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§5

 1954年8月上旬。 雅枝(『お祖母ちゃん』と書くと、何時の時代か分からなくなるのでこの先若い頃はこう呼ぶし、出てくる人物の敬称も略すことにする)はパリに着いた。 


 青空がどこまでも高く、白い雲が輝いて、とても暑い日の午後だったという。 彼女は横浜から貨客船に乗ってボルドーまでやって来た。 日本が戦争の荒廃から立ち上がり急速に復興した時代、朝鮮半島では3年続いた戦争が膠着状態となり、漸く休戦交渉が決まり掛けた頃。 日本の敗戦から9年、海外渡航はそう簡単でも安くもない頃のことだ。


 何かにつけ父親と衝突していた雅枝は、この2年間の画学留学も誰にも相談なく一人で決めた。 未成年であったので渡航には父親の承諾が必要だったが、彼女は粘り強く両親を説得、留学費用を出さなければ諦めるだろう、と承諾した父親は、その後の展開に少々驚いたのではないだろうか。


 彼女は、安くはない費用を友人たちから借金して集めた。 もちろんその中には、旧華族で半島の戦争により急成長を続ける商社を経営する父親の知己を得たり、貸しを作りたいと考えていた輩もいた様子で、彼女は思い掛けず延びに延びた帰国後、野心家たちに借りを作りたくなかった父が密かに返していた借財を、時間は掛ったが他の借財とともに完済している。


 そこまでしてフランスへ、パリへと彼女を駆り立てたのは、父や旧家との葛藤や独立独歩の気概と、若さ故の冒険心だったのだろう。 同じ年頃の私にはとても適わない行動力と思い切りだけど、このパリも日記も初日の記述には、およそ3週間の乗船中、何度も後悔したり泣いたりしたことが書かれていて、やはり二十歳前の女の子らしい一面もあってほっとする。


 他には、英語は進駐軍相手に試していたから自信はあったが、フランス語は速成の付け焼き刃だったので、若い頃一年ほど仏印でフランス人相手に商売していたという老船員に研いてもらったこと、フランスに上陸して早速、船員から仕入れた言い回しを試して手洗いを尋ねたら、港の男たちに言い寄られ、あわてて逃げ出し、後で親切な駅の赤帽に聞いたところ、それはかなり荒っぽい南仏のスラム街の言い回しで、「あんた、尻軽女と思われたんだよ」と笑われたことなどがユーモラスに記されている。


 こうして雅枝のパリ暮らしが始まった。


 翌日。 昨日あいさつはしたが、疲れたろう、と簡単な説明だけで済ませてくれたアパルトメントの大家、ルナール夫人が建物を詳しく案内し、居合わせた住人にあいさつさせてくれた。 ルナールは60歳くらい、夫をアフリカ戦で亡くした戦争未亡人で、子供がいないせいか、自分の店子が子供代わりで面倒見の良い、何かと雅枝のことを気使ってくれる優しいパリのお母さんだった。


 午後は9月から通うことになる美術学校に行き、夏休み中なので諦めていたが、事情を話すと運良く管理人が校内を案内してくれた。 帰り際には彼はお土産だ、と堅いバゲットを半分分けてくれた。 アパートに帰ると部屋の入り口に、鍋やら小物入れやら様々な雑貨がりんごの木箱に入れて置いてあり、紙切れに「住人一同より」とあって、ルナール夫人が、みんなが持ち寄ったのよ、と教えてくれた。

 フランス人はみんな親切で優しく、意外だ、あの戦争で最後は敵同士となったのに、と雅枝は書いている。


 3日目には日本の大使館にあいさつに行き、なぜ初日その足で来なかった、と館員から攻められた。 そして一週間に二回は所在を明らかにして健康であることを示すことやフランス国外へは出ないこと、国内でも3日以上申告した居住地を離れる場合は許可を得ることなどが告げられる。 まるで犯罪人の様な扱いに、この国の人情と比較してしまうのは仕方がないだろう、と皮肉たっぷりに書いていて、末尾に書類片手に熱弁を奮う男のイラストがあり、彼女の反骨心が伺える。


 そんな感じで1週間が過ぎると、バカンスシーズンのフランスは8月15日・聖母被昇天祭の休日を迎える。 多くの人がこの日から、またはこの日を挟んで2週間ほど休むと聞いた彼女は、それでなんとなく人が少ないと感じたのか、と納得する。 アパートも半分ほど留守になっていた。 その祭日、彼女はパリ市街見物に出かけ、モンマルトルで彼らと出会う。


