§11
野暮を承知で脱線する。 お祖母ちゃんはすごい詩人だ。 こっちまで息が荒くなる。
日記はもちろん近くに起きた出来事を後から思って書くのだけれど、私が同じ経験をして、同じように客観的に描写することなんか出来る訳がない。 それとも、恋をして遂に好きな人と結ばれると、誰しもが詩人になれるものなのだろうか? ああ、顔が熱い。
こうして2人は一番深い部分まで進んだけれど、それは雅枝に深い安心感を与え、至福を与えた。 けれど、クロードはどうだったのだろう。
私は日記の、この2人が深い仲になってからの記述に今までとは違う何かが入って来たのを感じたけれど、それは1,2度読んだだけでは気付かず、3度目に漸く気が付いた。
『彼は〜思っているだろう』、や、『彼は〜のはずだ』、というクロードの心理を思う記述が、『彼は〜考える』、や、『彼は〜している』、と断定調に変化していたのだ。
これは一見、2人が常に一緒だったから、と考えれば辻褄が合うけれど、この時点ではまだ2人は同棲していないし、雅枝は学校にも行っている。 クロードもちゃんと大学に行っていて、日記には、彼が学部長から作品のひとつに対して賛辞が送られたことなども誇らしげに書いてある。
これはどうしたことだろう? 身も心も結ばれると以心伝心の言葉通り、相手の心の内側が読めるようになるのだろうか?
私は再びカミのご宣択を聞きに通称『恐山』、クラスの窓側一番後ろへと向かう。
今までは視線が合うのさえ避けるようにしていた人間が、2日連続で寄って来ては妙なことを聞くもんだから、カミ=マナは露骨に訝しげな顔をして、
「は? どーしたんだあんた、好きなヤツでも出来たのか?」って聞くからかぶりを振りながら、「他の学校で悩んでいる友だちがいて。」と言ってお願いする。 マナは、変な奴、とつぶやきながらも持説を話し始める。
カミの言葉は少し露骨だから、最初は私の言葉で掻い摘んで書くと、肉体関係があるからと言って相手の思考など読める訳がない、分かるとすれば、相手の仕草や表情が何を意味するか、だけだ。 だからもし、そんなことから相手の気持ちや行動が分かる、と断定する人間がいるとすると、その人間は強がっているか、怖いのだ。
相手がどこかにいなくなる、他の女の下へ去る、気持ちが冷めて行く、それが怖い。
マナはそこまで一気に説明すると、何を思ったのか、にやっと笑って、
「やることやっちゃって、いくとこまでいくと、さ。 そこは山の頂上でさ、」
彼女は私を何か珍しい動物を見るような、興味深げな目で見ながら続ける。
「あとは下りだろ? こいつは自分の男です、手を出さないでください、なんて書いてぶら下げとく訳にはいかないから、同じリングとかピアスとかタトゥーとかすんの。 ソクバクの始まりってやつ。 で、そこまでして周りに言い触らせても、どっかのバイタがとっちゃわないか、とか、男がほかの女を摘み喰いしちゃわないか、とか気になり出す、そいつを嫉妬とか言うんだ。 だからますますベタベタすんし、一分おきにメルメルすんのよ、ヤリ始めて夢中なころはね。」
はあ、こうやって書くとやっぱり彼女の言葉は露骨だけど、なんだかよく分かるし、カミが噂と違って冷酷じゃなく頭がいいのもよく分かる。 彼女のことを見直していた。
私は、ありがとう、と言って離れ、自分の席に戻ったらリンちゃんから、シノン、頭おかしくなったの? ってメールが来る。 聞きたいことがあったから、それだけ。 と返信し、ふと、あの時代はケータイがないから、もっと不安だったんだ、と思い当たった。
カミの宣託通り、愛する人に数分置きにメールする人も多い現代と、家にいなければ約束した時間にならない限り安否も分からない時代。 とても想像出来ないけれど、そういうことなんだ。
その上、植民地の独立闘争など、世界史の授業で最後の頃に触りだけ聞かされるだろう端っこの歴史の真っ只中、いきなり襲われたりデモがあったり、正に昔の白黒のフィルムでしか見ることがない世界にいるのだ。
毎日、相手の元気な姿を見てほっとする、そんな私たちからは遥かかなた離れた世界。 けれど私は日記のこの部分を最初に読んだとき、お祖母ちゃんの焦りや不安は、何か世界のせいだけでない、それだけでない気がしていた。
