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§19

 2人は、私の生まれたこの街へやって来た。 2人ともこの街は初めてで、緯度もパリよりは南だけど気候は似ているし、それなりに大きい街だが発展途上で、自分たちにも住みやすいだろう、ということで決めた。


 三郎が船員時代とパリ時代の伝手を頼って、なんとか街の外れに一軒の古い洋館を借りた。 戦後、誰も住まなくなって久しかったが大家の老婆から格安で借りて、三郎が持ち前の行動力を発揮して近所の木材加工場から廃材を安く譲受け、一人で家に手を入れて、2ヶ月後には『野鴨亭』がオープンしていた。

 資金はパリ時代の三郎と雅枝を知る貿易会社の社長から少なくない借金をしたけれど、2年後までに半額を返すまでになっていた。 全額は三郎お祖父ちゃんの死もあり、お祖母ちゃん自身パリ時代の借金がまだ残っていたから、少し時間は掛ったけれど60年代の終わりまでには完済したという。


 こうやって書いてしまうと、なにかトントン拍子で2人が成功したみたいだけれど、日記には書かれていないので想像だが、飲まず食わずで2人して頑張ったんだと思う。 

 特にこの時、雅枝は妊娠6ヶ月で無理は出来ないころだった。 その後、日記は9月まで書かれていたけれど、弱音や大変な苦労などどこにも書かれていない。 あるのはただ、雅枝の三郎への感謝とお腹の赤ちゃんの存在感、お腹を蹴った、とか、よく動いている、産婆さんは順調だ、と言ってくれている、などと言ったこと。

 ほんとうにお祖母ちゃんは強い人だった、と思う。


 2人の子供、晶(つまりは私のお父さん)は59年11月に無事生まれる。 でも、日記らしい日記はほとんどここでおしまいとなる。 残りの部分は、あとにも書くけれど、もうメモの類ばかりだ。 そう言う意味で、雅枝の『リラの季節』はこの59年までだろう。


 日本に帰って5年後。 その頃には三郎お祖父ちゃんも亡くなっていたが、曾お祖父ちゃんが亡くなった。 でも実家に連絡しても無視され、葬儀にも参列を許されなかった。 当主となった一番上のお兄さんは、10万円の小切手と相続放棄の書類を送って来て、自分の代になってもお祖母ちゃんは許されることはない、と知らせて来た。


 お祖母ちゃんは何も言わずに書類にハンコを押し、小切手も手を付けずに送り返した。 その1年後に曾お祖母さんも亡くなったけれど、お祖母ちゃんはもう何も連絡せず、5歳になったお父さんを連れて教会でいつもより長く祈った。


 そんな断絶した本多家との関係で唯一、5人兄弟の末の弟さんが実家とのパイプ役を買って出て、何かの折に付けこっそりと会いに来ていたという。


 私はこの、大叔父さんに幾度か会っている。 お祖母ちゃんの葬式にも本多家の代表として参列していて、献花を終えると無言でお父さんに目礼し、そのままタクシーで空港まで帰って行った。


 一度、話したこともある。 あれはたぶん小学校に入った年の、やはりライラックの季節だったと思う。


「忍ちゃん。」


「はい。」


 その中年の男性は背が高く、ぱりっとした青いワイシャツに赤のネクタイ、濃い灰色にピンストライプが入ったスーツ姿で、薄い春物のコートを下げて私を見下ろしていた。

 なぜ、覚えているかって? お祖母ちゃん家の遺品を整理していたら、写真のアルバムが出て来たのだ。 その中に小学1年生の私を膝に乗せた髭の男性が写っていて、傍らに本屋の紙包みが見えていた。


 着ているものからきっちり刈り揃えた顎髭まで、私の周りにはいないタイプで、私は思わず後退りしたのを覚えている。 でもすぐに、お祖母ちゃんが読んでくれた『足長おじさん』そのものに私のイメージが会って、仕草や物言いに見とれていた、と思う。