 パリに着いた当初、街中で絵を描く人間の多いことに気付いた彼女は、自分もイーゼルを持ち出して街で街路や建物を描き始めたが、やがて数人の男女から「それ、商売じゃないよな?」と警告を受ける羽目になって、目立つ場所で描くのを止めた。 街には多くの似顔絵描きや風景画を観光客などに売る画家が多くいて、どうやら縄張りみたいなものもある様子だった。 だからスケッチブック片手にさっさとスケッチしては移動する、という彼女のパターンが出来上がった。 


 彼らを最初に見かけた時、彼ら2人は通りに面した公園の、一段高くなった土盛りの上に陣取って、イーゼルを出して油絵を仕上げていたので、すっかり街の画家と思い込んだ。 いつもなら控え目に遠くから絵を眺めるだけにして、すぐにそこを離れたが、何かが気になって暫く彼らの様子を見物していた。

 ちょうど通りを白い法服を着たカソリック教会の隊列が、聖母の籏を翻してパレードしていて、そちらを見ながら群衆に紛れていたので、彼らに気付かれる恐れはなかった。

 気になった理由はすぐに分かった。 彼らのうち、一人の男性は東洋系だったのだ。 歳の頃はほとんど彼女と一緒にみえた。 こちらも同じ歳頃の白人男性と2人、通りに向かって筆を走らせている。 彼女は隊列と次の隊列の切れ目でパレードを横切り、通りの反対側に向かい公園に入ると、そっと彼らに近付き背後から腕前を見学した。


 一見して彼女の意識は片方の絵に吸い寄せられた。 不思議な絵だった、という。 抽象画には違いなく、大胆な構図はすこしピカソに似ていなくもない。 しかし、ピカソらのキュビズムの画家に見られる奔放で明るく明快な筆使いと違い、厚塗りで、ボナールやブラマンクのようにどことなく陰を感じさせる。 どうやらこの通りの風景を切り取ったようだが、雅枝には暗い宇宙に白い光跡を描く彗星が横切っていて、その手前、赤と青が織り込まれたタペストリーが空飛ぶ絨毯のように漂っている、そんな風に見えた。


 彼女はそんな宇宙に更に絵の具を重ねている青年の横顔を見つめていた。 木漏れ日を受けて頬の不精ひげが金色に輝いている。 日記にもその時の横顔が万年筆で描かれていて、線画なのにはっとするくらい生き生きとした顔だ。 伏した目が筆を追い、すっと通りへ流れる。 気付くと彼女は数分間、身じろぎせずじっと見つめていて、その様子に片割れの東洋人が気付き、横の青年に声を掛けた。 もちろんフランス語だったが、何と言ったのか、当時の雅枝の耳では分からなかった。 すると二人は手を休め、振り返り、彼女の方を見た。 


 一目ぼれだった、という。 長身の体を小さなキャンパス地の折りたたみ椅子に沈め、振り返る青年は明るい金髪で、先程彼女が気になった不精ひげも良く似合う彫りが深く良く日に焼けた顔、大きな眼は深い青、顎がしっかりと張った父性的な顔だった。 黄土色と紺色のチェックのズボンと、明るい赤の半袖シャツも良く似合った。


 彼女はその白人青年ばかりに気を取られていたため、東洋人が何か話しかけて来た事に最初気付かなかった。


「え? 何?」


 それは日本語で、まだフランスに来て2週間、相手が東洋人の顔立ちから思わず出てしまった。 すると彼女が驚く事が起きた。


「何だ、君は日本人か。 奇遇だね。」


 相手は日本語で話し、それは全く日本人そのものの話し方だった。


「あなたも日本人?」


「そうだよ、お嬢さん。」


 すると思わず雅枝は噴き出してしまい、相手は眉を上げ、それを眺めていた白人青年はにっこりとほほ笑んだ。


「ごめんなさい、あんまり驚いたものだから、失礼しました。」


「名前、なんていうの?」


「本多雅枝、と言います。 あなたと彼は?」


「僕は野田三郎。 彼はクロード。 クロード・ルフェーヴル。」


 三郎とクロードは画材を背負うと公園を横切って、彼ら馴染みのカフェへ彼女を招待する。 レモネードとソーダ水で乾杯のまねをすると、3人はそれぞれの身の上を、一部はぼかして慎重に話し合う。


