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§1・§2

 

 これは、40年以上前に作られた、立派な表紙の付いた日記帳に書いている。誰に見せるつもりもないけれど、書くからには読者がいると仮定して書いて行こうと思う。

 お祖母ちゃんが、最初は誰にも読ませるつもりがなかっただろう日記帳を、あんなに立派な読み物にして書いていたのだから、私も誰かに読まれてもいいように書いて行こう。

 でも、本当のところはこれは自分のために書いている。あと1年先の自分、5年先の自分、10年先、20年先の自分に、あの頃はこんなことを考えていたんだ、と知らせるために。 

 それなら日記を付ければよい、という人もいるだろう。大丈夫、日記は書いている。今までは何か気になる事や事件(もちろん私にとっての、だ)があった時に書いていたから、ひどい時は1ヶ月も空いてしまう事があったけれど。ブログと言う手もあるけれど、私はそこまで外に向かって何かを求めるようなことは、ちょっと遠慮したい、という人だから・・・それはお祖母ちゃんのそれのように立派なものでもなく、ただの手帳だ。日記は私のハケ口見たいなものだから、お祖母ちゃんのことを書いておくには役不足のような気がした。だから私は特別な日記帳を汚して、これを書いている。

 今は夏の入口の、この地方では一番素敵で大切な季節で、人間も生き物も植物もとても元気になる頃だ。空気も乾いて、もう高山でない限り雪も残っていない。ライラックが終って紫色はラベンダーにバトンを渡す。花も草木も瑞々しい、蝶や蜂や天道虫も目立って来る。私は本当にこの季節が大好きだ。この季節にこれを書けるのは良かったと思う。なぜならきっと冬や秋では、どうしても気持ちが下向き内向きで、感情でじめじめした後で読み返してもうんざりするものになってしまうから。ただでさえじめじめしそうな感じだから、この空気がおいしい季節はそんな私の気持ちを救って、多少は良く書けるのではないだろうか?


 うん。こういうことを書いて準備をしている。今は深夜。両親は眠っていて、家で起きているのは私だけ。しん、と静まり返った中にミミズクのホー、ホーという声が聞こえる。私以外にも起きている生き物がいる。さあ、がんばって書こう。お祖母ちゃんの話を続けよう。



 あんなに元気だったお祖母ちゃんは、6月最初の月曜日に突然亡くなった。


 その日はとてもよい天気だったのに、朝8時になってもお祖母ちゃんの雨戸は開かなかった。お天気の日は必ずその時間に家の前の道路を掃き掃除していたお祖母ちゃん。その姿が見えないのが気になったお隣のおばさんが声を掛け、返事がないので交番からお巡りさんが呼ばれたのだ。


 お祖母ちゃんは自分の部屋のベッドの上、眠る様に死んでいた。

 お父さんが掛かり付けのお医者さんにお願いして警察と掛け合い、病死と言うことになり、検死は行なわれなかった。お医者さんが言うには、脳溢血だろう、マサエさんは自分でも気付かない間に天国へ行ったんだ、とのことで、お祖母ちゃんが眠ったまま苦しまずに旅立った、と請け合った。

 みんな突然のことで私たち家族は勿論、近所の人、町内の人、そして名前も知らないお祖母ちゃんのパンのファンの人たち、いっぱいの涙が流された。

 一人息子のお父さんは「だから一緒に暮そうと言っていたのに・・・」と言ったきり、眠るお祖母ちゃんの枕元に何時までも佇んでいた。「本当にありがとうございました・・・」お母さんもそう言ったきりお父さんの隣で泣き崩れた。私は何も言えず、ただただ悲しくて悔しくて、わあわあ泣いて泣いて、涙と声が枯れるまで、お祖母ちゃんの足元で布団に顔を埋めていた。


 お葬式はお祖父ちゃんが眠っている近所の教会で行なわれ、驚くほど多くの人が、まるで町中全ての人が集まったのではないだろうか、と思うほど大勢の人が参列して、教会の前の道に長い長い行列ができ、用意した献花が足りなくて花屋さんが大慌てで追加した程だった。

 花と言えば、みんなお祖母ちゃんがライラックの花が大好きだったのを憶えていて、ちょうど満開でそろそろ花びらを落としているライラックの花を棺に入れてあげてと持ち寄る人も大勢いたから、お祖母ちゃんの葬儀はたくさんの花に囲まれていた印象がある。そんな光景を目にして、やっぱりお祖母ちゃんはたくさんの人に愛されていたんだ、と思うと、またまた涙が溢れ出た。

 お祖母ちゃんは、この町にやって来て以来通っていた教会の大好きなライラックの木がすぐ後ろに立つ墓地の一角、お祖父ちゃんが先に眠っていた墓所に葬られた。散り掛けた四つの花びらを持つ青紫色の花が真っ白な墓石の上に降り注いでいた。

 お葬式が終わり親戚も帰った後。私たち3人家族が牧師さんにお礼を言いに教会の牧師館に行くと、牧師さんは式の時にも話したお祖母ちゃんを誉め讃える説話を少し繰り返すと、お待ちください、と席を立って、やがて重そうに紐で括られた10冊程の本を両手に抱えて戻って来て、テーブルの上に置いた。

「雅枝さんから預かっていたものです。何かあったら家族の皆さんに渡してください、と言われていましてね」

 お父さんは、それを見るなり複雑そうな表情を浮かべ、お母さんは問い掛けるようにお父さんを見た。私は古ぼけて黄ばみかけた白い表紙の本を見つめながら、好奇心を押さえ切れずに牧師さんに聞いた。

