第九十三話 絶望
蝦夷、とは本来個人を差す言葉ではない。
都から遠く離れた地方の民族。
帝に忠誠を誓わないまつろわぬ民。
彼らを総称して『蝦夷』若しくは『蝦夷』と呼ばれる。
『………』
では、何故『彼』は蝦夷と呼ばれているのか。
その理由は『彼』がそれ以外に名前らしい物を持たないからだ。
『彼』は山で生まれ、動物に育てられた。
『彼』が自分と言う物を知覚した頃には、既に山へ捨てられていたのだ。
もし『彼』が天性の他心を持ち、生まれつき動物と言葉を交わすことが出来なければ、恐らくとうの昔に餓死していただろう。
『………』
『彼』には何も無かった。
名前も家族も家も知恵も言葉も、何一つ持っていなかった。
無知な内は、それでも幸せだった。
自分を一匹の獣だと考え、動物に囲まれて生きてきた。
だが、段々と違和感を覚え始めた。
ここは自分の居場所ではない、と孤独感を感じた。
だから『彼』は山を下りた。
人の中で生きたかったから。
『………』
直毘衆、と言う存在の話を聞いた。
鬼から人々を護る英雄らしい。
英雄、と言う言葉の意味はよく分からなかったが、どうやら皆に好かれている存在のようだ。
それは良いな、と『彼』は思った。
自分も直毘衆とやらになれば、人に好かれるだろうか?
友達が、家族が、出来るだろうか?
幸い、腕っ節には自信があったから『彼』は迷わず都へ向かった。
そこで妖刀を手にして、直毘衆になって、
そして…
「ッ…!」
ギィン、と金属同士がぶつかり合う音が響き渡る。
刃を交えているのは、道雪と頼光だ。
神掛かった剣技を見せる道雪に対し、頼光は必死に追いすがる。
「『紫電清霜』」
道雪の刃が太陽を反射して煌めく。
ほぼ同時に放たれた七つの斬撃。
常人なら反応すら出来ずに切り刻まれる七閃。
「…シッ!」
しかし、それを受ける頼光は常人ではない。
頼光は直毘衆最強だ。
それは単に、強力な妖刀を持っているからではない。
妖刀に頼らずとも、鬼を斬り伏せる技量もまた、彼の強さだ。
「ほう…」
七つの斬撃を受け切った頼光に道雪から感心したような声が零れる。
「腕を上げたようだな、頼光。それに妖刀も使いこなしているようじゃないか」
本来なら雷を纏う雷切と打ち合うことなど不可能だ。
それを可能とするのは、頼光の妖刀のみ。
彼の童子切の能力は、妖力を喰らうこと。
刃と刃が触れ合う度に、童子切は雷切の纏う雷を消し去った。
「だが、それだけだ」
道雪は冷淡にそう呟く。
直毘衆最強。それが何だ。
都攻めの生き残り。それが何だ。
「この程度の実力で儂を倒すなど、侮辱された物だ」
「くッ…」
頼光が苦悶の声を上げる。
刀から感じられる圧が増した。
道雪の刀を受ける度に、腕が痺れ、刀が軋む。
それに加え、段々と刀を振るう速度も増している。
今のままでもギリギリの状態だったのに、まだまだ底が見えない。
「…侮辱など、していませんよ。僕は、あなたを尊敬している」
「…?」
「だからこそ、あなたには勝てないと理解している」
苦し気な表情を浮かべながら、頼光は道雪の目を見た。
「僕一人では」
「『銀竹』」
頼光の声に被せるように、信乃の声が響いた。
それを合図に頼光はその場から飛び退く。
「何…」
直後、道雪の足下から無数の氷柱が飛び出した。
(いつの間に………いや、最初からか)
次々と伸びる氷柱を全て回避しながら、道雪は理解する。
誘い込まれたのだ。
追い詰めているように見せかけ、信乃が罠を張っていた場所に誘導された。
(氷の罠…か)
氷柱は無尽蔵に生み出せる訳ではない。
予め、水を散らした場所からしかこの氷の刃は形成できない。
瞬時に水の無い場所を見抜き、一息に跳躍する。
「金鬼!」
「!」
そこへ怪力無双の金鬼が姿を現した。
罠は二重だった。
わざと氷柱の罠に隙を作り、霧で姿を隠した金鬼の待ち構える本命へ誘導した。
流石の道雪も、空中では鬼の一撃を躱せない。
「行け!」
「―――ッ!」
金鬼が唸り声を上げる。
両手を組み、全身の筋力を込めて道雪を叩き潰す。
「『霹靂神』」
その瞬間、眩い光が道雪の全身から放たれた。
遅れて雷鳴が轟く。
まるで、道雪自身に天から雷が落ちたかのような衝撃。
目の前に居た金鬼は、振り上げた両腕だけを残して、粉々に焼失した。
「チッ、やっぱり防がれたか。まあ、そう上手くはいかねえよな!」
「大丈夫。金鬼は僕の妖力が続く限り、また生み出せる。次の手だ」
半ば予想していた結果に、信乃と頼光の士気は下がらない。
むしろ、新たな技の威力と効果範囲を確認できただけ、前進したと思っていた。
「………」
道雪は無言で信乃と頼光へ顔を向ける。
(一人、足りんな)
