第九十五話 前世
見るも恐ろしい鬼が居た。
男を殺し、女を浚い、子供を喰らう悪鬼。
鬼とは災厄の化身。
落雷や洪水、火災に等しい存在だった。
幾つもの村を滅ぼし、そこに住まう人間の悉くを凍結した。
『―――ッ』
鬼は咆哮する。
殺意と憤怒の声を上げながら、人々を殺し尽くした。
食欲を満たす為ではない。闘争心を満たす為ではない。
コレはただの殺戮だった。
殺した人間の肉を喰らうこともなく、ただ殺し続けた。
家畜に対して本気の殺意を持つ者は居ない。
この鬼もそうだった。
かつて彼が人間に向けていた感情は侮蔑、嘲笑、食欲、それだけだった。
しかし、彼は復讐鬼となった。
誰一人として、人間の生存を許せない程の憎悪に支配されたのだ。
(コレ、は…?)
恐ろしい悪鬼が人々を殺す地獄のような風景の中に、鈴鹿は立っていた。
あまりにも場違いで、現実感が無い。
鬼達もまるで鈴鹿の姿が見えていないかのように、見向きもしなかった。
『悪路王! 悪路王!』
鬼達がその白魔の名を讃える。
彼は強大だった。
その力は人類全てを相手にしても、尚劣ることは無かった。
だが、場面が移り変わる。
風景が歪み、新たに現れたのは、その白魔の最期だった。
『…無念だ。この我が…貴様なんぞに』
白魔は憎々しく自身を貫いた女を睨む。
眩い名刀を握った女は、凛とした表情でその憎悪を受け止めた。
『アイツの仇を討つことも出来ず………嗚呼、無念也』
『ッ』
その言葉を聞き、女は表情を変えた。
怒りではない。安堵ではない。
それは…
(涙…?)
女の目から涙が零れ落ちる。
唇を噛み締め、悲痛な表情を浮かべていた。
鬼を滅ぼし、人々を救った英雄だと言うのに。
まるで、この結末を誰よりも後悔しているかのように。
(!)
鈴鹿は思わず息を呑んだ。
後悔と共に上げたその女の顔は、
(私…?)
鈴鹿に瓜二つだったからだ。
「ん…」
小さく呻き、鈴鹿は重い瞼を開く。
体が鈍い。一体何日眠り続けていたのだろうか。
すぐに治療を担当していた天文道が事情を説明してくれた。
鈴鹿は紅鏡にて千代を庇い、重傷を負って今まで意識を失っていたのだ。
その戦いで千代は命を落とし、事態を重く見た帝は鈴鹿山へ討伐隊を送った。
信乃、頼光、蝦夷はそれに参加していたと。
「三人は、無事なのですか?」
「…あれから三日が経ちますが、頼光殿、蝦夷殿は、共に帰還しておりません」
「ッ…」
それは、遠回しに二人の死を告げていた。
鈴鹿の顔が悲しみに歪む。
「信乃殿は、辛うじて都に帰還されましたが、そのまま倒れて意識不明です」
「………」
意識を失う直前の信乃の話によると、果心居士と橋姫は倒したが、蝦夷は命を落としたと。
そして何より、蝦夷を殺した相手は、鬼に変生した道雪であると。
その情報を聞いた時、都は絶望に包まれた。
よりによって、かつて都を護った英雄が鬼となったのだ。
英雄に対する敬愛の念は、そのまま恐怖へ変わる。
鬼が二体倒された事実を伝えられても、喜ぶ者は誰一人居なかった。
「…信乃さん」
鈴鹿は眠り続ける信乃の下を訪れていた。
立場が逆になってしまった。
頼光の安否が分からない以上、信乃はもう唯一の戦力だ。
帝も全ての手を尽くしているが、信乃は未だ目覚めない。
傷は既に癒えている筈だが、精神が戻らない。
まるで、信乃自身が目覚めることを拒否しているかのように。
雨が、降っていた。
もう何度目かになる、何もない広い空間。
「…村雨丸」
生命が感じられない世界に二人、姿が在った。
瓜二つの形。
片方は人間で、片方は人外。
信乃は自分と全く同じ姿をした男を睨んでいた。
『そう睨むな。まずは感謝してもらいたい物だな』
「感謝だと?」
『我が内側から傷口を塞がねば、貴様は失血死していた所だ』
村雨丸は相変わらず尊大な態度でそう告げた。
『貴様の人生には関わらないつもりだったが、約定がある。護らねばな』
「約定…」
『まあ、座れ』
パチン、と村雨丸が指を鳴らすと椅子が出現した。
同時に振り続ける雨を防ぐような屋根も具現化される。
全て氷作りの為に寒々しいが、ずっと雨に打たれているよりはマシだった。
『飲み物でも飲むか? と言っても水と氷しか用意できないがな』
「要らん。それより約定と言うのは、お前が全ての疑問に答えるって話か?」
『そうだ』
村雨丸は出現させた氷水を飲みながら笑みを浮かべる。
『見事な物だった。貴様は復讐を果たした、と言う訳だな。気分はどうだ?』
「………」
『鬼とは言え、家族。家族とは言え、鬼。今の貴様を支配する感情は? 喜びか? 悲しみか? それとも不条理に対する怒りか?』
「…質問に答えるのは、お前の方だった筈だが?」
『おお、そうだったな。すまん、ついな』
苦笑しつつ、村雨丸は謝罪を口にした。
その赤い眼で興味深そうに信乃を見つめる。
『貴様は泣いていただろう。涙。人間の持つ感情の中で、唯一我には分からぬ感情だ』
「何?」
『我は知りたいのだ。涙の意味を、あの涙の理由を』
少しだけ悲し気に村雨丸は笑った。
それはどこか、自虐を含んでおり、哀愁を漂わせた。
「…お前は、何だ? 本当は誰なんだ?」
『そうだな、先ずはその問いに答えよう』
村雨丸は笑みを浮かべたまま、大袈裟に両腕を広げた。
自身の正体を、本当の名前を告げた。
『我が真名は悪路。かつては悪路王と呼ばれた鬼であり、貴様の『前世』である』




