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§7

 雅枝が出会った頃にはすでに、クロードと三郎の仲は幼なじみのような雰囲気を漂わせるまでになっていた。

 彼女は初めて出会った時からクロードに淡い恋愛感情を持ったのだけれど、暫らくはこの2人の仲の良い兄弟のような関係に溶け込めず、ただその後ろについて行く母の違う妹のようだったと言う。


 やがて季節が秋になり、暖炉やストーブに火が入る頃になると、次第に雅枝とクロード2人だけで会う機会が増えた。 それは何も、三郎の仕事が忙しくなっただけが理由ではなかった。


 この頃の日記は、明日はクロードと会う、とか、明日はクロードに会えない、とか彼と会えるかどうかで日記が始まるパターンになっていて、やたらに彼の横顔や仕草を切り取ったイラストが、挿し絵の範疇を超えて丸々1ページ費やされていたりもする。 そして、クロード自身、雅枝を意識し出したことも、この先への期待も込めて、実に愛らしい感じで書かれている。


 私が最初に断ったように、文面をそのまま抜き出すのは止めると誓ったから、彼女らのエピソードの一つを、私の想像も交えて再現ドラマ風に書くと・・・


 雅枝がジャンやアントワーヌたちと学校の門を出ると、門の脇で、背の高い金髪の青年が背中を見せて柵に寄り掛かり、ハンディタイプのスケッチブックに何やら描いている。 それが視界に入った雅枝が思わず立ち止まり、すぐ後ろを歩いていたジャンがぶつかりそうになった。


「どうしたの?」


 とアントワーヌが聞くと、雅枝は被りを振って、


「ごめんなさい、なんでもない。」


 ― そう、クロードの訳がない。 彼は今日、学校のあとはご両親のお供で、来仏したどこかの国の外務大臣の歓迎晩餐会に出席するはずだ。

 それに彼はシャイな一面もあって、雅枝が学校仲間のことを話し、一度会って見て、話しが合うかも、と水を向けたが、同じ世界を志すジャンたちに会うのは気後れがする、と言って、彼は一度も雅枝の学校に来たことがない。


 それにしてもよく似ている、とその青年を横目に見ながら通り過ぎようとすると、彼が振り返った。

 

 雅枝は驚きと喜び、どちらが大きいか分からなかった。 心臓の鼓動が一回飛んだような衝撃。 何も言えずに棒立ちとなった雅枝に、再びぶつかりそうになったジャンは、立ち止まって凍り付く雅枝を見て、瞬時に身構える。 彼女から恐怖に近い緊張を感じ取ったからで、すぐ横で不思議そうに見ているアントワーヌもいるから、誰か学友が助けに駆け付けるまで、女の子2人を彼一人で守らなくてはならない。 で、雅枝を怯えさせた奴は・・・


 ジャンは密かに全身に籠めた力を抜いた。 どう考えても、その金髪の青年は暴漢には見えなかったからだ。


「クロード! どうしたの? 今夜は用事があるって・・・」


「アヌラッション(キャンセル)だよ、あちらの奥方がお疲れで、無理をさせないことにしたんだそうだ。 なんでも主賓はすごい愛妻家だそうでね。 父さんに言わせれば、恐妻家と愛妻家は同意語だそうだ。 あ、今のはオフレコだよ。」


 そこでクロードは、スケッチブックを足元に置いた赤い布のキャリーバックに落とし込むと、


「ということで、僕は今夜、シャンパンとオマール海老を食べ損ねた訳さ。 でもまだ時間は早いから、急げば代替プランで同じような食事が出来ないかな、と思ってね。」


 雅枝は本気で困ってしまい、


「私、何の用意もしてないわ。」


 クロードは肩を竦めながらにっこり笑うと、


「今夜は堅苦しいのは抜きだ。 サブロウには悪いが、僕の知り合いがやっている小さな店がある。 実はもう電話したんだ。 急な話だけれど、一緒に食事をして頂けますか? マドモアゼル。」