 野田三郎はその時22歳。 東北生まれの東京育ち、終戦は群馬の疎開先で迎えたそうだ。 しかし家族は7つ上の姉を除いて両親も、他に3人いた兄や姉も空襲や従軍先で失った。 末っ子で13歳だった彼を長女の姉は一人で守り、育てた。 親戚はいたが、どこも大変なのは一緒、彼女は間もなく進駐軍相手の商売に参加して2人分の食いぶちを稼いだのだという。 だから姉には頭が上がらないが、といいながら彼は、最後は米兵と“ねんごろ”になって、16になった彼を置いて出て行ってしまったのは「どうだかね」、と笑う。 その後、歳を偽って貨客船のボーイとなり、コックに気に入られて料理を覚え、それを足場に船を転々として、最後は外国航路に就航していた客船に、コック見習いとして雇われた後、1年前、本格的に料理を習おうとフランスへやって来たのだという。

 雅枝自身の例を出すまでもなく、あの頃は今と違って観光旅行も簡単には出来なかった頃、後ろ盾の少ない彼がこの国に入るのは一苦労だったはず。 雅枝が、「一体ビザはどうしたの?」と尋ねると万国共通の『オカネ』の印を指で作ってウインクしただけだった。


 ひょうきんな明るさと人懐こい笑顔の三郎に対し、クロードは物静かな、いかにも芸術家肌の青年だった。

 三郎の助けを借りて雅枝が聞き取ったクロードの話は、この四半世紀ほどのフランスの歴史、そのもののようだった。


 クロードは南仏、リヨンの南にあるヴァランスの出身だという。 雅枝と出会った時、21歳。 両親は大戦中に亡くなり、一人っ子の彼は親戚に引き取られ育てられる。 この辺、境遇は三郎とよく似ている。 父親は戦前までリヨンで銀行マンとして勤め、39年に第2次大戦が始まった時には30歳を超えていたため、選抜徴兵には引っかからず、戦場に立つ事はなかった。

 だが、正義感の強かったという父親は、祖国が屈辱に塗れた敗戦を迎えた40年の6月末、自らの意思で妻と息子を置いて静かに家を出、戻らなかった。 1年後、密かに届けられた手紙で、夫がドゴール率いる自由フランス軍に参加し、中央アフリカで戦っている事を知った彼の母親は、その頃から少しずつ活発になっていったレジスタンス運動に密かに参加する。 


 しかし、父親は北アフリカのチュニジア戦線で戦死し、追うように母親も密告され、ヴィシーフランス親独政権の秘密警察に逮捕されたのちにドイツへ送られ、二度と帰る事はなかった。 12歳の彼も母と一緒に警察に連行されたが、母親がドイツ送りになった後に憐れんだ警察署長が独断で釈放し、九死に一生を得る。

 新生フランス共和国にとっては2人の英雄の息子である彼は、パリに住んでいた親戚で、レジスタンスの幹部として活躍し戦後に国会議員となった伯父に育てられ、国からは学資も補助され、やがて絵画に才能を顕した彼は、絵画学校に入学する。 物静かで、いつも穏やかにほほ笑んでいるように見える青年に成長したクロードは、学校も将来を嘱望する才能を開花させていった。


 雅枝は2人の話を、口を挟まずに聞いた後、何か恥じるかのように自分の境遇を簡単に話すと、


「私は両親も健在だし恵まれてもいる。」


 と吐息を洩らし、眼を伏せた。 するとクロードが不思議そうに言う。


「君は人の境遇を勲章か何かのように話すんだね。」


 その言葉はもちろんフランス語だったけれど、雅枝の心を文字通り射抜いた。 言葉を失って彼の顔を見つめるばかりの彼女に、クロードはにこやかと言っても良いほどの調子で続ける。


「人の運命は後から考えるのなら、あそこでこうしていたら、とか、ああしなければ、とか、うまく行くように変えられたんじゃないか、とか、いくらでも反省することがある。 でも、結局今を生きている僕たちは、今持っているもので自分を支えながら、今持っているこの頭で考えて、この身体で何かを成し遂げなくてはならないのさ。

 後悔なんて気にしていたら未来なんて見ていられないよ。 後ばかり気にしていたら、目の前にぽっかり空いている穴にだって落っこちてしまう。 それにね、人が置かれた環境は、その人ばかりに責任がある訳でもないでしょう? 君がお金持ちの家に生まれようが貧乏の家に生まれようが、そんなことは君のこれからの生き方に何の意味もなさない、と思うけれどね。」


 無口だと思っていた青年が、身振り手振りで異国の少女に人生論を説く、それはパリという文化の街ではごくありふれた光景なのかも知れない。 けれど、雅枝にとってはある種のカルチャーショックだった。 そして、それ以上の感情が彼女を支配し始めた。 生まれた国から遠く離れたこの国で、彼女は生まれて初めての恋心を、異国の青年に感じ始めていたのだ。



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