 おじさんは暫く私の顔を見ると、頭を撫でて、


「なるほど、血は争えないな。 この鼻は本多家そのものだ。」


 そういうと叔父さんは手提げ袋からリボンの付いた紙包みを取出し、


「おめでとう、新一年生さん。」


「くれるの?」


 すると後ろから声が、


「ありがとうございます、でしょう? 忍。」


 お祖母ちゃんが珍しく、笑顔じゃなかったから慌てて、


「ありがとうございます、おじさん。」


 するとおじさんは、


「いいんだ、気にすることはない。 本当ならもう少しまともな物を、私からでなく貰う権利がきみにはあるはずだけれどね、残念だ。」


「マサヒトさん。」


「あ、済まない。 言ってもセンカタない話だったね、お姉さん。」


 足長おじさんは暫らくお祖母ちゃんと話したあと、帰って行った。 プレゼントの中味は豪華本の動物百科で、私はリアルに描かれたキリンやゾウに大喜びした。 


 私はその本多家の血筋なんだろうけれど、お祖母ちゃんが自分の行動で、お父さんや私が本来受けられた筈の、本家筋からの援助やコネを貰えない事を悔いているのだとしたら、それは間違いだ、と言いたい。


 なぜなら、もしお祖母ちゃんが、ご両親の言う通りの生き方をしていたら、お祖父ちゃんと結婚していなかったし、そうなっていたら、お父さんはこの世に存在しないし、私も生まれて来なかったからだ。

 私はその事で惜しいと思ったことはないし、お父さんもそんなことは考えていないのは確実だし、これからもないだろう。 だから、この本多家の話はこのへんでやめにして、日記に戻ろう。


 日記はお父さんが生まれる2ヶ月前、59年9月に突然途切れ、長い中断のあと、お父さんの1歳の誕生日60年11月に再開する。


 とは言っても、その後も日記らしい記載はごくまれで、パンのレシピのメモや野鴨亭の評判やお客のことなどが列記されていることが多い。 このころ忙しかったお祖母ちゃんはこれを日記としてではなく、忘備録として付けていたんだ、と思う。


 11月になって思い出したように日記を付けたが、それもほとんどメモ程度になっている。 お父さんの誕生日を、店を閉めたあと、眠る子供の前、夫婦水入らずでワインで乾杯したこと、この先も健やかに過ごせるように神様に祈ったことなどが書かれている。


 そして絵は完全に日記から消えた。 だからこの『60』の日記帳で語る事はもうない。


 その先、61から62年の日記は残っていない。 たぶん最初からなかったか、66のように何も書かれていなかった、と想像する。 


 そうすると、ここでお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのお別れの話をしなくてはならなくなる。


 62年の春先のこと、お祖父ちゃんは突然店で倒れた。 朝、開店前の仕込みをしている最中で、パンを焼いていたお祖母ちゃんは、厨房で鍋がひっくり返るすごい音がしたので慌てて行くと、お祖父ちゃんが倒れていた。 すぐに救急車が呼ばれ、20分後には病院に運び込まれたが手遅れだった。 脳溢血だった、という。


 このことは日記からではなくお祖母ちゃんが生前、僅かに話した内容や、お父さんから聞いた話なので、私が知っている事実だけを書いて行くと、お祖父ちゃんを亡くした時、お父さんはまだ2歳で、お祖母ちゃんは実家から縁を切られた状態、お祖父ちゃんも天涯孤独(あの16歳のお祖父ちゃんを置いて消えたお姉さん、私の伯母さんに当たる人の消息は結局分からない)だったので、お祖母ちゃんは悲しみに暮れる間もなく生活に追われることになった。


 お祖母ちゃんはシェフのいなくなった野鴨亭を思い切ってたたみ、レストランの店舗をそのまま使ってパン屋『ブランジュリ・ノダ』になった。


 果たしてお祖母ちゃんのパンだけで生活できるのか、お客は来てくれるのか、最初は相当不安だったと思う。 けれど、最初からお客さんが付いて、親子2人がなんとか生活出来るだけの稼ぎがあったという。

 1年もすると、ミシュランの星を貰ったパリの名店でパンを焼いていた、女パン職人が出す本物のフランスパン、との記事が地方の新聞にも載って、次第に繁盛し、あのお祖母ちゃんの評判になっていった。


 先を急ぎ過ぎた。 まだ2冊の日記の件がある。


 私が見る事が出来た最後の日記は63年と64年の分だが、このころの日記帳は既に家計簿になっていて、その合間に短いコメントがあるだけのもの。

 これも特筆すべき事はたった一つしか書かれていないが、それは10冊の日記の中でも私が感動したものの一つだ。 最初、その記述は食費やら光熱費、家賃などの数字の列を追うのに飽きた私の目に、鮮やかに飛び込んで来た。


 2年目の命日。 教会で祈った帰り、臨時休業した店舗の前を通ると、戸口のカマチに白い菊の花束が置いてある。 誰か常連の一人だろうか。 雅枝は不思議な顔をして見上げる晶の横でしゃがみ込み、花に向って頭を垂れ手を組む。


