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§16

 6月、マロニエの季節に雅枝はクロードの想い出と共にアパートを引き払い、新しい住居に移った。 そこはパリ東駅に近い、彼女のパリ生活でもっとも狭くもっとも汚い住まいで、主に外国からやってきた労働者が住んでいるという。 三郎が紹介したのだが、安いのと安全なのがウリだという。


 引っ越した当初雅枝は、この4階建ての雨漏りのする、煤けたような色のアパルトメントは、安いのは確かだが、どこが安全なんだろう? といぶかしんだ。 住人は半分が男で半分が女、1Kの間取りに共同トイレ、共同シャワーで、この間取りから独身が多かった。 男同士で共同生活を送る者もいて、随分体格の良い、無口な男が多く、女はけばけばしい、夜の商売では? と思われる者ばかりだった。 雅枝の部屋は3階の階段脇にあり、夜中でも構わずガンガン昇り降りする住人のため、最初の2日間は文字通り眠れなかった。 管理人は正しくブタをデフォルメしたような男で、いつでもランニングシャツにサスペンダーで吊ったジーンズ姿、ランニングシャツには初めから付いていた模様のように、パンくずや卵の黄身がべっとり付いていたりする。 何を言っても、気にしない、が口癖で、住人同士が大ゲンカを始め、窓が壊れ椅子が廊下に飛び出した時も知らん顔だった。 さすがに身の危険を感じた雅枝が三郎に、


「本当に大丈夫なの? あのアパート。」


 と聞くと、三郎はきょとんとして、


「なんだ、気付かなかったのかい?」


「え? 何を?」


 そこで三郎は思い出し笑いをすると、声を潜めて、


「君はまだまだウブなんだね、いいかい? あそこの住人はほとんどが男性だ。」


「え! 女の人も多いわよ? それに男性ばかりじゃ、あの雰囲気は少し怖い・・・」


「それだから甘いと言う。 女に見えるのは、ほとんど男だ。 女装しているんだ。」


 雅枝は絶句し、目を白黒させる。


「男も男しか興味がないヤツばかりだ。 あそこはゲイのアパートなのさ。」


 1ヶ月もすると、ゲイの中で数人しかいない『本物の』女性、しかも東洋の美人で物腰も穏やか、礼儀作法を知っている、と周囲の住民から一目置かれ、中には彼女を真似て髪を黒く染め、キモノを着てうろうろする者まで現れた。 三郎はそう雅枝から報告を受けると、言った通りだろ? と破顔した。


 『三羽の野鴨亭』が開店2周年を迎えたころ、店がめでたくミシュランガイドに掲載され、しかも星を一つ頂く、という快挙があった。 ピザニや三郎が修行した店も昨年までは星一つだったが、今年は星がなかった。 間違いなく、お祝いをすべき時だった。


 2周年とミシュランガイド掲載のお祝いは、店を臨時休業にして一日中、飲んで騒いでのどんちゃん騒ぎで行われた。 ピザニらしく、明日も休み、という先手の打ち方だった。 雅枝は既に店の人間として扱われ、従業員の家族や恋人のほか招待された人たちの中には、間もなく国に帰るジャンやアンリ、アントワーヌの姿もあった。 懐かしい人たちと久々の宴の中、漸く半年たってクロードの影が薄くなって行くのを、彼を悲しみと共にではなく、懐かしさで想えるようになって来た自分をしみじみと感じるのだった。


 もう、明け方に近い時間にアパートに帰った雅枝は、たった一つの家具、ベッドに倒れるように崩れ、眠った。 しかし、それも束の間、ほとんど彼女が目を閉じたと思った直後にドアをノックする音に気が付く。 少しだけ飲み過ぎて、しゃべり過ぎて笑い過ぎたので重たくなった頭は、なかなか夢と現実の区別がつかなかったけれど、そこで、はっと現実に戻った彼女は、控えめなノックの音に、


