§10
注意;
この節には抑えた表現ながら性行為が描かれています。12歳以下の方、または性描写に嫌悪を覚える方は出来る限り回避をお願いします。
3月、レイモンの逮捕から1週間後に雅枝は学校で倒れた。 数日前から身体の節々が重く、今朝は熱も上がって来ていたが、重い身体に鞭打って学校に来ていた。 アパートにひとりでいると何か不安で、友だちの顔を見ておきたかった。 それが仇になった。
講義の最中、彼女は強いめまいと息苦しさを感じ、そのまま机に伏していたか、と思ったら、次の瞬間、彼女は自分のアパートのベッドにいた。 頭がずきずきと痛み、思わず呻きながら痛い、と日本語で言う。
「ああ、気付いた。」
声に寝返ると、クロードが心配顔でこちらを覗き込んだ。 雅枝が起き上がろうとすると押し留めて、
「起きなくていい。 まだ完全に熱が引いてない。」
「どうしたの、私。」
声はしわがれて、舌が口の中に貼り付く。
「学校で意識を失ったんだ、覚えていない? 風邪をこじらせたって。 肺炎になり掛っていたそうだよ。」
「まあ、あなたにも移っちゃう、出て行って。」
「もう遅いよ。 さっきまで三郎もいたけど、店に出る時間だから。 あいつは“BAKA”だそうだから風邪は引かないそうだ。 何か日本のコトワザかい?」
雅枝は力なく笑って肯定すると、
「今、お店に認められ始めて大変な時なのに。」
「明日、時間が空いたら来るってさ。」
「まったく・・・でもありがとう、運んでくれたんだね。」
するとクロードはかぶりを振って、
「僕じゃない。 ジャンだよ。 彼とその仲間だ。」
「まあ・・・申し訳ないわ・・・」
「彼と少し話した。 君が気付いたら知らせて欲しいというから、後で知らせておくよ。」
「話したんだ。 彼、いい人でしょう?」
「ああ。 彼はいいね。」
クロードは微笑むと、
「医者は大家さんが呼んだ。 丸一日眠っていたからちょっと心配したよ。 何か食べられるかな?」
雅枝はかぶりを振って、
「食べる気にならないけれど・・・食べた方がいいのよね?」
「医者が点滴したけれど、少し食べないとね。」
「分かった。 食べる。」
「待っていて。 眠っていていいから。」
クロードの作った冷ましたオートミールは、熱でマヒした舌では何の味もしなかったが、冷たくておいしかった。 彼は雅枝を抱き起こすと、ベッドの背板に枕を当ててそこに凭れさせ、オートミールをスプーンですくって少しずつ彼女の口に運んだ。 彼女はなされるまま、大人しくゆっくりと食べた。
雅枝がもういらない、と手で合図すると、クロードは皿をベッドサイドのテーブルに置いて、彼女を助け起こして再び横たわらせる。 毛布をしっかりと肩まで掛け、少し額に手をかざして熱をみると、
「何か必要なものは、あるかな?」
「ううん、大丈夫。」
クロードは彼女の額に掛った髪を優しく梳いて、
「もう少しおやすみ。 僕はここで見ているから。」
雅枝は気だるく頷くと、眼を閉じる。 あっという間に眠りに落ちていた。
それから3日間、クロードは彼女の部屋にいて看病を続けた。 夜はルナール夫人が用意してくれた簡易ベッドを部屋の隅に置いて寝て、昼は窓際に椅子を置き、窓から見える風景や、眠る雅枝の横顔をスケッチした。
時折、ルナール夫人がやって来て洗濯した彼女の寝巻きを届け、クロードが部屋の外へ出ると着替えさせ、タオルで体を拭いてくれた。 彼女はクロードの食事も用意してくれて、一階の管理人の部屋で食べさせ、その間、雅枝の傍らに付いていてくれた。
