。
夫人が去ると、ニコラスはクロードに、
「クロード。 済まないが暫くマサエさんと2人きりにさせてもらえないか?」
「いいけど、口説いたらだめだよ。」
ニコラスは破顔すると、
「確かに私も10年若かったらそうしているよ。 もう少しだけ話をさせて頂きたい。」
「マサエは? 大丈夫?」
「ぜひお話を伺わせて頂きたいわ。」
「では、僕は部屋にいるよ。 終わったら呼んで。」
クロードは雅枝に軽く頷くと、部屋を出て行った。
ニコラスは小食堂から横のドアを開けて、隣の部屋に雅枝を誘う。 そこは食事の後、葉巻やお酒を楽しみながら会話やカードを楽しむ、小食堂とほぼ同じ大きさの部屋で、いくら日本の華族を知っている雅枝も、こんな部屋まである邸宅は見た事もなく、軽く吐息が漏れた。
ニコラスは雅枝に飲み物を尋ねると、控えた給仕にコーヒーとブランデーを頼んだ。 そして給仕が察し良く、これ以上はあり得ないスピードで要求に応え、部屋に注文の品をセットして退出するまで、窓際に寄って重そうなカーテンの隙間からパリの夜景を眺めていた。 雅枝はニコラスに何も言われなかったので部屋の隅に行き、壁に掛けられた数点のフランドル画家の風景画を鑑賞した。
給仕が一礼し退席するとニコラスは、
「どうもお待たせしたね、そこにお掛けなさい。」
雅枝が、コーヒーが置かれた一人用のテーブルが付属する一人掛けの革張り椅子に座ると、ニコラスは向かい合わせた席に座り、
「冷めないうちにどうぞ。」
そう言いつつ、両手でブランデーグラスを温めると回し、ゆったりと一口飲んだ。 雅枝は何か19世紀にタイムスリップした錯覚で、金縁のカップから濃いコーヒーを飲む。
やがて、ニコラスは口を開くと、暫くは部屋にある風景画の作者や来歴などを話し、雅枝の感想を聞いたりしていたが、ようやく、彼の本心を話し出した。
「君はしっかりした娘さんだ。 イレーヌはあれでも厳しい女でね、なかなか同性を褒めることをしない。 だからさっきの話は本当に君を認めた、と言うことだと思う。 私も同感だ。 まあ、私たちがどう思うかは、この際どうでもいいことだがね。
クロードは私たちに色々気を使って、中々本音を言わないところがある。 君には申し訳ない話だが、アレはリセ(高校)で女の子と付き合っていたらしいが、私のことを相手の親が気にしたらしく、別れてしまった。 アレは私を気遣ったらしい。 相手の親は私の政敵に近い人間だったそうだ。
私も妻も、そんなことは気にしないし、アレが幸せならばそれでいいと思っている。 アレが私たちの実の子でないことは聞いているはずだね。 私たちには実の子供がいない。 だからアレは私のただ一人の子供だ。
アレももう22になった。 だからいい加減、私たちは大人扱いしなくてはならないが、どうしても甘くなってしまうのだよ。 親馬鹿と言ってもいいが、出来の良い息子だしね。 だから、マサエさん、アレを幸せにしてあげて欲しい。
ああ、結婚の話をしている訳ではない、もちろん、そうなっても私はアレさえよければ、それでいいと思っているよ。 普通なお付き合いの上でもアレが幸せであって欲しい、そう思っているだけだ。
アレは両親を過酷な運命で亡くし、ボロボロの状態になって私たちの元に来た。 アレの父親は私の弟だが、頑固一徹なところがあってね。 私がパリで遊びまくっていた頃も真面目に働いていた男だ。 アレもその血を引いているのだろう、気を使わせないように周りを気にしているが、奥では自分を抑えているような時がある。 絵を描くような繊細な男だ。 そういった抑えが、アレの負担になっているように思えて仕方が無い。
どうか、アレが平安な気持ちで絵に打ち込めるよう、君にお願いしたい。 君も学ぶ身で、馬鹿な親のお願いなど聞いてはいられないかも知れないが、どこか、心の片隅でもいい、そういうこともお願いされた、と思っていて欲しい。」
長いニコラスの話を、両手を握りしめ、全身全霊をこめて(そうしないと、彼女のヒアリングでは細かなニュアンスを落としてしまいそうだった)聞いていた雅枝は、暫く考えて答えを組み立ててから、辛抱強く待っていたニコラスに答えた。