何かもっと内側の、予感や虫の知らせのような、漠然とした不安。 それはいつでも底に流れていて、気にしなければ気にならないけれど、気になり出したら耳から離れてくれない時計の秒を刻む音のように、常に日記の几帳面な文字の下、確かに存在していた。
それは、クロードがいなくなってしまう、という、あのアルジェリアに消えたと思われるレイモンのように、ある日突然、彼が忽然と消えてしまうのではないか、という根拠のない不安だ。 しかし彼女は、それを直接本人に聞いたことはなかったようだ。
さっきの初体験におよぶ部分の下りは、多少私の想像力を膨らませて書いたけど、彼女がクロードに自分を与えた(そうとしか書きようがない)のは、この不安から彼を逸らすのが目的だった、私にはそう思えてならなかった。
日記にはどうしても消しきれない不安、どこか遠くを見つめる彼の姿を長々と書き込んだりデッサンしたり、クロードの姿からあれこれ想像する雅枝の姿が浮かぶ。
やさしいクロードは根拠のない彼女の不安を、妄想だったとして彼女の不安を払拭するかのように抱き締め、耳に心地よい愛のことばを囁く。
そこが街中なら2人、抱き合いながら他の誰も立ち入らない世界を作るため、通り過ぎる人に気にしないで、というサインを送り、2人の世界に理解のあるフランス人らしく、人々はそこに存在しないものとして通り過ぎて行く。 そこが2人きりの場所ならば、彼女の悪夢を束の間の快楽で忘れさせる、愛の行為に没頭する。 2人の時間は、彼女の想像する悪い世界から一時でも遠ざけてくれて、彼女は再び束の間の幸せを取り戻す。
先が分っていてこの部分を書く私は、正直辛い。 この55年、歴史は確実に波乱へと動いて行くけれど、雅枝とクロードは彼女の不安はあったものの、穏やかで強い愛を育んでいるように見えていた。
こうして2人は結ばれ、その後は仲良く暮らしましたとさ。 童話の決めゼリフを書いてしまいたくなる。
でも、世の中そんなに甘くない。 歴史とか小説は、春を謳歌している人々に夏もあり冬もある、必ず悪いときもやって来ると警告するけれど、春の只中にいる人はついこの間までの冬の寒さを忘れかけている。
季節のように必ず巡ってくるもの、たとえば定期テストのようなものでも、テストの後で次のテスト勉強を始める人はほんの僅か、少なくとも私の周りにはいない。
アリとキリギリスや、喉元過ぎれば熱さを忘れる、の例えもこれを戒めるけれど、分かってはいても、春、花に囲まれ軽くなった服装でデートの待ち合わせに向う女の子に、冬が来るぞアリになれ、なんて聞く耳持たないのは当然の気がする。 結局、お祖母ちゃんもそうだった。
予言者じゃないから未来など分からない、それは正論だけど、何かの前振れ、胸騒ぎ、予感、そんなものがあったのは見て来た通り。
綻んだコートの裾を見付け、見て見ぬ振りをする人のように、見たくない未来に目を塞ぎ耳を塞いで、愛する人の傍らに横たわり、安らかな寝息をたてるその顔を、飽きもせず眺めている。 私には、そんな雅枝の姿が浮かんでくる。
それを端的に表すのが、日記に唯一描かれた油絵だ。
2人が結ばれた『55年』の日記の最後のページ、裏表紙と表裏となる部分の見開きに下地を塗り、その上に油絵の具でクロードが描かれている。 だから55の日記は裏表紙が膨れていてきちんと閉じない。
もちろん不適な素材に描かれた油絵はボロボロと絵の具が剥がれ、所々くっついたのか紙ごと剥がれている。 だから私の前にはアバタだらけのクロードの上半裸身がこちらを見ている。
ベッドに横たわり、毛布を腰まで掛け、半身を捻って両腕を頭の上で絡ませる、そう、ポーズは古典的に見慣れたゴヤの『裸のマハ』やアングルの『奴隷がいるオダリスク』のよう、もちろん男性だけれど。 筆致はデッサンやイラストと違う何か荒々しいものがある。
お祖母ちゃんは作品として残るもの全てパリに捨ててしまったから、この絵だけが私が確認出来た『ホンダ・マサエ』作品だ。 クロードが彼女の筆を通して日記の中で語る雅枝作品のイメージとこれは違う。 想像だけどお祖母ちゃんの絵は、フェルメールらオランダ風俗画家風の写実的な絵だったんじゃないか、と思う。 でも日記のそれは、マチスやゴッホに近い。
