§3
その晩は気持ちが高ぶったまま過ぎていった。
いざ謎の日記の束と二人きりにされると、なんだか日記の黄ばんだ白がどんどん迫って来るような感じがして、心臓がドキドキと高鳴ったので逃れるように部屋を出て、夕飯の支度をするお母さんの所に行った。お母さんは、今までお父さんと話していたことについては触れずに、私が好きだった近所の三毛猫の話をして、ちょっぴり毛羽立っていた気持ちを宥めてくれた。お母さんに気の無い返事をしながら、料理のお皿をテーブルに運んだり、グラスに水を注いだりしていると、直ぐに夕飯の支度が整った。
あの日の夕飯は3人で食べたのに、何を食べたのか、どんな話をしたのか今となってはさっぱり覚えていない。間違いなくあの食事の直後に同じ質問、何を食べ、話しをしたかを訊かれても私には答えられなかっただろう。多分お父さんは黙々と食べていて、お母さんは私に何か、春の服のこととか学校のこととか友達のこととか、そんなささいな話をしていたんだろう、と想像する。でも私は生返事をして、その内お母さんまで黙ってしまったのではなかったろうか?
お母さんは、私がお父さんからお祖母ちゃんの日記を預かった、と聞かされていたと思う。お父さんは、仕事では判断が早くて独断専行する人らしいけれど、家族の事となると大事の前には必ずお母さんと相談していたみたいだから、この時もお母さんに話していたはずだ。お母さんは自分がしゃしゃり出ないことで、私の気を少しでも楽にさせようとしていたのかも知れない。
食事が終って、いつもなら洋間でテレビを観るか自分の部屋で勉強するか、だったけれど、その夜はお母さんを手伝って食器を洗った。お母さんは珍しい私の行動にも何も言わず、私が洗ったお皿を拭いて食器棚にしまっていた。お祖母ちゃんと向き合う前に少し考えたかったのだと思う。でも何を考えていたのかは、やっぱり覚えていない。本当にあの晩は、色々な感情が複雑に絡み合って混乱してしまったという記憶が一番強く残っている。
後片付けが終わると、私にはもう理由を付けて引き延ばす言い訳がなくなった。お気に入りのマグにインスタントコーヒーをいれて牛乳をたっぷり注ぐと、再びお祖母ちゃんに会いに二階へ上がった。
こうして私は60年前のお祖母ちゃんの話と向き合った。それは時代を感じさせない、身内が主人公でなかったら、何かの映画のシナリオかと思うような内容だった。
でも、日記の話を進める前に、最初に手紙の話をしなくてはならない。
私はミルクコーヒーをゴクゴクと飲んで、マグをベッド脇の出窓に置く。漸く日記に立ち向かう決心がついた。まずは紐を解こうと思ったけれど、一度解いたはずのお父さんが強くコブ結びにしてしまったので、諦め、机の引き出しからハサミを取って紐を切った。
封筒は最初の日記に角だけ覗かせて挟まっていたと思ったが、お父さんは取り出して一番上に置いてあった。日記に挟まっていた証拠に、封筒はその一方の角だけ薄く変色していて、挟まっていた部分は白いまま残っていた。表に黒いインクで横書きに、『晶と忍へ』、と書いてある。一体いつ書いたのだろうか?紐を解いた日記に比べるとそれほど古くない。中には便箋が2枚だけ入っていて、最初の2行でいつ書かれたのかが分かった。
それなりに長い手紙だけど全部が重要だから、ここに書き写して置こう。
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私の息子と孫の忍へ
199X年7月23日
一週間前に私もお祖母ちゃんになりました。そこで、もうかなり昔から孫が生まれたらそうしようと考えていたことを今日、実行します。
この手紙は私の“リラの季節”と共にルーテル教会の牧師さんにお預けしようと思います。だからあなた方がこれを読むころには、私はこの世にいない事になりますね。
まずは晶。あなたにはとても済まなかった、と謝りたい。
