§17
58年はフランス第4共和政が倒れ、ドゴールの復活と現在まで続く第5共和政が事実上始まった記念すべき年だが、雅枝と三郎には慎ましくも忙しい、生活、という文字そのままの年だった。
日記帳も変化した。 それまでの気が向いたら1日に何ページも書く(おかげで『56』の日記帳などは最後が詰まってしまって、1週間1ページとか紙が糊で付けられたりしている)、というスタイルから1日1ページ、守って書いて、あの多かった挿絵も控え目になって、1ページ丸々イラスト、ということもなくなった。
そのせいか、書いてあることも、とても平凡になる。 普通の、忙しい共働きの夫婦の毎日が記してある日記帳だ。
三郎と暮らし始めても、クロードの時のような、愛とか恋とか春とかの連呼や激しい感情の高ぶりを示すような詩的な表現は、全くと言ってない。 それはとても穏やかで望ましいものに見えたけれど、今までの恋愛の、ドラマチックな展開や友情の清々しい描写がなくなったのは、私には物足りないような、つまらないような、そんな気になった。
でも、それは雅枝にとって、本当に幸せな、地に足を付けたような、つまりは等身大の恋愛だった。 怪しげな貸衣装屋に行くことはない。 貴族の末裔や大金持ちたちが集う高級レストランやオペラ座に行くこともない。
確かに彼女はそういう家系には生まれたけれど、人の尽力で自分が立つような、誰かに自分で出来ることまでさせて、その人たちの犠牲の上で生きて行くような生活はおかしい、と思う感覚が育っていた。 また、自分の生きる道を自分で決められない人生は人生とは呼ばない、そういう断固とした意思があった。 それは最初から彼女にあった資質、というものだけれど、あのクロードが助長してくれたことでもあった。 その彼が、人の自由、自立を奪うような考えに塗り込められて去ったのは、本当に悲劇としか言いようがない。
三郎との生活は、雅枝にとても平凡で忙しく大変だけれど、生きている実感と喜びを与えてくれるものになっていた。 それは、クロードとの遊びの延長のような夢の中での恋愛と違い、本物の、愛する者同士、お互いを認めてお互いの足りないところを補って、前に確実に進んで行く、素晴らしいものだった。
そんなこの年で特筆すべきことは2つあった。 その内の一つは、その後の雅枝の生き方を定めたもの、もう一つは過去の終わりを告げるものだった。
生き方を定めたもの、それはパンだった。
『三羽の野鴨亭』で働き出して1年半、雅枝はパンを作る事をシェフに命じられた。 それは、それまで調理人ではなく、下働きや皿洗いとして働いて来た調理人の内縁の妻、という立場からすれば、望外のことと言える。
3月に、それまでパンを担当していた調理人が、他の店に高額でヘッドハンティングされ、さて、数日はピザニの知り合いから分けて貰って急場を凌いだものの、なんとか早くパン職人を雇わねばならない事態になった。
そこで雅枝に白羽の矢が立った、と言う訳だった。 それまでも、今までいたパン職人の技術を盗み見たり、時には手伝ったりしていたこともあり、この店のパンのスタイルは大体把握していた。 それに三郎の手ほどきで、2人のアパートで休みの時にはルフェーヴル家のパンを焼いていた。 雅枝には自信もあった。
三郎の推薦に最初ピザニは半信半疑だったが、試作を試食すると思わず目を細め、「もう少し塩を多めにして味を引きしめろ」と言ったものの、三郎にせがまれて出した得点は60点、ちなみにピザニは一番弟子のイギリス人ジョージにすら80点以上を付けたことがなかった。
もちろん、それまでと少し味や舌触り、硬さは変わったものの、お客の評判は悪くなく、1週間後にはパンを持ち帰りたいが分けてくれないか、という常連客まで現れた。 こうして雅枝の焼くパンは『三羽の野鴨亭』に溶け込んで行った。
そして、この年もう一つの重大な出来事は、9月に起こった。
