第五話 鬼女
胡蝶は鬼である。
信乃は真剣な表情でそう告げた。
一体何を言っているのか、訳が分からなかった。
「そんな筈…!」
信じられない。
信じられる筈がない。
だって、胡蝶は友達だ。
一つの場所に留まらない鈴鹿にとって、数少ない友人の一人なのだ。
「お前はあの女の何を知っている?」
「何って…」
「家族は? 家は? 年齢は?」
指を一本ずつ折り曲げながら信乃は尋ねる。
「…ッ」
鈴鹿は答えられなかった。
家族の話も、住んでいる場所の話も、聞いたことが無かったからだ。
どうして、今まで気にならなかったのだろう。
「鬼は、必ずしも化物の姿をしているとは限らねえ」
信乃は埃被った机に腰掛けながら、そう呟く。
「鬼は『穢れ』から生まれる」
「………」
「穢れとは、人の持つ恨みや妬みなどの負の念。そいつは人間が死んだ時に身体から零れ落ちる」
無念を抱いて死んだ者なら尚更だ。
強い思いは、肉が腐り落ちた後も、呪いとなってその場に残り続ける。
「そんなことが何度も繰り返されれば、大地に染み付いた穢れは、やがて形を持つようになる」
一人分では霊とすら呼べない怨念。
それが幾つも積み重なり、存在を増すことで形を得る。
何人分もの無念と怨念が混ざり合った混濁した怨霊。
「それが『鬼』だ」
「鬼…」
「幾つもの念が溶け合った存在だからな。どんな姿をしていても不思議ではない。怪力の大男の姿でも、年若い女の姿でも」
「………」
もし仮に、本当に胡蝶が鬼だったとすれば。
その胡蝶を斬り殺した信乃は正しいのか?
いや、まだ胡蝶が本当に鬼だと決まった訳ではない。
信乃は根っからの殺人鬼で、ただ嘘をついて誤魔化している可能性もある。
「…胡蝶が鬼だと言う証拠はありません」
「それは今に分かる」
「何…?」
どう言う意味か、と問いかけようとした時、二人の間に風が吹いた。
そう、風だ。
ここは屋敷の中で、窓の障子は全て締め切っていると言うのに。
「な…え…?」
ずるり、と鈴鹿が地面に沈んだ。
まるで沼のように鈴鹿の身体が引き摺り込まれていく。
「チッ! そっちを狙ってきたか!」
瞬く間に姿を消した鈴鹿を見て、信乃は当てが外れたと舌打ちをする。
仕掛けてくるのは分かっていたが、真っ先に鈴鹿を狙うとは思わなかった。
苛立ちながら、鈴鹿が消えた所へ駆け寄る。
「…この術はあまり得意じゃねえんだが」
渋々と言った様子で瞼を閉じ、集中する信乃。
「『天耳』」
気が付くと鈴鹿は薄暗い空間に立っていた。
月明かりのようにぼんやりと明るいが、足元は殆ど見えない。
「鈴鹿」
「!」
闇の中から聞こえた声に鈴鹿は驚いて目を見開く。
聞き覚えのある女の声。
しかし、もう二度と聞くことは無いと思っていた声。
「こ、胡蝶? あなた、なの?」
「それ以外の誰に見える?」
子供っぽく笑いながら胡蝶は言った。
それは見慣れた光景だった。
何度も見た、胡蝶の笑顔だった。
「どうしたのー? そんな幽霊でも見るような顔をして」
「だ、だって、胡蝶は昨日斬られて…」
「私が? 夢でも見ていたんじゃないの?」
くすくすと笑う胡蝶はあまりにもいつも通りで、思わず鈴鹿の方が間違っているのではないかと思ってしまった程だった。
頭が混乱して考えが纏まらない。
そもそも、ここはどこなのだろう。
「それにしても、鈴鹿ったら意外と大胆なんだからー。私の家に勝手に入っちゃうなんて」
「ええ!? い、いや、コレはあの人が勝手に…!」
「まあ、鈴鹿だったら良いけどねー。そろそろ良い頃合いだと思ってたし」
そう言って胡蝶は笑みを浮かべた。
「………」
何故だろうか。
その笑みからは違和感を感じた。