 三郎さん。 あれから2年経ちました。

 こうやって未だにあなたを慕うお客さんもいるわ。 パンしか出せなくなっても熱心に通って頂けるお客さんもいます。

 最近、やっと廻りを見渡す余裕が出来ました。 パンもやっとあのころの、あの懐かしい三匹の野鴨亭の味が出せるようになりました。 あなたが言っていたように、手を抜かず真剣に愛情込めて向き合えば、食べ物は答えてくれる、本当にそうだ、と実感します。

 これからも私と晶を見守っていてくださいね。 あなたには一刻も早く会いたいけれど、それはもう少し先の話です。 私はこの子のためにも、まだまだがんばらなくてはならないから。


 相変わらず几帳面に日記の下側余白に書き込まれた、メモのような、つぶやきのようなこの記述を最後に、日記は忙しくも平凡な日々の感想、たとえば、今日は店が混んでいた、とか、春の嵐でリラの花が散ってしまった、とか、大雪で人が死んだ、とかそんな1,2行のエピソードで綴られ、64年9月を最後に突然終わっている。


 今、私の手元に、お祖母ちゃん家の壁から外してきたあの写真、5人の永久に若く、晴れやかな表情のパリジャンとパリジェンヌたちが写った写真がある。


 よく見ようと、汚れた額から外して気付いたことだけれど、裏に鉛筆で書き込みがあった。 確かにお祖母ちゃんの筆跡、流れる様な筆記体のフランス語で、


『 わたしたちのリラの季節に・・・ジャン、クロード、マリアンヌ、サブロウ、そしてオバカサン 』


とある。


 謎だった写真も、日記を読んだ後には、涙なしには見られないものになった。 

 美しくて切なくて、でも楽しくてドキドキして、長いようで短かった雅枝たちの時間が胸に迫って来る。


 その後、彼らはどうなったのか? 歴史上の人物ではないので詳しい事は分からない。 ネットや図書館で分かったのは、やや歴史上の人物に近い人たちの消息や噂だけだ。


 ニコラス・ルフェーヴルは60年、突然政界を引退する。 58年に大統領となりフランス第5共和制を始めたドゴールだが、それまでの海外領土政策を突然転換、海外領土の独立を推進し住民投票を実施したりして、ニコラスの引退は、今までの自身の活動と合わなくなったドゴールに抗議の意味を込めてのことと思われる。

 その後、正しくかわいさ余って憎さ百倍となったニコラスは、反ドゴール・反政府の秘密組織OASに加わるけれど62年に逮捕され投獄、5年後ドゴール大統領から恩赦され釈放、72年に病死している。 夫人のイレーヌも共謀罪で一時収監されたが裁判で無罪、その後は分からない。


 クロードにとっては、ドゴールが大統領になり第5共和制体になる前に戦死したことは、ある種の慰めかも知れない。 もしそこまで生きていたら、義父や義母以上に強硬なゴーリストだった彼のこと、必ずドゴールを命に代えてでも暗殺しようとしただろうから。


 そのクロードが戦死したアルジェリア戦争は62年、アルジェリアの独立で終結した。 結局フランスのアルジェリア派遣部隊10万にも及ぶ死傷者の犠牲は、何の役にも立たなかった。 


 ピザニシェフは『三羽の野鴨亭』を2つ星にまでランクアップさせたあと、85年に惜しまれつつ引退し、後任のイギリス人オーナーシェフ、ジョージにより『三羽の野鴨亭』は今も星を維持し続けている。 国籍や生まれにこだわらなかったピザニシェフのグローバルな感覚は、後任シェフたちの料理にも生かされていて、カツオのタタキ風の一皿が人気料理のひとつだという。 これはひょっとしてお祖父ちゃんのアイデアが今に引き継がれているのだろうか?


 あと一人、意外な人物が記録に出てくる。 アンリ・デュポン。 雅枝の美術学校のホームページを見ると、絵画学部の学部長として載っている。

 アンリという名前はありふれているし、日記のアンリはフルネームがなかったから、最初は気にならなかったが、学校のフランス語で書かれたページの略歴を見て、そうとも言い切れなくなった。


 『1932年旧フランス領インドシナのハノイ生まれ。 1954年に当校へ入学、58年卒業。そのまま絵画主任教授フェビアンの助手となる。 65年講師。 76年助教授。80年教授。 01年理事。 絵画科主任を経て05年より現職・絵画学部長。』


 あのアンリならすごいことだし、ぜひ、そうあって欲しい。




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