後日談だが、雅枝は感謝のしるしにルナール夫人の肖像を描いたらしく、夫人はとても喜んで管理人室の壁に掛けていたそうだ。 彼女の描いた絵は、日記を除いてほとんど残っていない。 ひょっとするとパリの下町の古いアパルトメントの管理人室の壁に、優しい夫人の肖像画が今も掛っているのかも知れない。
雅枝が倒れたことはあっという間に学内に伝わり、彼女の交友が豊かなことを象徴するかのように、学友たちが入れ替わり立ち替わり見舞いに訪れた。 それは例のゴーリストや右派に属する人間や、留学生で独立擁護の人間たち、左派の社会主義者まで多種多様だった。 ジャンが見舞いに来た時、評したように、みんな雅枝のアパートでは主義主張を棚上げし、一時休戦というか呉越同舟というのか、廊下で敵対同士がばったり出くわしても、黙って会釈してすれ違う、そんな光景が見られたそうだ。
「みんな、どうにもならないの?」
2日目の朝、医者が往診に来て、もう一日安静にすれば大丈夫、と見立てて帰った後、入れ替わりに見舞いに訪れていたジャンに彼女が問うと、
「無理だね。 両者、絶望的に一致するところがないから。 ずっと平行線だ。 もちろん暴力は良くないけれど、連中、話し合ってもすぐに殴り合いのけんかになりそうだね。」
ジャンは手に持っていたフランスギクの花束を、既に花束が3,4束入っているベッドサイドの2つの花瓶を見やって、肩を竦めてその下に置く。
「独立問題、というのはね、妥協点が難しい政治問題なんだよ。 支配側は精一杯妥協したつもりで自治政府を作らせても、独立派は、そんなものはカイライでしかない、という。 対決は必然的なんだ。」
雅枝は昨日よりは身体が軽く思え、熱も引いたのでカーディガンを羽織ってベッドに半身を起していた。
「そう・・・私は門の外の人間だから、これ以上、何も言えないわ。」
「そうだね。 僕の国でも僕の生まれたケベック州はフランス系だから、時折独立の話で盛り上がるし、独立か現状維持かで対立し衝突もするよ。 同じ国の中でもそうなんだ。 旧・植民地はもっと深刻だろうね。」
そう言うと彼は自分の持って来たフランスギクの白い花を見つめ、
「その花は、今の季節、道端にも花壇にもありふれて見られるけれど、元は北アフリカの沿岸に咲いていた花だそうだ。 出入りしたフランス人たちに種が付いたりしてヨーロッパにも広がったんだろう。
覚えているかな? レイモンが話していたろう? 冬から春にさしかかるころ、海を臨む丘陵の至るところに白い花が咲き出して、それが日に日に増えて行き、やがて丘全体を覆うように咲き誇る、あんな光景はアルジェリアだけでしか見られないだろう、って。 たぶん、それはこのマルギャリタだよ。」
雅枝は物憂げに花を見る。 日本では英語読みでマーガレットとして知られる花だが、それより一回り大きい気がする。 確かにこれが群れて咲いたら目を見張る美しさだろう。
「その花は1本では平凡な白い、どこにでも見られる花だけど、集まって咲いた姿は息をのむ美しさだ、気高い何かの意思を感じる・・・そう言っていたわね。」
雅枝は低い声でそう言いながら想い至る。 一人では平凡で非力だが集まれば・・・彼は暗にそう言いたかったのかも知れないと。 正しくジャンもそう思っていたのか、
「気付いてあげるべきだったのだろうか、迷うところだな。 彼は引き留めても同じ行動をしたように思うよ。」
ジャンは、見舞いの人間が座れるようにルナール夫人が持ち込んだ椅子を、ベッド際に寄せて腰掛け、雅枝を足元の横から見やる位置にいた。
「なあ、クロード君。 君はどう考える?」
