序章 〜 1話 水
現実の彼、中村医師に心より敬意を表します。先生の志とは大きく異なるとは思いますが、中村先生の功績に心打たれた事がこの物語のモチーフになっていることだけを添えておきます。
『私達に戦争をしている暇は無い。』
医師 中村 哲
序
こうも日照りが続いては作物は育つ筈も無かった。今年の畑もまた駄目かもしれないな。そんな事を考えているが、彼の寝そべっているその場所は畑では無い。怒号や金属の激しくぶつかる音は遠いと言う程の距離では無かった。
「駄目だ、やっぱり畑が気になる。」
「畑の作物よりも自分が生きる事のほうが先だろう!」
全くその通りだった。ここは戦場なのだから。だが、ここは戦場でも彼は百姓だった。戦場は戦人と軍閥に任せておけば良い。それが彼の考え方なのだが、そんな事はお構い無しに軍閥は百姓を徴兵する。彼の手には配られた槍が握られているがやはり鍬のほうがしっくりくる。
「兎に角、今はこの場を生き延びろ!生きてりゃ畑も出来る!」
そうじゃない。生きていくのに十分な食い物さえあれば戦なんてくだらないことをしなくても良い筈だった。しかし、現実には彼は戦場で寝そべっている。
「わかった。今はなんとか生き残る事にするよ。」
静かに頷いた彼が思い付いた生き残る術はそんなに沢山の選択肢がある訳では無かった。敵を叩き伏せる程の武辺があるはずも無いのだから、逃げるか隠れるか、投降するか、くらいである。さて、どう生き残るか。
「生き残れ!テツ!」
テツと呼ばれたその男に声を掛けた徒の兵、と言っても彼もテツと同じ邑の百姓なのだが、叫び終えると勇敢に茂みから飛び出そうとした。テツは男の脚を掴んで止めた。テツは小柄だが畑仕事をやっているせいなのか思いの外、力がある。
「お前、あの敵陣に飛び込んで戦える武辺があんのか?イシ。その勇気は残念だがお前を殺すぞ。」
「でも、国が滅びれば俺達だって生きられないだろ。」
「いや、国が滅びようが領主が代わろうが他の軍閥が支配しようが、畑があれば俺達百姓は活きられる。俺達のような百姓が居なくなったら国は成り立たないからな。」
テツは百姓だが物事をよく考える男だった。よく考えて思い至ったのが、国を成り立たせているのが田畑であり百姓だと言うことだった。政は武力を以ってそれを支配、運用しているに過ぎない。支配する対象は土地であり、それは田畑があるからだが、その田畑を耕して作物が収穫出来なければ荒れ地に価値はないのだから。
結局、戦は負けてテツの暮らす邑を支配していた軍閥は消滅した。敵方の軍閥がテツ達の邑を支配する事にはなったが、誰が領主だろうか、テツにはどうでも良い事だった。
1 水
畑に土と水は欠かせない。生き物が生きていくのに水が無くてはならないのは自明の理だった。作物に水を与えなければならないし、百姓だろうが戦人だろうが喉も渇く。
この国の支配は水の支配で成り立っている。砦は水の管理し易い地勢に配置され、都のほぼ真ん中を河がとうとうと横たわっていた。河には名があるらしいがテツは知らない。自分達はただ『カワ』と呼んでいたが、名前を知らなくても別に不都合は無い。
畑のある邑から都までは凡そ四里(16km)あり、軍閥領主の許可を得て田畑と生活に必要な水を担いで往復するのが邑人の日常だ。女子供も勿論、運ばせるし、農作業の手間次第ではテツ達が朝から夜まで掛けて二往復する事だってある。こうして育てられた作物のうち半分を軍閥領主に年貢として納めて、水の使用料となっている。残りの半分で翌年の苗となる種を獲り、残った分で腹を満たすのだ。
この日はテツとイシの二人でニ往復目の水運びだった。夜の運搬は月明かりが頼りだ。松明を灯しても良いが、余計な荷物を持つならその分も水を運びたい。月明かりがあれば十分に足元を見る事が出来る。二人は話もしないで黙々と歩みを進める。そんな中、テツとイシは先日の戦の事をそれぞれに考えていた。あの戦の折、二人は結局コソコソと隠れながら逃げるという手段を選んだ。戦場が自分達の邑に近い事も不幸中の幸いで、戦人よりも地形に詳しかった。二人は道とも言えないような間道を抜けて邑からも外れたところに四日間ほど身を潜めた。二人は生き残る事が出来たが結局、邑の畑は荒らされてしまった。荒らしたのは元の軍閥領主の配下の戦人達だった。どうせ獲られるくらいならという思いと、当面の自分達の腹を満たす為との意味であった。食べられるほどに育ったものは荒々しく収穫されて、残りは馬や人の脚で踏み荒らされた。荒らした者達のその何人かは顔も知っているし、話もした事があったが、落ち武者となった事に特に同情しようとも思わない。但し顔見知りのせいなのか畑を荒らされたにも関わらず、何故か怒りも湧いてこなかった。生きて行くためには仕方の無い事なのだ。搾取され過ぎて欲望や感情も失せたか?