確かに笑っているのだが、それは決して人に対して向ける類の物ではない。
例えるなら、そう…
「ねえ、鈴鹿」
美味しい御馳走を前にした子供のような。
「食事でもどうかしら?」
「ッ!」
得体の知れない悪寒を感じ、鈴鹿は胡蝶から離れた。
後退った足が、何かを踏み締める。
それは、小さな子供の頭蓋骨だった。
「まさか、本当に…!」
「ふふふ…」
胡蝶の姿が変化する。
額から二本の黒い角が生え、口には牙が生える。
眼は鬼灯のように赤く染まり、爛々と光っていた。
「察しの通り、私は鬼よ? 厳密には餓鬼って言うんだけど、分からないか」
得意げに説明する姿は普段と何一つ変わらない。
だからこそ、恐ろしかった。
むしろ、恐ろし気な見た目通り豹変してくれれば、まだ良かった。
いつも通り、普段通りだからこそ、この人物が本当に胡蝶なのだと理解してしまう。
「何で…」
「ん?」
「何で、ですか。友達だと、思ってたのに…!」
涙を零しながら鈴鹿が叫ぶ。
天涯孤独の鈴鹿にとって、掛け替えのない友達だった。
たまに困ったことを言うが、まるで姉のように慕っていた人物だった。
それなのに、胡蝶はそうではなかった。
最初から、ただの餌に過ぎなかったのだ。
「…私だって、友達だと思ってたわよ」
少しだけ声のトーンを落として、胡蝶は告げた。
「でもね、無理なの。愛しいと思えば思うほどに! 『飢え』は強くなる! 求めれば求めるほどに! 食べてしまいたくて堪らなくなるの! あは、あはははははは!」
鋭い牙を見せながら、胡蝶は嗤う。
好意と食欲が入り混じった感情。
鬼にとって、好意と殺意は矛盾しない。
胡蝶は食べたくなる程に、人が大好きなのだ。
だから殺した。
何人も、何十人も。
男を殺した。女を殺した。
大人を殺した。子供を殺した。
少しでも『良い』と思ったら、誰であろうと喰らった。
「だからお願い、鈴鹿」
恋に浮かされた女のように頬を赤らめ、胡蝶は怯える鈴鹿に告げる。
「私にあなたを食べさせて?」
無邪気な子供のように笑い、牙を覗かせながら胡蝶は言った。
逃げ場はない。
抵抗は出来ない。
既に鈴鹿は皿に乗せられた肉塊に過ぎない。
喰われるのを、待つだけだ。
「さあ。さあ! さあ! さあ!………ッ」
興奮して叫ぶ胡蝶の顔が、突然苦痛に歪んだ。
胡蝶の口から、血が零れる。
その胸から血に濡れた刃が飛び出していた。
「どうした? 後ろから攻められるのは初めてか? この阿婆擦れ」
背後から胡蝶を突き刺す男、信乃は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「お、前…! どうやって、この場所に…!」
「こんな低級の結界。この俺が入り込めねえと思ったか」
「くっ…!」
胡蝶は鈴鹿を結界に取り込んだ時のように地面に沈み込む。
それを睨みながら、信乃は刀を手に鈴鹿の近くに立つ。
「し、信乃さん! 胡蝶が、生きてて…! 鬼で! そ、それから…!」
「全部知っている。畜生が、昨日の内に止めを差していれば簡単に済んだ物を」
刀に着いた血を刀身から流れる水で流しながら、信乃は舌打ちをする。
「致命傷を負わせた程度で鬼は死なない。その身体を、再生出来ないくらい塵にしねえとな」
昨日の時点で胡蝶は死んでいなかった。
死んだふりをしてその場をやり過ごし、今日になって棺から蘇ってこの場に戻ってきたのだ。
「と言うことは、信乃さんがここへ来たのは…」
「最初からやり残した仕事を終える為だ」
殺し損ねた胡蝶に止めを刺す為。
鬼をこの手で殺す。
信乃の目的は最初からそれだけだ。
「さて、鬼退治の時間だ。どこからでもかかってきやがれ!」