ジャンの位置は窓際に座って風景をデッサンしているクロードとも向き合っていて、ジャンはクロードとも話せるように、その位置に椅子を動かしたとも思える。 しかし、クロードはデッサンに集中し、それまでは会話は2人だけで行われていた。
クロードは手を休めるとジャンを見やり、
「何を?」
「いや、君はフランスの海外領土政策をどう考えるか、と思ってね。」
クロードは珍しく無表情でぶっきらぼうに、
「はっきり言ってその話題に興味はない。 ただし、僕の義父はゴーリストだし、実の父は問題の地で戦い血を流し、つい先日フランスから独立したばかりの隣国で死んだ。 僕の立場は明確だが、実のところ、今の自分に関係はないね。」
それは、思わず雅枝が、どうしたの? と問いたくなるような受け答えだった。 このようなクロードは、本当に初めて見た。 ジャンも異様さを感じ取ったのか、
「いや、つまらない事を聞いて済まなかった。 続けてくれ。」
その後ジャンは椅子を微かに斜めにして雅枝とだけ話し、その内容も学校のこと、絵画のことに終始した。
やがて、ジャンはお大事に、と立ち上がり、クロードに雅枝を宜しく、と声を掛ける。 クロードは黙って手を上げ、ジャンは頷くと部屋を出て行った。
「クロード。」
「なに?」
「ジャンのこと、嫌いなの?」
「そんな事はないよ。」
「だったらもう少し愛想良くすればいいのに。 彼、たぶん嫌われてる、と思ったんじゃないかしら。」
「そんなことはない、と思うよ。 ただ・・・」
そのまま言い淀んだクロードに、「ただ?」と聞き返すと、
「いや、何でもない。」
ジャンとクロードは馬が合いそうに見えた。 実際日記を読んで行けば短い間ではあるけれど、三郎と共に彼の大親友になって行くのを見る事になる。 なのに、この時は何かクロードはジャンを避けた。
その時、雅枝に何か大きな謎が生まれたような、言い知れない不安がもう一つ芽生えてしまった。
3日目。 もう大丈夫、と雅枝は部屋着に着替え、ベッドでおとなしくしていて背板に凭れ、ジャンが学校の図書館から持って来た、戦前にパリのある美術館で催されたブラマンクやドラン、マチスのフォーヴィスム時代の回顧展のカタログを見ていた。
雅枝は、以前はフランスの画家たちのこの時代のことにあまり興味が無かったが、クロードがどうやらこの時代に何か共感を覚えているのに気付くと、機会がある毎に美術館に通い、展覧会のカタログで調べて確かめていた。
その時もクロードは窓際で風景を眺め、曇った窓を手で拭いながら鉛筆を動かしている。 そんな穏やかな一日、それが彼女の記念日となった。
昼下り、雅枝はふと顔を上げる。 何かが彼女の耳に付いた。 それはクロードも気付いていて、彼はクロッキ帳を下に置き立ち上がると窓の外、どこか下の方を眺める。
「どうしたの?」
クロードはその声が聞こえないようだった。 そして雅枝ははっとする。 彼の顔が険しい。 それは滅多に見る事がない、彼の怒りの表情だった。
次第に近付いて来るように思える騒音、それはウォンウォン唸る何かの動物の声として最初は認識されたけれど、今では大勢の人間が叫ぶ声だと分かる。
『アルジェリアを返せ』 『自由を返せ』 『次は我らの番』 『ドゴールはいらない』
シュプレヒコールとプラカード。 独立賛成派のデモ行進のようだった。
雅枝はゆっくりとベッドを降りて彼の脇に寄る。 クロードが見つめているものを少し背伸びしながら見た。
アパートの外は放射状に大広場へ向かう通りの一本だったが、その広場に向けて群衆が動いて行く。 上から見ると道幅一杯に人が溢れ、それが大きな芋虫のようにくねくねと蠢きながら、叫び、唸っている。 500か1000か、それは分からない、けれどそれは決して少なくはない数で、上から見る限り浅黒い肌に白い肌が混じって、拳を振り上げ去って行く。