あなたが二歳で三郎さんは死んでしまったから、あなたは父親を知らずに育った。私は生きるのに精一杯で、あなたには寂しさや貧しさ、幼いあなたには経験しなくてもよいような大人の事情をたくさん見せてしまいました。でも、あなたは捻くれずに成長してくれた。感謝します。そして本当にごめんなさい。
本当はしっかりした人を見つけて再婚すればよかったと思います。でも私はどうしてもこれ以上、男の方を好きになってはいけないと心に決めたのです。その決心は揺るがなかったので、あなたに余計な苦労を掛けてしまいました。
さて、あなたの前にあるだろう本のこと、これは私があなたを産む前まで書いていた日記です。私はあなたのお父さんの事、出会った経緯やどうして結婚したかなど、一切合財話した事はなかったので、あなたに興味があるのならこれを読んでみてください。息子であるあなたに話すには、こんな歳になった今でもちょっと勇気のいる話だから、当時の私が語った方がいいと思いました。
読み終わったら燃やしてください。取っておくほどの価値があるものではないし、私としてはこれが消えてしまった方が安らかでいられると思うから。
でも、もし私の死が、かわいい孫の十五の歳より先だったら、ぜひ忍にも読ませてあげて欲しい。その歳以上なら女の子は見掛け以上にオマセだし、あの頃の私が感じた色々な想いも分かると思うの。
そして私の経験から少しでも何かを学べたら、と思います。
あの辛い、けれど、二度とは巡って来ないリラの季節を賢く楽に過ごせるよう、私は祈ります。
晶、日向子さんと仲良くね。あの方はしっかりした人の気持ちの良く分かる素敵な女性だから、あなたは幸せだと思います。大切にしてあげて。
忍ちゃんに弟や妹が出来るといいわね。でも、私はこれ以上言わないわ。こればかりは神様のお導きだから。
では健やかにお暮らしなさい。
(ここで1枚目の便箋が終わり2枚目の便箋になる)
忍ちゃん。これを読むあなたはいくつかしら?少なくとも中学生にはなっているから、世の中の多少の事は分かると思います。
大人が色々なものを背負ったり着込んだり、演じたり、見栄を張ったりすることにも気付いているでしょう。お祖母ちゃんがあなたに読んでもらおうと思っているのは、そんな大人の振りをして、好きな人と一緒に楽しんだりけんかしたり学んだり、そんなお祖母ちゃんの若い時の日記です。
あなたにはひょっとするともう好きな人がいて、あの頃のお祖母ちゃんのように悩んだり喜んだり泣いたり笑ったりしているのかも知れませんね。息が出来ないほどに苦しかったり、絶望して死にたくなったり、信じられないくらい悲しくなったり、時が止まって欲しくなるほど楽しかったり、そんな事が繰り返し起こって来るのが、この季節です。
後になれば、とっても短い季節で、でもその時はとてもそんな風には思えない、いつまでこんな苦しさが続くんだ、と思ったり、かと思えば一週間があっという間に過ぎてしまったり、とてもへんな時期なんです。
でも、それは過ぎ去らなくては本当の意味が分からない、その時には誰が何を言おうが、絶対に分からない時期なのです。
だからあなたがお祖母ちゃんの日記から自分のために何かを知ろうとして読んだとしたら、それは下手な小説を読んだようなものでしょう。
出来の良い小説は人生の道しるべにもなるでしょうが、あくまで架空のお話です。そこに書いてある作者の訴えは、あの季節の辛さや楽しさ、ばかばかしい愚かさや虚しさを、正確に伝えているかも知れないけれど、実際それを読んだから、そんな季節を避ける事が出来たなんて人は、古今東西いないと思うの。
お祖母ちゃんが若いあなたにこの日記を読んで感じてもらいたいことは、お祖母ちゃんも人間で、だから愚かだったし、ちょっぴり自慢もあったし、なによりここまで生きて来た、ということなの。その本当の意味を、今のあなたに分かってもらうのは、とても無理なことだと思う。でも、たとえば今、お祖母ちゃんになった私の歳になって読んでも、ただのノスタルジーでしかないのよ。それでは意味が無い、と思うの。今でなければならないのよ。
