第六話 妖刀
「その刀…」
胡蝶は距離を取ったまま、警戒した目で信乃の刀を睨む。
藍色の柄。刀身は発露し、霧を纏っている美しい刀だ。
「ただの刀じゃない…『妖刀』ね」
「ああ、妖刀『村雨』って言うんだ」
特に隠す気も無く、むしろ自慢するように信乃は刀を翳した。
妖刀。
人ならざる妖怪、怪異、魔性。
そのような物を斬り続けた結果、穢れを浴びて妖力を得た刀のことだ。
真っ当な人間には決して使いこなせず、所持しているだけで呪われると言われる。
「生憎、俺は呪術だの祈祷だのには縁が無くてな。コイツに頼らねえと、鬼を殺せない」
「………」
「つー訳でもう殺すぞ。良いな?」
返事を待たず、信乃は地面を蹴った。
音を置き去りにして信乃の姿が消え、胡蝶へと迫る。
反応出来ない胡蝶の顔面を両断するように村雨を振り下ろした。
『せっかちな男はモテないわよ?』
真っ二つになった胡蝶の顔が空気に溶けるように消えていく。
それを見て、信乃は大きく舌打ちをした。
「胡蝶が、消えて…」
「コレは抜け殻だ。本体はまた、地面に潜りやがっ…」
「し、信乃さん! 後ろ!」
「あん?」
慌てて叫ぶ鈴鹿の声に、背後を振り返る信乃。
「ふふふ…」
振り返った信乃の前から覆い被さるように、胡蝶は抱き着いた。
両手を使って刀を握る信乃の右腕を包み込む。
「つ・か・ま・え・た! どれだけ優れた刀を持っていても、振るえなければ無意味よねー?」
勝ち誇る様に胡蝶は顔を近づけて笑みを浮かべる。
体格的には大差ない二人だが、胡蝶は鬼だ。
その筋力は見た目通りではなく、両腕を使えば信乃の腕をもぎ取ることさえ容易い。
ミシミシと骨が軋む音が右腕から響いた。
「『霧雨』」
信乃はそれでも顔色一つ変えず、そう呟く。
瞬間、村雨の纏う霧が濃くなった。
それは信乃だけでなく、近くにいた胡蝶も飲み込む。
「目晦ましのつもりー? 残念だけど、目に霧が入ったくらいで怯んだり…ッ!?」
信乃の小細工を馬鹿にするように笑っていた胡蝶の顔面に、信乃の爪先が突き刺さった。
霧で狭まった視界の向こうから蹴りを放ち、強引に胡蝶を引き剥がしたのだ。
「お、女の顔に躊躇なく蹴りを…!」
「かはは! 知らなかったのか? 俺は女嫌いなんだよ!」
顔面を抑えてふらつく胡蝶を嗤いながら、刀を地面に突き立てる信乃。
「その身で受けろ! 『銀竹』」
「ッ!」
パキパキと言う異音に気付いた時には遅かった。
水が溜まった地面から伸びる白銀の竹。
その正体は、重力に逆らって生える氷柱だった。
「あ…ああああああああ!」
氷柱の山に全身を串刺しにされた胡蝶が絶叫する。
まるで、地獄で罰を受ける罪人のような光景。
本来なら即死だが、鬼として強靭過ぎる肉体が死を許さない。
全身の痛みに呻きながらも、死ぬことが出来ない。
「妖力で生み出された氷は物理的に破壊しない限り、永遠に溶けない。このままの状態で罰を受け続けるのも一興か? かはははは!」
「ひ…」
止めを刺されず、永遠に嬲られ続ける。
そんな未来を想像し、胡蝶の顔が恐怖で引き攣った。
今まで大勢の人間を殺してきた胡蝶が、赤子のようだった。
この男には勝てない。
絶望と共に、胡蝶はそれを理解した。
「た、助けて…お願い。殺さないで…」
「………」
涙ながらに命乞いを受けても信乃は表情を変えない。
最早、鬼を嬲る嘲笑すら浮かんでいない。
今にも死にそうな虫けらを見るような、冷めた目をしている。
「鈴鹿…鈴鹿! 助けて、私を、見捨てないで…!」
「胡蝶…」
「これからは人を殺さないって約束する…! 人間らしく生きられるように努力する…! だから…」
「ッ…」
弱々しく懇願し続ける胡蝶の姿に、鈴鹿の心が悲鳴を上げる。
友達だったのだ。
唯一と言っても良い親友だったのだ。
鬼だと分かっても。
人殺しの怪物だと分かっても。
それでも…
「見逃してやりたい、なんて思ってねえよな?」
「…いけませんか?」
「は」
呆れたように鼻で笑い、信乃は地面に突き立てていた刀を抜いた。
すると、胡蝶を貫いていた氷柱が溶けて消える。
全身に風穴を空けた胡蝶の身体が力なく、地面に倒れた。
「胡蝶!」
血相を変えて駆け寄る鈴鹿。
血を流し過ぎたせいか、胡蝶は全く動かない。
鬼は人間に比べて強い生命力を持っていると聞いたが、それでも全身が穴だらけの姿は痛々しかった。
傍に駆け寄り、胡蝶を抱き起そうとする鈴鹿。
「…本当に、愛しているわよ。鈴鹿ぁ!」
「な…」
ガバッと起き上がった胡蝶が両腕を広げる。
鬼灯のように赤い眼は爛々と輝き、鈴鹿を見ていた。
その眼を見た瞬間に鈴鹿は理解した。
騙されたのだと。
涙ながらに訴えた胡蝶の言葉は、全て嘘だったのだと。
「ありがとうね! 私の為に、人質になってくれ……」
「死ね」
「…あ、れ…?」
パッと胡蝶の顔が真っ赤に染まった。
胡蝶を抱き起そうとしていた鈴鹿の頬を掠め、刀は胡蝶の額を貫いている。
「お、お前、初めから…見逃す気、なんて…」
「当然だろうが…『天泣』」
剣先から伝わる冷気が胡蝶の血肉を凍てつかせる。
骨も魂さえも凍り付き、氷像となった胡蝶が砕け散った。
「………」
パラパラと散るその欠片は、降り注ぐ雨に似て。
鈴鹿は呆然と、それを眺めていた。
「鬼とは災厄の火種だ」
険しい表情で信乃は呟く。
「それを見逃すことが、どれだけの悲劇を生むと思う? どれだけの後悔を生むと思う?」
その言葉は、鈴鹿を咎めると同時に自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「だから俺は殺す。例え何者であろうと、鬼は全て殺す」
阿修羅のような形相で、信乃はそう断言した。