「お父様やお母様がクロードさんをとても愛していらっしゃることは、よく分かりました。 私は実の両親に背いて、ここに来ています。 自分の人生を自分で決めたい、そういう思いだった、と思います。 クロードさんは、そんな私の毛羽立つような気持ちを宥めてくれました。
生い立ちなど、その後のその人の生き方に何の影響もしない、そう言ったのも彼です。 彼は彼で、自分の生き方を定めようとしているのかもしれません。 私は無知ですし学ばなければならない事が、絵画だけでなくたくさんあります。 だからどこまでクロードさんのお役にたてるか分かりませんし、これからも足を引っ張るような羽目になるかもしれません。 でも、出来る限りの事はして行こうと思います。 どうか、見守って下さい。 また、奥様にもよろしくお伝えください。」
雅枝はいつの間にか自分が泣いているのに気付いた。 涙が零れ落ち、嗚咽が漏れそうになるが、それはなんとか耐えた。 なぜ泣いたのか、それは雅枝にもよく分からなかった。 が、悲しい涙ではなかった。 感動したのかも知れない。
ニコラスは彼女が落ち着くまで黙ってブランデーを味わっていた。 やがて雅枝が涙を拭い、真っ直ぐに彼の方を見たことを確認すると、
「本当に、申し訳ない。 時間を取ってもらってありがとう。 これからも、クロードをお願いする。」
立ち上がり、雅枝も立ち上がると、彼は抱き寄せ、両頬にキスをした。 それを受けた彼女はその時、自分の父親の顔が脳裏に浮かんで戸惑っていた。
クロードの部屋は3階の奥、驚くほど大きな部屋だった。 子供部屋として4人くらいが入る大きさで、彼がひとりで使っていた。 しかし、所狭しとキャンバスが重ねられ、一部は壁に掛けられていたので、そんなに大きく見えなくなっていた。
雅枝がドアをノックすると、明るい声がどうぞ、と言い、すっとドアが開くと、クロードがにこやかに笑っていた。
「どうぞ、はいって。」
雅枝がキョロキョロと見廻す中、彼は微笑んだまま黙って見ていた。 やがて彼女は、
「お話と見るとでは大違い。 こんなに絵があるとは思わなかった。」
「描き捨てたようなものが多い。 君も知ってるように、まだ僕はスタイルを持っていないからね。」
「でも、すごいわ。 私はこちらに来てまだ4つしか仕上げてないもの。」
「君の絵は写実だからね。 時間が掛る。 それにチャーミングだし。」
「あなたが『チャーミング』なんていう言葉を使うとは思わなかったわ。」
雅枝は笑うと、クロードは突然真剣な顔になる。
「父さんは、なんて言ってた?」
雅枝は暫く考えると、
「あなたをお願い、って。 それ以上でも以下でもないわ。 でも、私は正直、どうしたらいいのか分からないの。 私の方がこんなに良くしてもらって・・・」
「そうか。」
クロードは窓際に寄り、カーテンを開く。 物想う雅枝の前に、文字通り宝石箱をひっくり返したようなパリの夜景が広がった。 彼女は今を忘れた。
「すごい・・・毎日これを見ているのね。」
「これを見ているから、僕は旅立てないのかも知れないな。」
それは何気ない呟きだったが、後々、この言葉を雅枝は幾度も思い出す事になる。 その時は夜景と揺れる想いで気にも留めなかったが。
いつの間にか雅枝は窓際に寄り、夜景を見つめていた。 すると自然にクロードと並ぶことになり、クロードはこれも自然な形で彼女の肩に手を回した。
挨拶のキスなら幾度もしていた。 でも、雅枝の古い躾と日本にはキスの風習が無いことが、それ以上を拒んでいた様に思える。 しかし、この時は全く自然な流れだった。
クロードが少しだけ力をこめ、肩を寄せると、彼女はしなだれかかるように彼の方へ身体を寄せる。 彼が彼女の肩を両手で支え、彼女は自然に見上げる形となった。 そのまま彼は顔を寄せ、彼女もそれに合せるように顔を仰向けた。
雅枝の時間が止まった。 夜景は彼らを包んで、ひたすらに静かだった。