第九話 鬼切
「あああああああああぁぁぁぁー!」
風のように町中を駆ける信乃に手を引かれ、鈴鹿の口から悲鳴が漏れる。
「速い速い速いー!? ししし、信乃さーん! も、もう少し速度を落としてー!?」
「………」
「さっきから私の足、地面についてないからー! こいのぼりみたいになってるからー! あああああぁぁぁー!」
空中に涙の軌跡を描きながら、鈴鹿は必死に叫ぶ。
もう速すぎて、鈴鹿の身体は殆ど地面と平行になっている。
両手を使って必死に信乃の腕へしがみ付いているが、万が一離れたら多分死ぬ。
そんな恐怖と戦いながら、何度も鈴鹿は信乃の説得を試みた。
「跳ぶぞ」
「え゛」
不穏な言葉に鈴鹿の顔が引き攣った時、鈴鹿は空を飛んだ。
ドン、と地面を強く蹴った信乃の身体は空高く舞い上がり、腕にしがみ付いていた鈴鹿の身体も共に空を舞った。
(…嗚呼、お日様が近い)
思わず意識を手放しそうになったが、生命の危機を感じて何とか耐えた。
最早、悲鳴すら上げずに涙目で後ろを向く。
追ってきている者は誰もいない。
どうやら、殺人の冤罪を避けることには成功したようだった。
「………」
どんな妖術を使ったのか、羽根のようにふわりと大地に降り立つ信乃。
同時に鈴鹿の身体も、やや荒っぽく地面に落とされた。
「あぁぁぁ…い、生きているよぉー…」
地に足がついていることにさめざめと涙を流して歓喜する鈴鹿。
全く、酷い目に遭った。
風に吹かれた洗濯物のように物理的に振り回され、自慢の巫女服も乱れに乱れている。
「ちょっと信乃さん…! 逃げる時に置いていかなかったのは嬉しいですが! もう少し私のことを考えてくれても…」
乱れた服を直しながら、鈴鹿は怒ったように眉を吊り上げる。
鬼から助けて貰った身だが、これくらいは不満を言っても良い筈だ。
そう思い、先程から喋らない信乃を睨み………そして顔を青褪めた。
「…あ、あの、信乃さん? 何で、抜刀しているのですか?」
「………」
信乃は答えない。
無言のまま、ただ抜き身の刀を握り締めている。
滅茶苦茶怖い。
「え、えーと、怒ってます?………ご、ごめんなさ」
「畜生がァァァァァ!?」
「きゃああああああああ!」
叫び声を上げながら信乃は刀を振り下ろした。
スパァン、と小気味いい音と共に近くにあった竹が真っ二つになる。
「やっと! やっと本物の鬼を見つけたのに! この手で、追い詰めたのに! 畜生がァ!」
悔し気に顔を歪め、憂さ晴らしのように次々と刀を振るう信乃。
その度に竹が一本一本切断されていく。
呆れるほどに見事な腕だった。
「あ、あの。それ、人様の家の物だから、あんまり斬らない方が…」
「何故油断した! 俺としたことが! 今日が晴天じゃなければ初撃で両断してやったのによォ! 太陽のバカヤロー!」
遂には太陽まで罵倒し始めた。
相当頭にきているらしく、鈴鹿の言葉が全く聞こえていない。
竹と間違えて叩き斬られないだろうか、と鈴鹿は不安になった。
「ぜえ…ぜえ…ぜえ…」
「大丈夫ですか?」
「…おうよ。少々取り乱したな」
(少々どころじゃないと思うけど)
思ったことは口に出さず、鈴鹿はやっと落ち着いた信乃を見る。
信乃が落ち着くまでに、周囲の竹林はすっかり綺麗になってしまった。
「…そう言えば、信乃さんって直毘衆だったのですね」
ポン、と手を叩きながら鈴鹿は思い出したように言う。
都を訪れたことが無い鈴鹿でも、その名前くらいは知っている。
都を護る帝直属の怪異狩り。
鬼切の達人だ。
それが何故都を離れているのかは知らないが、言われてみれば納得する部分も多い。