「誰?」


 と声を掛ける。


「三郎だよ、ごめん。」


 慌てて脱ぎ散らかした衣類をまとめ、脱衣籠に押し込んで蓋をし、壁に掛った割れ鏡で乱れた髪の毛を手櫛でなんとかし、ガウンを羽織って襟元を閉めると、漸くドアに寄り、


「どうしたの?」


「開けてくれるかな。」


 と押さえた日本語が聞こえた。 ドアを開けると、彼女は思わず息を呑む。

 三郎が顔を赤黒く腫らせて立っていた。


「いったい、どうしたの、それ!」


「しぃ!」


 驚いて口を押さえた雅枝に、


「入れてくれる? ここじゃ、恥ずかしくてね、マッチョどもに笑われるのはどうも苦手だ。」


 三郎をベッドに座らせると、彼女は急いで水に浸したタオルを用意し、彼に渡す。 彼は、ありがとう、と言うと顔に当て、


「マリアンヌにやられたよ。 いやあ、改めて下町育ちの姉ちゃんは強いな、と思ったよ。」


 しかし、雅枝はぴしりと、


「茶化さないで。 真面目に話しなさい。」


 三郎はびっくりする。 雅枝がこんな怖い顔をしているのは初めて見た。


「失礼、お邪魔した、帰る、」


「誰が帰りなさい、って言ったの? いい、聞いて。」


「はい。」


「お祝いの日の夜、もう朝だけど、大切な人が怪我をして来たのよ? こっちは心配なの。 真面目に事情を話して。」


「済まなかった。 ちゃんと話す。」


 彼は時折イタッと切れた唇を舌で舐めながら、事情を問わず語りに話し出す。

 まとめると、こういう話となる。


 店がお開きになったあと、三郎とマリアンヌは自分たちのアパート(マリアンヌの家族は隣の地区に住んでいたが、彼女は市場が遠くなるのに彼のアパートで同棲していた)へ帰って再びワインで乾杯した。 何杯目かのワインを空けたあと、三郎が、


「ああ、いいパーティだったな。 見たかい? 本当にマサエは輝いていた。 もう大丈夫だな、彼女は。」


 すると突然、彼女が怒り出したという。 


「あなたは、このところマサエ、マサエと彼女のことばかりじゃない? 今夜だってちっとも私の方を見てくれなかったし、傍にもいなかったじゃない。」


 そして、三郎を険しい表情で睨むと、


「私は知ってる。 あなたは私と出合った時には既に、あなたの中に誰かの存在があった。 私は、あなたが私を抱きながら、誰かほかの人を想っているのを感じていた。 最初は昔の別れた恋人か、死んでしまった人かと思った。 それだったらよかった。 だって別れた恋人にはもう、あなたを取り返すことなんてまず出来ないから。 死人の代わりなら、それでもいいのよ。 いつかは、あなたは私のものになるから。 でもね・・・」


 マリアンヌは三郎を見下ろしながら仁王立ちだった。 しかし、ここでその目から涙が吹きこぼれる。 しかし三郎が何か言おうと口を開くと、


「何も言わないで、私の話を聞いて。 でも、その人が生きていて、すぐ傍にいる存在で、あなたたちにとっては外国のこの国で、遠い故郷を共にする存在だった、それが分かったの。 私はそれでもあなたを振り向かせるために頑張ったつもり。 料理の勉強も始めた。 絵も見に行った。 あなたが私を描いてくれたように私もあなたを描いてみたかった。 でもすべて敵わない、あの人には勝てない、絵も、料理も、頭の良さも、育ちの良さも、顔も、性格も、日本も、全部よ!」


 マリアンヌはそこで大泣きし始めた。 三郎は何も言えず、ただ彼女を眺めていた。 やがて彼女はこう告げる。


「お別れしましょう。 あの人にも、もう男はいない。 私はこの先、生きている人の、それも劣った人形になるのはごめんだから。」


「しかし、マリ、」


 三郎が立ち上がろうとすると、突然マリアンヌは拳骨で彼の頬を殴ったという。 市場で男に交じって子供のころから働いて来た、身長差10センチ高の女性のパンチは三郎をノックアウトした。 それでも、なんとか立ち上がって、彼女に詫びを入れようとする三郎を、ごめんなさい、と繰り返す三郎を彼女は殴り続け、最後に一発右フックを決めると、倒れた彼を軽々と抱え、部屋の外へと放り出す。


「早く行け、あの女の所へ。 昼前にはここから出て行ってやるから、それまでにしっかりお前のものにして来い!」


 三郎は力なく笑った。 濡れタオルで頬を抑えながら。


「で、私の所に。」


 三郎は頷く。 最初は強がっていつもの砕けた調子で話し出したが、雅枝に叱られたものだから、いつもの勢いが消え、神妙にしている。

 こういう話は他人の話であっても重いけれど、当事者に自分が入っていると洒落にならない。 ましてや、その当事者の片割れ、目の前の男は、雅枝を前から好きだった、と認めたようなものだ。 話をしながら、マリアンヌの洞察を否定しなかったのだから。