「これ、なんですか?」

 すると牧師さんは、

「一番上に封筒が挟まっているでしょう?雅枝さんはそれに何か書いていると思いますよ」

「牧師さん。お祖母ちゃんはこの本のこと、何か言ってましたか?」

 牧師さんは思い出すかのように目を閉じて、

「想い出、だそうだよ。大切なお祖母ちゃんの想い出だ。読んだ後は、いや、読まなくても燃やしてほしい、そんなことを言っていた。多分、その封筒を読めばその理由が分かると思うよ」

 すると今まで口を挟まずに黙って牧師さんの話を聞いていたお父さんが立ち上がり、

「何から何までお気使い頂き、ありがとうございました」

 と言うなり頭を下げ本を抱え上げると、さっさと歩き出したので、私もお母さんも慌てて牧師さんにお礼を言うと、お父さんを追い掛けた。

 お父さんは、車の後部座席にどすん、と本を置くと、無言で家まで走らせた。そして家に着くなり本をどこかに持って行き、疲れたから寝る、と夕飯も採らずさっさと寝てしまった。私もお母さんも結局その日は何もする気になれず、お父さんに倣って早めに布団に入った。


 それから一週間後の事だった。学校から早めに帰宅した私をお父さんが呼び止める。

「何だ、お父さん、いたんだ」

 お父さんは2日前から仕事に復帰していた。仕事は建築設計で、街の中心部に仲間と共同で事務所を開いていて、そこで代表をしている。

「落ち着いたら、話がある。夕飯の前に話したいから。 洋間で待っているよ」

 お父さんはそう言うと、私の返事を待たずに洋間のドアを開けて、中に消えた。

 お祖母ちゃんが亡くなって以来、お父さんも塞ぎがちで、ここ数日は声も掛けるのも憚っていたけれど、今も沈んでいて私も何だか気が重い。もちろん、お祖母ちゃんは大切な人だったけれど、私は、塞いでばかりいてはお祖母ちゃんに申し訳ない、と思うのだ。あのお祖母ちゃんならきっと、沈み込んでばかりいる私たちは見たくないはずだからだ。

 これはずっと後になって聞いた話だけれど、お父さんはあの書物の束に目を通した後、3日間もためらった挙句、教徒ではないのに教会へ行き、あの牧師さんに相談、その夜に私を呼んだのだそうだ。

 私は制服を着替えると少し緊張して洋間のドアをノックした。お父さんは例の書物を目の前のテーブルに置いていて、無言で向かい合わせのソファを指差した。私が座ると開口一番、

「正直な話、とても迷った。今も迷っている」

「どうしたの?」

「お前にこれを見せたものかどうかにだ」

「何だったの、これ」

「お祖母ちゃんの日記だ。昔のね」

「日記?」

「そう、若い頃、お前とそんなに歳が違わない頃だよ」

「読んでもいいの?」

「だから迷った。お前はお祖母ちゃんっだったし、これを読んでしまったら今までのようにお祖母ちゃんを見られなくなるかも知れない、と思ってな、それで」

 私は好奇心に負けそうになっていて、空かさず口を挟もうとすると、お父さんは手を挙げ私を押し留めるような仕草をすると、

「いいから最後まで聞きなさい」

「はい・・・」

 私は改めてソファに掛け直し、姿勢を正して聞く態勢を取る。

 それからお父さんの途切れがちな話を聞いたのだけれど、お父さんが私に対して、あんな真剣な顔をしたのはあの時が初めてだった気がする。私が反抗期だったころ、初めて「部屋に入らないで!」と怒った時も、あんな顔はしなかったはず。

 あの時のお父さんは、何かにとても怒っていて、それでいても、その何かの事は本気で憎めない、何だかそんなジレンマで悩んでいる。私にはそんな風に見えた。なぜだかその時、私にはお父さんの気持ちがよく見えていたのだ。けれど肝心の、何にお父さんがジレンマを感じていたのか、までは分からなかった。お祖母ちゃんにだろうか、私にだろうか。だから私は黙ったまま、同じ様な葛藤の話を繰り返す悩むお父さんの顔を見つめていたのだ。

 やがてお父さんは、肩の力を抜いて溜息をひとつ突くと、

「まずは手紙を読んでごらん。それから日記を見るんだ。もし手紙を読んで日記を見る気をなくしたら、お父さんにそう言いなさい。処分するから」

「お母さんは読まなくてもいいの?」

 私が空かさずそう言うと、お父さんは首を横に振って、

「お母さんの事は気にしなくても大丈夫だ。昨日の晩に話したら自分は遠慮する、と言っていた」

「じゃ、私が読んだらお母さんに教えてあげるね」

 するとお父さんは、その日私と話し始めてから見せる事がなかった笑みを浮かべて、

「多分、いいよって言うだろうね、お母さんは」

 確かに笑顔だけど、何だかとても淋しそうに見えた。私が疑問系の顔をすると、お父さんは、

「とにかく忍に任せたよ。何日掛かっても構わない。納得したらお父さんに知らせてくれ」

 そう言ってお父さんは立ち上がり、重そうな本の束を抱えると、二階の私の部屋まで運んでくれた。何時もなら、入らないで、と止める所だけど、お父さんは何だか心ここに在らずみたいな感じだったから、そのまま勉強机の上にストンと本を置かせるままにさせた。

「もうすぐ夕飯だ。見るのは食べ終わってからにしなさい」

 お父さんはそう言うと、後は黙って出て行った。カチャンとドアが閉まると、私はお祖母ちゃんの過去と初めて二人きりになったのだった。



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