なんだか、難しい話になってしまいました。ありのままのお祖母ちゃんはとても愚かです。でも、それから私もちょっぴり学んで、今、ここにいます。
唯一つだけ、あなたに伝えます。勇気を持つこと。人生は一度きりで、後悔しない事などありません。 何をしても悩む時は悩むし、間違えた方向へ行ってしまう事もある。でも、やり直す事もできる。だから勇気を持って、自分を信じて進みなさい。日記を読んだあとで、少しだけでも自信が持てたのなら、お祖母ちゃんはとてもうれしく思います。
たくさん悩み、たくさん楽しみなさい。かわいい私の孫よ。 雅 枝
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手紙を読み終えて、また最初から読んでみる。お祖母ちゃんの手紙は、私にはとても難しかった。言葉は単純なのだけれど、一体なぜ私に日記を読ませるのか、そこの部分が私には、いま一つよく分からないのだった。
結局5回も読み返して便箋を膝の上に置く。壁の時計のカチカチいう音だけがする。しんと静まり返った夜。 ベッドの背板にもたれて、膝を折って読んでいた私。その頃はよく本をそうやって読んでいた。
私は目をしばたいて右手の袖でごしごしこする。なんだか軽く頭が痛い。ティッシュで鼻をかんで、少し落ち着いて考えられるようになるまで、じっと便箋を睨んでいた。
これを書いた時のお祖母ちゃんの気持ちはどうだったのだろう。
まだ恋愛も幼なじみとじゃれ合う程度、真剣なお付き合いなどした事がない私には、想像の域を超えていた。自分たちの周りで繰り広げられていた恋愛など、お遊びの延長程度にしか考えられない私には、孫が生まれ、父親になった一人息子に自分の過去の恋愛を知らせようとする女性の気持ち、またその孫娘が十代になったころを想像して手紙を書いている初老の女性の気持ち、その両方とも、文学作品のようなよそよそしさと、演劇のようなつくりものの雰囲気しか感じられないでいた。
それにお父さんの気持ちも、だ。1枚目は明らかに自分に宛てたもので、私に宛てた2枚目だけでも良かったのに。でもよく考えると、お祖母ちゃんは1枚目に続けて2枚目を書いている。1枚目にはフッターがなく、2枚目にはヘッダーがない。 明らかに続けて読む事を期待した書き方だ。でも、十代の私が読むには1枚目はあからさまな感じがするし、オマセなどといって裏話のような事も書いてある。
お父さんはきっと、お祖母ちゃんが続けて読むように書いてあるのを感じて、迷ったけれど一緒に封筒に戻したのだ、と思う。するとまた、お祖母ちゃんの意図がよく見えなくなった・・・
私はそのままずいぶんと長い間、便箋を前に考え込んでいたんだ、と思う。気付くと時計の針が両方とも上を向いてバンザイをしていた。
私は吐息を吐くと部屋を出てトイレに行き、その後、階段を降りて洗面所で顔を洗い、キッチンへ2杯目のコーヒーをいれに行った。
コーヒーをいれて階段を昇ろうとすると、洋間のドアが半開きになっていて明かりが廊下に漏れているのに気付く。そっと覗くと、お父さんが自分の椅子で腕を組んで転寝をしていた。私はそっと部屋に入ってコーヒーをテーブルに置くと、点きっぱなしの音を絞ったテレビを消し、お父さんの肩を揺する。
お父さんは直ぐに起きて、なんだ、というふうに辺りを見回す。
「かぜひいちゃうよ?」
「うん、ごめん、寝る」
お父さんは立ち上がって寝室に行こうとしたが、ふと立ち止まり、さっきまで座っていたパソコンデスクに戻ると、プリンターの横に並んでいた辞書の中から一冊抜き、
「これが必要になるだろう」
そう言いながら辞書を渡す。
「今日はもう遅いし、インターネットは明日以降使いなさい、今はそれで調べたらいい」
そして、おやすみ、と言うと、
「眠られなくなるから早く寝るんだよ、時間はあるんだから」
そのまま廊下を奥の部屋に消えた。
お父さんの言った意味は部屋に帰って10分もしない内に分かった。それに当っていた。
辞書は必要だったし、私は朝まで眠られなかったからだ。