ふと思う、この筆致はクロード風なんじゃないかと。 そう考えたらそこから離れられなくなった。 愛し合ったあと、ベッドに横たわる恋人を、その男の絵のスタイルで描く女。 少し考え過ぎかもしれないけれど。
でも、お祖母ちゃん・雅枝にとって幸せだったことに、この55年は2人がそれなりに平穏で過ごした年になった。 世の中の波乱は、2人の世界では愛の力が消し去る、正にそんな年だ。
あと、書いておくのはお祖父ちゃん・三郎の事と、ジャンたちクラスメイトのことだ。
三郎もこの年、変化の年になった。 店では少しだけ『階級』が上がり、料理も下ごしらえをさせてもらえるようになっていた。 そんなとき、先輩のビクトル・ピザニという男が店を辞めて独立することになり、三郎を引き抜いた。 三郎も異邦人に偏見がやや強いこの店に嫌気がさし始めていたころで、2つ返事だったという。
ピザニはパリ東駅近くの下町に小さな店を借りて、三郎他4人を雇い、商売を始めた。 庶民的なその地区で、飾らない田舎料理を気楽に味わえ、値段も手ごろだと評判で最初からうまく軌道に乗り、その1年は大忙しになり、三郎も腕を上げた。 熱々の2人も幾度かこの店『三羽の野鴨亭』を訪れている。
もう一つ、彼にマリアンヌという2つ年上の彼女が出来たことも書いておかなくては。
その人とは店を移って出会ったと言い、ピザニが食材を仕入れる市場で働く娘だった。 結構豪快で姉御肌、三郎も日本人としては背が高かったけれど、それより10センチほど高く、おっぱいも大きく、三郎は酔っぱらうと『僕のウシ姉さん』と呼んで叩かれていた。
ジャンたちクラスメイトには変化が多かった。 辞めた人間も多かった様子だけど、彼女の興味がクロード一色になってしまったせいか、学校のことがあまり書かれなくなっているため、詳しくはわからない。
ただ、少ないながらもジャンやアントワーヌ、そしてアンリとの友情は、同じ年代の私が読んでも微笑ましく楽しげだ。 それぞれの誕生日をサプライズで祝い、みんなで郊外にピクニックに行き、遊園地ではしゃぐ。 海のないパリの夏、バカンスに出掛けるほどお金のない彼らはセーヌで水遊びをしたり日光浴したり、冬は公園で無邪気に雪だるまを作り、雪合戦をしたり。 まったくやることが、今の私たちとあまり変わらないんじゃないかな?
ジャンと数人のやり手がうまく話を付け、街で似顔絵描きが出来るようになったのもこの春のことだ。 もちろん雅枝もその仲間に入れて貰い、この春から彼女は観光客相手に、似顔絵や速成で書いた凱旋門やエッフェル塔の小品を売るようになった。 これは彼女の乏しくなってきた生活費と学費の足しになって大いに彼女を助けた。
絵が売れるようになるまでは、雅枝は手持ちのお金が少なくなって行くのを固唾をのんで見守っていたが、お金のことはクラスメイトや、これは彼女にとって絶対だったが、クロードやルフェーヴル家の人々に知られてはならなかった。
けれど、家賃を払うルナール夫人は貧乏学生や失業者をたくさん見て来ている。 特に雅枝は過去、お金に困った事がない人間だったから、その生活や素振りから彼女がお金に困って来ていることはお見通しになったと見え、夫人から食事に誘われたり、朝、節約のために何も口にしていない雅枝に、クロックムッシュをごちそうしたり、帰って来ると戸口にバゲットが一本、置いてあったりと、彼女は感謝しても仕切れない、と書いている。 そして多分、ジャンたちが街で絵を描いて売るようになった裏には、彼女の忠告と存在があったんじゃないだろうか?
この年の秋には、街でイーゼルを並べるクロードと雅枝の姿が見られたに違いない。 それに時にはジャンやアントワーヌも加わっていたのではないか、と思う。 三郎とマリアンヌも含めてジャンやクロードと遊びに出掛けた日もあり、これは後に写真となってお祖母ちゃん家の壁に飾られることになる。 羨ましくなるような楽しい日々だ。
さて、この年はこれ以上あまり書くことがない。 だから先に進もう。
雅枝が久々にクロードの両親と会った、ルフェーヴル家のクリスマスディナーを最後のイベントとして、雅枝が今までの人生で一番印象に残り、一生忘れることはないだろう、と大晦日に書いた55年が明け、不思議と静かな、けれど変化の56年が始まった。