尽きない悩み
シンデレラが王子の手を握らないだなんて、前代未聞だ。
「あら、どうしたの?難しい顔しちゃって」
カウンターに座る守に、桃が人懐っこい笑みを浮かべた。
店内は静まり返っていて、客も多くはなかった。
「シンデレラは二階だぞ」
マスターの春彦も茶化しながら桃の隣に立ち、二階を指差した。
美優は、戸田夫妻の経営するこの喫茶『テリーヌ』で居候をしながら
店員として走り回る毎日を過ごしていた。住居スペースは二階となっている。
「ねえ、平田さん。私、みーちゃんと貴方の関係が知りたいわ」
「俺も。みーちゃん、平田さんが来てから変わってきたんだよ。少しずつだけど」
「変わって、きた…?」
守は、身を乗り出して言った。
「ふふふ、知りたい~?」
桃が意地悪な笑みを守に向けた。
「なんですか、その意味深な微笑みは。すごく気になるんですけど」
守は不服そうに桃を見た。
「ふふふ、だもんな?桃」
「うん、春彦。ふふふ~」
春彦と桃は互いに見つめ合い、微笑んだ。
「あの~、お二人とも?僕は至って真面目に聞いているのですが」
覚めたような目で戸田夫妻を見ている守に気付いた二人は、苦笑した。
「も~!そんな目で見ないの!せっかくの整った顔が台無しよ!」
桃は口を尖らせて言った。
「平田さんは、自信持ってみーちゃんにアタックすればいいのよ!
平田さんは持ってる人なんだから」
「はあ…」
桃の底なしの明るさに、守は呆然とした。
「平田さんは頭も良いし、何よりイケメンだからみーちゃんが堕ちないわけないだろ。
当たって砕けろだよ!」
「当たって砕けても、困るんですけど…」
守は、桃と春彦が自分の恋を応援してくれていることに胸がじんわりと温かくなった。
美優への長年の片想いを成就するのに、躊躇する時間なんてない。
美優を見つけるだけで、十五年という長い年月を要したのだから。
立ち止まる暇なんて、一秒たりともないんだーそう、守は思った。
「そろそろ教えてくださいよ。みーちゃんが変わってきたって、どういうことなんですか?」
桃は黙って口元を右手で隠し、頬を緩めていた。
「…あの、一体何なんすか」
答えを知りたくて仕方がない守と、もったいぶって答えを引き延ばそうとする桃。
埒が明かないと見兼ねた春彦が、静かに口を開いた。
「気が付かなかったか?いつもと何か違うと」
「いつもと…違う?」
守は首を傾げた。いつも頼むアイスコーヒーと、サンドイッチ。
特別味が変わったわけでもなければ、量が増減したわけでもない。
「特に…変わったことはないと思いますけど」
「ああ!みーちゃんの愛が台無し…!」
桃が両手で頭を抱えて、オーバーリアクッションをした。
「桃、大袈裟」
「だってえ…」
桃は春彦を見つめる。
守は、互いに見つめ合う戸田夫妻を見つめる。
「あの、話を元に戻しませんか?」
守がそう言うと
桃が、ばんっ、とカウンターを叩いた。守の肩が、ぴくりと跳ねた。
「みーちゃんの愛が、台無しじゃない!この女ったらし!」
桃の言葉を聞いていた春彦が、桃の頬を思い切りつねった。
「ふうう…ひゃるひこお…いひゃいよう…」
「はしゃぐのもいい加減にしろ。…ったく」
「ごめんなひゃい…」
桃の眉が下がり目尻にうっすら涙の玉が浮かんでいるのを見て、
春彦はようやく桃の頬から手を離した。
「…痛いよ、春彦」
桃はしゅんとしながら、先程まで春彦に掴まれていた頬を擦った。
「桃が意地悪ばかりするからだろ?」
桃の頭をぽんぽんと撫でた春彦は、桃が擦っているっ手を優しく握りしめた。
「もうしないから…」
「仕方ないな。今回だけだぞ」
「うん」
再び見つめ合う、桃と春彦。置いて毛ばりの、カウンターに座る守。
戸田夫妻には自分は見えていないのだろうか、と守は溜息をついた。
「僕は、女たらしなんでしょうか」
守の言葉に、戸田夫妻ははっとして守を見た。
「いやね、本気にしちゃって。冗談に決まってるじゃない」
桃は、慌てだした。
「平田さん。勘弁してやってくれ。桃は、見ての通り天真爛漫でな。
悪気がなくても、言ってしまうんだよ」
「良いですね、夫婦円満で」
「みーちゃんと夫婦になりたいんでしょ?」
桃がにこりと微笑むと、守は目を見開いた。
『夫婦』という言葉に、守の鼓動は少しずつ高鳴っていく。
『夫婦になる』―そのことは今の今まで、守の頭にはなかった。
しかし桃の言葉で心が揺れ動くのは、戸田夫妻のような仲睦まじい夫婦になれたら、と
いう思いが自分の根本にあるからではないのか、と守は思った。
「平田さんの料理には、愛が込められているのよ。みーちゃんの愛が、たーくさんね」
「えっ?みーちゃんの愛が、たっぷり…?」
「自分から志願したんだぞ。平田さんの料理を作りたいって」
「みーちゃんが、自分から進んで…?」
守はごくりと唾を呑んだ。
自分とは距離を取っていたはずの美優が、自ら進んで行動するだなんて。
しかもその行動が、自分お料理を作るということに直結していたなんて。
守は嬉しさのあまり、泣きそうになった。
「いつからですか?みーちゃんが作り始めたのは」
「三週間…いや、二週間くらい前かな?」
春彦が顎に手を当てて言った。
すると守が、がんとカウンターのテーブルに頭を打ち付けた。
「だ、大丈夫…?」
桃が慌てて駆け寄った。守は、大丈夫ですと言ってゆっくりと顔を上げた。
「今まで気づかなかったとか、ショック…。すごい、罪悪感」
項垂れる守に、春彦が尋ねた。
「で、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」
「え?」
「ここに辿り着いた、経緯をさ」
春彦はぐるりと店内を見渡しながら言った。