 雅枝は結構長い間、彼を穴があくほど見ていたに違いない。 三郎は居心地悪そうにベッドにちょこんと浅く腰かけたまま、汚れた床の擦り切れたカーペットの模様を眼で追っている。

 雅枝はやれやれとばかりに吐息を吐くと、


「それで、私はどうすればいいのかしら。」


 三郎も唸りながら、


「どうしたらいいか、僕にも分らない。 ごめん。 本当は来るべきじゃなかった。 申し訳ないことをした。 痴話げんかに君を巻き込んじゃって。」


「なら、仕切り直してくれるかな?」


「ああ、いいよ、無かったことにして貰えるなら、また今まで通りに、」


「どうしてあなたはいつでもそうなの! ちょっと待って!」


 再び雅枝は三郎を叱りつける。 しょぼんとうなだれる三郎に、雅枝はしっかりとした声で、


「よく聞いて、三郎さん。 私はこの2年間、フランス人の男の子と恋に落ちて、夢のような、本当に夢の中にいたようなものだった。 だから、ぜんぜん周りを見ていなかったわ。 あなたが私をどう思っている、とか、そういうことは考えてもいなかった。 すべてはクロードと私の間、そしてその周り、そういう関係で、霧の中にいたようなものね。」


 雅枝はそこまで言うと、今まで腰かけていた出窓の縁から立ち上がり、ベッドの横、三郎の隣に座り直す。 三郎がちらりとこちらを見ると、再び視線を逸らせた。 構わず彼女は続ける。


「仕切り直す、と私は言ったわ。 もう一つ、最初に、大切な人が怪我をして心配だ、とも言った、と思うけれど。 あなたには感謝しています。 そして友情が愛情に変わるかもしれない、そういう時が来ている、それも分かっているつもり。

 だから一度帰って、よく考えて。 もう一度、マリアンヌと話し合って。 簡単に決めてほしくないの。

 マリアンヌが、ただ疲れていて爆発しただけなら、もう来ないで。 私もあなたから離れる。 お店も辞めます、それがお互いのためだし。 いい? 私は人を好きになることに少し臆病になってしまったの。 人を傷付けたくない。 分かる?」


「・・・ありがとう、よく分かった。 こういうのは、ちょっと苦手なんだ。 自分の気持ちを人に見透かされる、というか、何と言うのか、あまり経験なくてね。 うん、顔を洗って出直して来ます。 ちゃんと、ね。」


 三郎はそう言うと立ち上がり、軽く頭を下げて、


「タオルは預からせて。 洗って返すから。」


「いいのよ、そんなの。」


 しかし三郎は片手を上げると、部屋を出て行った。 その瞬間、彼女の脳裏にある言葉が蘇って来た。


『 気付いているかい? 僕以上に君の事を愛している男がいることを。 』


 雅枝は深い溜息とともにベッドに倒れ込み、色々な思いが交錯する中、もう眠れないな、と思った。 しかし、5分後にはぐっすりと眠っていた。


 次に彼女を起こしたのもノックの音で、はっと彼女が飛び起きると、もう夕方に近い時間だった。 いけない! 遅刻だ、と思ったら、今日は休みだ、と気付く。 ほっとしながら起き上り、誰? と声を掛けると、三郎だよ、と声が掛る。


 不用心に鍵も掛けず眠ってしまった、と思いながらドアを開けると・・・


 1日に2度、同じ人間の別の姿に驚くのは、たぶん初めてだった。 三郎はどこで用意したのかタキシード姿で、手に赤い薔薇の花束を持ち、一礼した。


「雅枝さん、一緒に暮らしてくれますか?」


 薔薇の花束を押し付けられた彼女は、暫くその花の香りを嗅ぎ、三郎を見上げた。 腫れはだいぶ引いていたが青黒く変わり始めている。 普段は、なかなかハンサムな顔なのに、プロポーズにはとんでもない顔の時を選んだものだ。 それにこんな大切なことを玄関先で・・・そんなことを漠然と思いながら、自分の心を覗けば、もう、答えは一つしかなかった。


「私、結構我が強いわよ。」


「分かっている。 そういうことも含めて、今までのこと、全部含めても、ずっと君のことが好きだった。」


「ありがとう。 私でよければ。 よろしくお願いします。」




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