第八十七話 極楽
「消えた…? おい、消えちまったぞ!」
何も居ない空間を指差し、蝦夷が叫んだ。
ほんの数秒前まで、そこには信乃が居た。
橋姫が霊鬼を解放した瞬間、その姿は空間に溶けるように消えてしまったのだ。
「あの鬼も居ねえし、妖術の類か?」
「霊鬼六道はそれぞれ固有の能力を持つ。きっとコレが彼女の能力なのだろう」
跡形もなく消し飛ばした、と言う訳では無さそうだ。
見た所、橋姫は肉弾戦を得意とするようには思えなかった。
恐らく、結界や封印の類。
位置的にはこの場所だが、少しだけズレた空間に引き摺り込まれたのだろう。
「結界を外から破るのは難しいが、妖刀なら斬れる筈だ」
妖刀とは、人ならざる物を斬る刀。
特に頼光の持つ童子切は妖力を断つことに長けている。
場所さえ分かっていれば、見えない結界だろうと切り捨てる。
「野暮は駄目ですよ」
妖刀を抜き放とうとした時、それを遮る声が聞こえた。
「ほら、よく言うでしょう? 人の恋路を邪魔する奴は馬に…ってやつ」
「果心居士…!」
悪辣に歪んだ笑みを浮かべる果心居士を見て、頼光は刀を握り締めた。
「あの二人はですね。今、感動の再会を果たしているのですよ。邪魔をするのは無粋と言う物」
「…何を言っている?」
「あれ? もしかしてご存知ない? 仲が良さそうに見えましたが、見えただけでしたか」
訝し気な顔をする頼光を嘲笑う果心居士。
どれだけ多くの言葉を交わそうと、人の心などそんな物。
本当に弱い部分だけは、決して他人に見せようとしない。
「橋姫さんは信乃さんの故郷を滅ぼした仇。そして同時に、彼の姉でもあるのですよ」
「な、に…」
「あはははは! 自分を庇って死んだ姉が! 鬼となって再び己の前に現れる! 何たる悲劇! 何たる喜劇! 二人きりになってあの二人は、どんな会話をしているのでしょうね!」
果心居士は嗤う。
勿論、コレは偶然などではない。
七年前にむつきを鬼に変えたのは、他ならぬ果心居士である。
信乃があの時の少年であることを思い出し、橋姫となったむつきを嗾けたのもこの男である。
全て己の快楽故に。
人間への憎悪故に。
「君が司る道は、何だったか」
「修羅道だ。我は、人の苦痛を至上の喜びとする修羅也!」
「そうかい…」
頼光は表情の無い顔で、刀を抜き放つ。
血のように禍々しい刀身を果心居士へ向けた。
「修羅道すら君には分不相応だ。黄泉路に惑え、この外道が!」
頼光が刀を振るうと同時に、剣先から赤い血のような雫が放たれる。
それは大地に染み込み、そこから盛り上がった土塊が鬼の形を作った。
「『式鬼招来』」
生み出される鬼は、四体。
全てが筋骨隆々の肉体を持ち、顔を隠すように大きな布が被せられている。
布に刻まれた文字は『金』『風』『水』『隠形』の四つ。
四体の鬼は、まるで人形のように無言で布を被った顔を果心居士へ向けている。
「ふ、ははははは! 中々強力な鬼を従えているじゃないですか! ですが、こちらも負けませんよ!」
そう言って果心居士は合図を出す。
すると、木々の裏から金剛が現れた。
千代を殺した金剛杵を握り、頼光達へ向けている。
「さあさあ! どちらの鬼が強いか力比べと…」
「俺を抜きで盛り上がっているんじゃねえぞ、コラァ!」
「む…!」
意気揚々と金剛に指示を出そうとした果心居士の顔に、不可視の刃が迫った。
咄嗟に身を屈めて果心居士はそれを躱す。
「蝦夷…」
「一人で戦ってんじゃねえよ、頼光! 鬼をぶっ殺してえのはアンタだけじゃねえんだからよォ!」
「そうだ! アイツに続け!」
「何の為にここに来たんだ! 鬼は目の前だぞ!」
蝦夷に触発されてか、橋姫の術に動揺していた他の直毘衆達もそれぞれの得物を振り上げる。
ここに居るのは頼光だけではない。
鬼を倒しに来たのは頼光だけではない。
彼らは全て、鬼と戦う為に妖刀を手にした者達なのだから。
「あーあー、人間はこう言う所がウザいんですよねぇ。弱いくせに、群れれば強くなったと勘違いする」
心底不快そうに吐き捨て、果心居士は蔑んだ目を彼らに向ける。
「人の身の脆弱さを。この世の理不尽を。思い出させてやれ、金剛!」
「御意」
人と鬼の戦争が始まった。
「…ここは」
信乃は見たことも無い空間で、一人呟く。
地の果てまで広がる透き通った水。
無数の蓮の花が浮かぶ水面に、信乃は立っていた。
歩く度に水面が波打つが、不思議なことに水の中に沈むことは無い。
浄土や極楽と言う言葉が相応しい、穏やかな世界だった。
「結界か。こう言うのは外からは硬いが、内からの攻撃には脆い筈…」
言いながら刀を振るおうとした時、刀が破裂した。
「…は?」
その光景に目を疑う信乃を余所に、村雨は無数の花びらとなって水面に落ちる。
信乃が握っていた柄も、麦の粒のような物に変わって散った。
「何だってんだ、一体…」
コレは本当に現実か?
頭に一撃受けて気絶しているって言った方がまだ信じられる。
「この世界には争いが存在しないんだよ」
突然、背後から声が聞こえた。
触れ合うような距離に、橋姫が居る。
「だからそんな物はもう必要ない。必要ない物は、溶けて消える」
ここは橋姫の世界だ。
故に橋姫が望まない物は存在出来ない。
争いの道具は要らない。
他者を傷つける道具は要らない。
ここには平穏しかない。
「実はね。この能力使うの、初めてなんだ」
「………」
「無明長夜・愛染奈落。ここには、私と私が望む者しか入れない。そして、そんな人は今まで一人も居なかったんだ」
下手すれば酒吞童子や果心居士すら上回る無敵の能力だが、その性質故に使用されなかった。
コレは敵を殺す力ではない。
愛する者と二人きりで、永遠に奈落へ沈んでいく力だ。
「だから、ここへ来たのは信乃が初めてなんだ」
「………」
熱に浮かされたように語る橋姫に、信乃は答えない。
言葉は無く、表情も無い。
それは武器を失ったからではない。
この世界では、橋姫を殺すことが出来ないからだ。
橋姫の望まない物は存在できない。
攻撃すると言う意思を持つことすら、橋姫は望まないだろう。
「………」
意識が溶ける。
信乃はこの世界に連れて来られた。
それは橋姫に望まれた存在であると言うこと。
望む形にその肉を、魂を、歪められると言うこと。
「ねえ、外の世界なんてもうどうでもいいじゃん」
「………」
「ここで永遠に暮らそうよ。何十年も、何百年も、二人きりで」