雅枝はそれを高まる不安と共に見ていた。 そしてクロードの顔を見上げると、そこには明らかな嫌悪が、憎しみが見えている。 それは時折見せる彼の憂い顔、それと重なり、雅枝には次第に耐えられないものに見えてくる。
そんなものを、そんな顔で見ないで。 お願いだから、そんな顔をしないで。
そう言えたら・・・でも、口を突いて出る前に、彼女はそれを打ち消してしまう。 それを言ったあと彼が、悪かった、もうそんな怖い顔はしないよ、と言って優しく笑ってくれる、そんなことになるのだろうか? それはない。 それを確認することが怖かった。 穏やかな3月の日差し、その中で彼のそんな憎悪の顔を見るのに、彼女は耐え切れないものを感じた。
そこで雅枝は思い切ったことをする。 彼の手を引くと背を伸ばし、振り向いた彼の唇を奪った。 それは彼女の初めての、積極的な愛の行動だった。 一瞬の戸惑いのあと、クロードも彼女に合わせ、次第に行為は熱を帯びて行った。
一分もそうしていただろうか、デモ隊はアパートを通り過ぎ、その騒音は最初に聞えたような動物の唸りに変わっている。 彼は彼女を離し、肩を抱き直して、顔を彼女の横顔に当てる。
「愛しているよ。」
彼の囁きはいつものそれに、優しいクロードのものに戻っていた。 彼女がそっと彼の腕を撫でて、身体を離し、彼の眼を見つめる。 そのまま2人の動きは止まる。 見つめた目が離れられない。 離れて、そのまま何もない、それが雅枝にはことのほか、恐い。
「ねえ、クロード。」
「うん?」
「欲しい?」
「え、何?」
「私が、ほしい? クロード。」
クロードは彼女の眼を見つめたまま、
「ほしい。」
彼女は黙って窓際を離れベッドに戻り、その縁に腰掛けると、両手を自分の胸元へ持って行く。
ゆっくりと震える指でボタンを外し、シャツを落とす。 ぎこちなくブラを外すと両手で胸を押さえ、暫らく俯いてから小声で、
「お願い、鍵掛けて、恥ずかしいから、雨戸降ろして。」
彼が急いでドアの鍵を掛け、窓の鎧戸を降ろす姿を彼女は他の世界の出来事のように眺めていた。 部屋は暫くは真っ暗になった。
「あとは、お願い。 私、わからないから・・・これ以上言わせないで。」
「分かった。」
闇の中、衣擦れと息とで彼が近付くのが分かる。 これ以上あり得ないほど心臓の鼓動の高まり。 自然と身体が震えてしまう。 そして・・・
彼が触れる。 手が頬に触れ、顔を上向けられると優しい唇が彼女の唇に重なる。 これにはもう慣れていたので、舌が柔らかく、堅く、甘いものであるのも知っている。 でも、その先は知らない。
彼の手が背中に回り、優しく撫で下ろす。 深いため息が漏れ、それは彼も同じ。 やがてベッドに倒れ、もう一度唇が重なり、手が彼女の胸を掴むと、そのあとは何も考えられず、ただただ彼の息遣い、髪の毛、指、舌、筋肉、温かさ、汗、一つ一つその瞬間瞬間に感じる要素すべてが初めての経験で、雑念を圧倒し、思考は所在なく、その中でひとつの言葉が繰り返し浮かんでは唱えられる、クロード、マサエ、と。
そして彼女は彼の操り人形になる。 彼の動きに合わせ動き、跳ね、踊る。 そして身体が震えてネジが外れ、バラバラになる、心臓が大きく高鳴ったまま、外れてもなお、跳ねる。 およそ考えられない想像と混乱と期待と想い。 それらが相克して混ざり合い、渦を巻きラセンを描いて、高みへと昇り始めて・・・深い安らぎと幸福と痺れと痛み、それらと共にふわり降りて来て、彼女の初めてが終わった。