今の作戦、この二人だけは不可能だった。
道雪の動きを予測し、罠に嵌めるには、あの二人だけでは不十分だ。
「お前か。儂の思考を読み取っていたのは」
道雪は顔を二人から少し離れた所にいる男に向けた。
「…どうやら、こちらの作戦を見破られたみたいだぞ」
蝦夷は悪戯がバレた子供のような顔で言った。
「お前が儂の思考を『他心』で読み、それを頼光が『天耳』でもう一人にも伝えていたのだな」
それは言葉一つ交わさない連携。
道雪の思考を読んだ蝦夷の思考を、頼光が読む。
それを更に信乃にも伝えることで、三人の連携を高める。
結果的に、三人は道雪の思考を完全に読み取り、互いに無駄なく動ける。
数が増えることで全体の実力が落ちてしまう例もあるが、コレは純粋な加算だ。
三明の術。
『他心』『天耳』『神足』のそれぞれの達人が一塊になって戦えば、それは道雪にさえ迫る。
「全部バレたか。だが、こっちも一つ分かったことがあるぜ?」
「何だ?」
「アンタ、三明を失っているだろう?」
蝦夷は道雪の顔を見つめながら、確信を以て告げた。
信乃と頼光も揃って道雪を見る。
「他心を使えば一瞬で分かるような作戦に嵌まったのが証拠だ」
当然ながら道雪も三明は使えた。
少なくとも、生前は。
しかし、一度死んだことが原因か、鬼になったことが原因か、現在は使うことが出来なくなっていた。
他人の心を読む他心が使えないばかりか、天耳を開けないので頼光の天耳を傍受することも出来ない。
「沈黙は肯定と受け取るぞ。元英雄!」
蝦夷は不敵な笑みを浮かべて信乃を一瞥した。
恐らく、何らの指示を出したのだろうが、道雪には分からない。
直毘衆なら誰でも使える技が使用できないから。
まるで、直毘衆から離反した事実を物語るかのように。
「水鬼!」
頼光の指示と共に、水鬼が洪水を呼ぶ。
「『稲妻』」
雷を纏った妖刀が振るわれ、放たれた斬撃が濁流ごと水鬼を両断する。
その余波が頼光を襲い、皮膚を焼き焦がす。
「ぐう…! まだ…!」
体が麻痺し、動きが鈍った隙を突こうと道雪は刀を頼光へ向ける。
「はっはー! 足下が隙だらけだ!『暗紅』」
「チッ」
耳障りな笑い声と合わせ、道雪の足下が隆起する。
飛び出すのは氷柱ではなく、一本の刃。
地面を潜り進んできた、蝦夷の蜘蛛切だった。
瞬時に反応し、道雪はそれを刀で弾く。
(…待て。何故叫んだ?)
不意打ちをするのに、蝦夷が大声を上げたのは何故か。
道雪の意識を別の場所へ向けさせ、体勢を崩す為。
即ち、コレは囮。
本命を成功させる為の布石。
「『天泣』」
凍り付くような冷たい声と共に、信乃の体が消える。
神足を超え、神速の域に到達した縮地。
それにより放たれる突きは、正に必殺の一撃。
(道雪の意識は完全に信乃へ向いていない! いける…!)
道雪の思考を読み取りながら、蝦夷は拳を握った。
止めの一撃を譲ると言う普段の蝦夷なら絶対に行わない行為。
だが、どう言う訳か、そんなに悪い気分では無かった。
競い合うのでは無く、利用し合うのでも無く、協力し合うことに楽しさを感じる。
他人などどうでも良かった筈だったが、今この瞬間は充実感を感じていた。
三人で力を合わせれば、あの恐ろしい英雄の成れの果てにも届く。
そう信じて…
「『神速・鬼出電入』」
しかし、信乃の刃が届くことは無かった。
刃が触れる直前、道雪の体が消えたのだ。
信乃ですら反応出来ない速度。
縮地をも超える雷速。
「ッ!」
信乃の刃が空を切る。
どれだけ実力を得ても、信乃の力は人の技。
人の身で雷よりも速く動ける筈も無い。
「頼光…」
咄嗟に視線を向けた先で、鮮血が舞う。
そこに在ったのは、紫電と共に背後に現れた道雪に頼光が斬られた姿だった。
「コレで詰みだ」
道雪は淡々と告げる。
この連携は頼光の補佐があって初めて成立する。
蝦夷と信乃だけでは、呼吸を合わせることが出来ない。
「まだ…!」
「『紫電一閃』」
声を張り上げる信乃へ、道雪の刀が振るわれる。
風の刃は信乃を体を切り裂き、傷口から血が噴き出す。
辛うじて、両断されることは避けたが、それだけだ。
戦闘不能であることに変わりはない。
「ぐ、くそっ…! 化物、め…!」
「それは違う。儂は強いのではない」
苦し気に叫ぶ信乃へ平然と道雪は告げる。
「儂以外の人間が弱いのだ。度し難い程にな」
道雪は刀を振り上げる。
止めを下すべく。
「この程度のことが何故出来ない? この程度のことが何故分からない? 生前はお前達と足並みを揃えることに最も苦労した程だ」
刀が動き、道雪の背に浮かぶ太鼓を叩く。
それは雷鳴を呼ぶ雷神の神器。
命を終わらせる災厄の一撃。
「さらばだ。弱き人間よ」