その記事を見つけるきっかけになったのは、ピザニが雅枝の下に、と雇った中央アフリカの海外領からやって来たフェリックスという青年だった。 自称20歳で、確かに海外領住民のパスポートも雅枝の2つ下の生年月日が記載されているが、どう見ても17,8歳に見える童顔の青年だ。
ある日のランチ終了後の休み時間、出来そこないのパンを齧りながら新聞を読んでいたフェリックスは、突然隣りから腕が伸びて来て新聞を奪い取られた。 青年はびっくりして見やると、奪い取ったのは自分の上司で、更に驚いたことにその顔は真っ青だった。
雅枝はフェリックスの存在をまったく意識しないまま、その新聞を手に調理場に戻る。 フェリックスはマダムの尋常でない様子に慌てて、彼女の後を追った。
三郎は下拵えした小羊をオーブンに入れ、立ち上がって振り返った途端に、妻が新聞片手に真っ青な顔で突っ立っているのに遭遇する。 更に後ろには妻の助手が、これまた黒い顔にただでさえ目立つ両目を飛び出さんばかりに見開いている。
「どうしたんだ!」
思わず声を荒げ、雅枝の肩に手を掛け、揺する。彼女は一言、
「彼、死んだわ。」
そう言うと膝が抜けたように床に座り込んだ。 三郎は咄嗟に手を掴んで雅枝を支えると、
「フェリ! マダムを外に。」
雅枝を支えたフェリックスが庭に出ると、三郎はジョージに、
「チーフ。」
横目で一切を見ていたジョージは頷き、
「やっておく、早く行ってやれ。」
三郎が庭に飛び出すと雅枝はベンチでうなだれ、アフリカの青年はどうしていいか分からず行ったり来たりを繰り返していた。
「何があった、フェリ。」
「あの、僕が新聞読んでたら、マダムが突然横から新聞取り上げて、マダム、突然おかしくなっちゃって。」
「新聞?」
フェリックスは、雅枝の足元に落ちていた新聞を指差す。
「分かった。 マダムは僕が面倒見るから、フェリは休んでいなさい。 悪いけど新聞は借りるよ。 すまなかったな。」
ぺこりと頭を下げるフェリックスを後に、三郎は雅枝を優しく抱き起こすと、路地の奥へと入って行く。
定食屋の裏庭は、まだ賄いには時間が早く、何の用意もされていなかった。 三郎は椅子を足で手前に引き出すと、
「お掛け。」
雅枝を座らせ、急いでもう一脚引き出して自分が腰掛けた。 そして手に持った朝刊紙を広げ、雅枝にショックを与えた記事を探る。
2分後、目指す記事を捜し当て、隣にぼんやりと腰掛ける最愛の人に気付かれぬようにして肩を落とした。 三郎は雅枝を盗み見て、大分呼吸が落ち着いて顔を上げていることを確認すると、漸く話し掛けた。
「そうか・・・彼は死んだのか。」
「ええ。」
「君は、どうしたい?」
「祈りたい。 あなた、教会に通っていたわよね?」
「最近はとんと御無沙汰だけどね。」
「連れて行ってもらえる?」
「ああ、いいよ。 明日の朝、早くに行こう。 牧師さんは早起きだから。 市場の人間が祈りに来るからね。」
「私、信者じゃないけれど、何かしきたりや儀式はあるの?」
「僕の行っている教会はプロテスタントだからね、特にはない。 祈りたい、と言えば祈らせてくれるはずだ。」
その時三郎は考えていたそうだ。 ルフェーヴル家はカソリックだ。 その違いが雅枝に分かるだろうか? 今、それを指摘しても意味はない。 どの道どちらも同じイエスを崇めるのだ。 神が同じなら、手順と解釈の違いなど些細なことだろう。 三郎はそんな罰当りなことを考えていたが、純粋に亡き人の信じる神のスタイルで祈りたいという元恋人の祈りは、多少祈り方が違えども神は聞き入れて貰えるだろう、と思った。
その記事は死亡広告だった。
『 クロード・ルフェーヴル陸軍少尉。 国民議会議員ニコラス・ルフェーヴル氏の子息。 先月18日、アルジェにてFLN掃討作戦に従事中、仕掛け爆弾により戦死。 25歳。 戦死後2階級特進で少尉に昇進。 葬儀は8日ノートルダム。 11時から。 』
雅枝は葬儀の日、街頭からその様子を見守った。 遠くからも心痛の分かる夫妻には結局、何も声を掛ける事は出来なかった。