テツは自嘲気味に薄く笑った。一方のイシはというとこちらは元の戦人達に対して激しく怒りを露わにしていた。これまで散々に尽くして来て戦にも従い、年貢もきちんと納めた。にも関わらず水運びを手伝うわけでもなく、寧ろこれでもかと畑を荒らしていったのだ。
「俺達が逃げても逃げなくても戦の勝ち負けは変わらんだろうが、」
そう付け足して、逃げた自分達も戦人から見たら裏切りと同じだとイシを諭したが、ほぼ無意味だった。イシはテツと目線を合わせずに、道の先をきつく睨む。
誰が居る。
二人の目の前に戦人が三人、道を塞いでいた。馬の蹄の音に気が付かないほどに体力を失っていたかとテツは自覚した。何しろこれが今日、二度目の水運びなのだ。荷物の水は七十キロもあろうか。歩いた距離だってニ往復目の帰りだから十二里を超えている。騎馬ではないひとりは戦で馬を失ったのか。鎧の造りから元の軍閥領主の配下の者達だと判るが、顔見知りは居なかった。
「その水を寄こせ!」
「・・・」
徒の者が抜剣する。テツとイシは身を硬くした。
「嫌だ!」
「全部か?」
イシとテツの発した言葉はほぼ同時だった。
「全部なら運び慣れない貴方達なら三人でも苦労しましょう。樽を持って行かれても困る。」
今度は戦人達が黙る。
「今、飲むのなら分けましょう。元々はあんた等の利権のものだ。」
「テツ!年貢納めてここまで運んでるのは俺達たぞ。」
「分かってる。でも、こいつ等はいま初めて水の価値を理解したんだと思う。」
テツは向き直って言葉を続ける。
「水の代わりにお前達は何をくれる?」
「我等と交渉するつもりか!」
剣が高く振り上げられる。(斬られる)イシは思わず目を閉じる。
「樽の水を全部捨てて良いか!」
テツの一言で戦人が止まった。樽の水は今、百姓の二人が持っていて、決定権は彼等が握っていた。イシも戦人を睨んでみせる。
武器を持った戦人に対抗するために、テツ達が持っている手段は水しか無かった。それでも戦人が切り掛かってくればテツ達はいとも簡単に命を落とす。その後で水だけ奪われるかも知れない。
どのくらい時が止まっていただろうか。
「今、飲む分を。それと領主様のところまでその水を届けさせて欲しい。」
騎馬に跨ったほうの戦人がようやく言葉を絞り出した。その言葉で領主直属かそれに近い戦人だと判った。道理で顔見知りがいないわけだ。
「百姓に身を落とせ。そしたら邑のために水を運べ。野良仕事は俺が教えてやる。」
それがテツが提案した『代わり』だった。動ける働き手は多い方が良い。
「私ひとりでも良いか?あとの者は領主様の身の周りのお世話を。」
「もう領主じゃねえだろ。」
イシのその言葉にもうひとりの騎馬の戦人が睨み返す。
「お前ひとりで構わない。四人も世話はできん。」
言葉を発した騎馬の戦人が黙って頷いた。
「樽を一つ、お前達にくれてやる。隠れ場所が知れたら面倒だろうから返しに来なくていい。その代わり、二度と邑人の前に姿を見せるんじゃない。もしも、姿を見せたら新しい領主に伝える。」
ここまでテツは一気にまくし立てて戦人に目線を巡らす。
今回の事を新しい領主に伝えれば討伐隊が出るのは容易に想像出来る。
「分かった。お前達の配慮に感謝する。それと、本当ならば領主様に別れの御挨拶をしたいところだが、」
「止めた方が良い。」
「だろうな。」
流石に戦人は察しが良い。戦が終わっても新しい領主はまだ、民を信用していないし、警戒のための捜索隊も頻繁に出ている。元の軍閥の戦人に邑の近くをうろつかれても困るし、何より元の領主の隠れ場所が知られるような事は一番避けたい筈だった。なるべく接点は少ないに越したことはない。
「それとその、人を上から見下した戦人の口調も、もうやめるんだな。これからはイシがお前の野良仕事の師匠だ。」
「俺が教えんのかよ。」
「宜しく頼む。」
騎馬の戦人が頭を下げる。そして自ら具足を外し始めた。外した具足は連れ立っていた戦人に渡した。
「これで戦人の我は死んだ。その具足は地に埋めて鎧塚にでもしてくれ。我が墓標だ。」
こうして邑に一人住人が増えた。
こんな事が実は、百姓が水を切り札にして戦人をやり込めた数少ない一件だった。
しかし、この時の決断が後にテツの運命を左右することになるとは、誰一人気が付いている者はいなかった。