 クロードは大げさな身振りで膝を折ると彼女の手を取る。


「どうしよう、だって今夜は彼らと食事しようって約束―」


 そこで彼女は、当の本人たちが消えているのに気付く・・・


 翌日、ジャンとアントワーヌに謝るとジャンはウインクして、


「大丈夫だよ、野暮は言いっこ無しだ。」


 するとアントワーヌは目をくりくりっとさせながら、


「マサエったら私たちのこと、全く目に入らなくなっちゃうんだもの。」


「あの後アントワーヌは大変だったよ。 今頃マサエはどうしているだろう、とか、どこであんな人見付けたんだろう、とか、おしとやかに見えてやるよね、とか・・・」


「だって素敵な人だったじゃない。 ねえ、どうしたの? どこで出会ったの?」


 雅枝はアントワーヌの質問攻めにしどろもどろになりながら、顔を赤らめて答える羽目になった。 彼らの周りには何時の間にやら、聞き耳を立てるクラスメイトたちが囲んでいた・・・


 こんな感じで、廻りの目も温かく、彼女の恋は少しずつ進展していったのだ。


 クロードと三郎、ジャンたちクラスメイト。 大家のルナール夫人。 3日に一度大使館に顔を出すという面倒なこと(その時は彼女は知らなかったが、これはどうやら日本の両親が手を回し、娘の様子を確認できるようにするために仕組んだことらしいけれど)を除けば、雅枝のパリ生活最初の半年間は、彼女がパリにいた5年間で一番楽しく充実した時間だった、と思う。


 パリの秋は、駆け足でやってくる。


 ついこの間までセーヌの左岸で日光浴をしていたかと思うと、吹き抜ける風に思わず身を縮ませるような北風が吹いている。

 でも秋は創造の季節だ。 昼は講義か、街へ繰り出して描き続ける。 夕べはジャンたちクラスメイトと談笑したり、クロードと三郎にくっついてパリの街路を散策し、カフェでおしゃべりしたり。


 そして、1週間に1、2回、クロードの義父の伝手つてで、バレエやオペラを観たりコンサートに行ったりもした。

 いわばパリの上流階層の社交の場でもある、そういった場所に立ち入るには、それなりの立ち振る舞いと準備、ドレスや装飾品が必要になる。 

 このうち、立ち振る舞いは雅枝にとっては何も問題なく(何せ元華族の家柄だ)、それよりも着るもの身に付けるものの方が問題だった。


 雅枝のフォーマルな服装など、冠婚葬祭用に日本から持ってきた黒いドレスの一張羅で、暫らくはクロードが事前に手配し、前日に届けさせたドレスを着て観劇などに出掛けた。 しかし何だかシンデレラになったような奇妙な気分で、いつまでも好意に甘える訳にもいかない、と彼女は考えていた。


 さてどうやってクロードに煩わしい思いをさせずにドレスやネックレスを手に入れよう? と、迷っていたら、アントワーヌが自分のを使ってと気軽に貸してくれた。


 しかし身長差が20センチ、モデル並に手足の長い彼女の服ではサイズが合わず、色々な所を摘んでピンで止めたりしたけれど、なんだか母親のドレスを隠れて試着した子供みたいになってしまった。

 それならば、とアントワーヌは母親の仕事仲間で、舞台の衣裳係を呼んで頼み込み、12、3の少女が着る舞台衣裳を借り出して雅枝に着せると、これはぴったりだった。 

 だが、毎回衣裳を借りるのも手間だし、アントワーヌは雅枝が差し出した謝礼を頑として受け取らないので気が重くなり、二回ほどお願いした後で、その後は丁重に辞退した。


 その話を聞いたインドシナ帰りのアンリが、心当りがある、と紹介したのがレンタル衣裳屋だった。


 日本で言うキャバレーとは本質的に違うけれど、夜の紳士のお楽しみの場所、と言う意味では共通の場所で働き、裏の世界に詳しいアンリ。

 彼は最初に雅枝を案内して、迷路のように、左右に同じような路地に枝分かれする細い路地に入り込む。 画廊や写真館が並ぶその街の一角、通りの中程にある古びた4階建てへ入った。 アンリは一階にある写真館の主人と暫らく語り合った後で雅枝を手招きし、太っていてすごく小さい眼なのに目つきの鋭い主人は、値踏みするかのように彼女を眺めた後で、ぐいっと親指で外を指差した。