「鬼と戦うことに慣れていたのは、今まで何度も鬼から人を護ってきたからだったんですね!」
少しだけ嬉しそうに笑みを浮かべながら、鈴鹿は言った。
十年前に都を鬼から護り抜いた直毘衆は大衆の英雄だ。
神職に携わる者として、怪異から人を護る直毘衆には憧れていた。
自分にも彼らのような力があれば、と思っていた。
「…は」
キラキラと敬愛の眼を向ける鈴鹿を見て、信乃は失笑を浮かべる。
現実を知らない子供を見るように、濁った眼で鈴鹿を見下ろした。
「この俺が、皆から感謝される英雄にでも見えたか?」
「それはもう…」
「本当か?」
「ッ…」
濁り切った目に睨まれ、鈴鹿は息をのむ。
何を勘違いしている、とその目が語っていた。
そう、勘違いしていた。
あの雨の日、信乃に胡蝶を斬られた鈴鹿は感謝などしなかった。
憤怒、憎悪、悲愴、抱いたのは負の感情だけ。
信乃を人殺しだと、憎んだだけだ。
「あの女もそうだったろう? 鬼を斬ろうとする俺を見て、人殺しと罵った! 全く、俺のどこを見ればそんなことするように見えるのか! かはははは!」
謂れのない冤罪。
助けた筈の相手からの罵倒。
それを受けながらも、信乃は愉快そうに笑った。
「…どうして」
「あん?」
「どうして、直毘衆だと名乗らないのですか? 殺したのは鬼だと、説明しないのですか!」
声を荒げながら鈴鹿は言う。
こんなことは間違っている。
人を護る為に鬼を殺しているのに、その人から憎まれるなど。
「隠している理由は知らねえよ。俺は馬鹿だからな。まあ、鬼が人の中に紛れていると広まったら、面倒なことになるんじゃねえのか?」
「面倒?」
「疑心暗鬼って言うだろ? 鬼は、人の心にも存在するんだぜ?」
鬼が人に化けることが出来ると知れば、人々は隣人を疑い始めるだろう。
些細なことから疑心に陥り、人間同士で殺し合うかも知れない。
だから、直毘衆は、帝はその事実を隠している。
この国の秩序を崩壊させない為に。
「だからって…!」
「それにな。例え、本当のことを知ったとしても何も変わらねえ」
信乃は口元に笑みを浮かべながらも、冷めた目で鈴鹿を見つめた。
「そいつは鬼だ。いずれ人を喰う怪物だ。そう言われて、友人を。恋人を。家族を。差し出せと言われてお前は差し出すのか?」
「それ、は…」
「差し出さねえよ。人間ってやつはな、楽観主義で生きてやがるんだ。自分だけは特別だと思ってる。自分の友人だけは、大丈夫だって信じている」
鈴鹿はその言葉を、否定できなかった。
鬼と分かっても、多くの人を喰った化物だと知っても、胡蝶を信じてしまった鈴鹿には。
「腕を千切られ、足を砕かれ、その喉笛に喰らい付かれた時に、初めて思い知るのさ。自分が友と呼んでいた者は、どうしようもない化物だったってことを」
だから信乃は理解を求めない。
正義を語るつもりもない。
人殺しと呼ばれようと、狂人と蔑まれようと、
一切躊躇することなく鬼を殺すのだ。
「夢を壊しちまったか? 人知れず、人の世に紛れた鬼を殺す暗殺者集団。それが直毘衆の正体だ」
大衆に伝わる英雄像とは程遠い。
帝直属の汚れ役に過ぎない。
「…それでは、あなたは何の為に直毘衆に?」
「は。知れたこと、自分の為よ………鬼が憎いから殺したい、ただそれだけだ」
帝の為ではない。民衆の為でもない。
あくまで自分の為。
迷うことなく、信乃はそう答えた。
「そう、ですか」
「ああ」
「…では、その、一つお願いがあります」
鈴鹿は恐る恐る顔を上げ、信乃の顔を見つめた。
「私を、あなたの弟子にして下さい」
「……………はぁ?」
意味が分からず、信乃は首を傾げた。