 

 アンリはポン、と主人の右腕を叩くと彼女の肩を押して表に誘い、


「いいかい? この階段を昇るとドアがある。 横に呼び鈴があるから一回だけ、トン・ツー・トンと押す。 いいかい?プッ・プー・プッ、だよ、どんなに待っても一回だけだ。

 すると5分以内にエンジ色のベレー帽を被った痩せた親父が出てくる。 そいつに、『ユシャールに聞いてやって来た』、と言うんだ。 すると奴さんは『どこのユシャールか』、と聞くから、『パッシー街のピエール・ユシャールだ』、と答える。 後は奴さんに聞きな。」


 アンリはポン、と雅枝の肩を叩くと、


「聞いていたかい? やる事を言ってごらん?」


 彼は雅枝に復唱させ、何ヶ所か訂正して彼女がちゃんと覚えたことを確認すると、片手を挙げて彼女が礼を言う前に立ち去った。


 雅枝にとって、この衣裳を借りる『儀式』は興味深い経験となった。


 写真館の建物の横に、存在を知らなければ気付かない、細くてすれ違えない急な階段があり、ギシギシ音を立てて昇ると重いドアがあって、呼び鈴を約束通りに鳴らすと、たっぷり2分は待たされてドアが開く。

 中は撮影スタジオ風で、古い撮影用の大きなスポットライトと蛇腹の写真機、天井から下がったスクリーンが威圧するように部屋に入る者の足を止めさせる。


 初老のベレー帽を取らない男が、「何か?」と一言。

 雅枝は言われた通りにユシャールの紹介だというやり取りをすると、男は、


「写真か? 衣装か?」


「衣装を借りたいの。」


 すると男は顎をしゃくって、


「そのカーテンの奥にある。 そこにあるものはなんでも借りていい。 装飾品は奥のウインドーの中だ。 試着してもいい。 ウインドーの奥に鏡付きの試着室がある。 必要なものを選んだら呼んでくれ。」


 奥の部屋には衣裳や小道具、装身具が所狭しと並んでいた。 あらゆるサイズのドレスや装飾品がそれこそ山のようにあった。 雅枝は比較的地味な薄いブルーのロングドレスとコート、黒くて小さなハンドバッグ、シルバーチェーンに一粒パールのネックレスを選んで男に声を掛ける。 ベレーの男は無言で紙片に何かを書きつけると、驚くほど安い金額を言って手を差し出す。 思わず聞き返すと男は、


「その金額でいい。 返す時はクリーニングなんかしなくていいからそのまま一階の写真屋に袋ごと返してくれ。 3日以内に頼む。 それからあんた、お節介なようだが、それに合う靴はあるんだろうな?」


 雅枝は顔を赤らめ奥の部屋に逆戻りして、衣装と反対側の棚一面に並んだ靴の棚からヒールの低いパンプスを取った。


 アンリによれば、そこに置いていないものでも金さえ積めば要求したものを数時間で用意してくれるという。 そこに置いてあるものを借りるだけなら料金は安く、ドレスやコート、装身具や靴まで含めても、ぜいたくな時の昼ご飯代ぐらい、と雅枝は書いている。

 後で考えればかなり胡散臭い商売で、雅枝の小さな冒険を聞いたジャンが言うには、その筋の者たち、詐欺師や偽の書類に貼る証明写真屋や探偵や泥棒など、変装したり一時的に着飾る必要のある者たちご用達の店ではないか、と言って片目を瞑って見せた。 普通ならそれでびびってしまう所だけれど、雅枝は笑い出し、その後、1週間に2回は使う常連になった。


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