第四話 名前
「………」
鈴鹿は先を歩く男の後ろ姿を睨んでいた。
路地裏のやり取りで、言葉が通じる人間であることは理解した。
しかし、それでも彼が胡蝶を斬り殺した殺人鬼であることに違いはない。
襲い掛かった所で返り討ちに遭うのは分かっている為、素直に従っているだけで、未だ鈴鹿は男のことを一切信用していなかった。
「あの、あなたは…」
「………信乃だ」
男は振り返らないまま、短く答えた。
「はい?」
「名前。俺のことは信乃と呼べ」
信乃。
それがこの殺人鬼の名前らしい。
(…外見だけでなく、名前まで女性のような)
口にすれば怒りそうなので、鈴鹿は心の中で呟く。
鬼と呼ばれて激怒した信乃の殺気を思い出し、少し震える。
「…それにしても、今日は最悪の天気だ」
「そう、ですか?」
鈴鹿は空を見上げる。
雲一つない青々とした空が広がっていた。
なのに、信乃はそれを見て苦い顔をしている。
「太陽は俺の敵だ。日差しが、辛い」
そう言って本気で辛そうに太陽を見上げる信乃。
心なしか、足元が若干ふらついていた。
「………」
何だか、ますます乙女みたいなことを言っている。
あまりにも呑気な言動に鈴鹿は毒気が抜かれてしまった。
「『殺し』をやるのは雨の日に限る。そうは思わないか?」
「ッ!」
突然振り返った信乃の言葉に、鈴鹿は脱力しかけていた気を引き締める。
そんな鈴鹿の態度が滑稽だったのか、信乃は口元を愉悦に歪めた。
「かはは! そんなに怯えるなよ。晴れの日は殺らねえって言ってるじゃねえか」
「…いつあなたの気が変わるとも、分かりませんから」
「それもそうだな、お前は頭が良い。かっはっは!」
何が可笑しいのか、大笑いしながら信乃は再び歩き出した。
「…本来なら。お前のような餓鬼に付き纏われた所で、わざわざ事情を説明してやるなんてこと、俺はしない。面倒だからな」
足を止めないまま、信乃は言葉を続ける。
「だが、この俺を鬼扱いすることだけは我慢ならねえ! だからお前にそれだけは必ず撤回してもらうぞ」
その言葉からは単なる怒りとは別に、鬼に対する憎しみが込められていた。
鈴鹿に真実とやらを教えるのは、親切心ではない。
あくまで、自身が鬼と間違えられるのが不快だから。
それに尽きる。
「………」
鈴鹿は無言で信乃の背を見つめる。
それだけ鬼扱いされることが嫌なら、鈴鹿を殺せば良いのではないか?
胡蝶を殺したように、鈴鹿を斬り殺すことくらい、容易いことだろう。
そうしない理由は何だろうか。
昨夜、胡蝶だけを殺し、鈴鹿を見逃した理由。
それが信乃の言う真実とやらだろうか。
「…ん?」
しばらく歩いていると、信乃の前に数人の男が現れた。
「よう、この辺では見ない顔だな」
「あんまり似ていないが、姉妹かい? 美人だねぇ」
どうやら、信乃の容姿に惹かれた単なる通行人のようだ。
完全に信乃を女だと思っているのか、ニヤニヤとした顔を隠そうともしない。
「良かったら、そこの店でお茶でも…」
「退け」
「へ?」
スッと信乃の細い腕が伸び、男の腕を掴む。
メキメキと嫌な音が響いた。
「いでででで!? お姉さん、力強ッ!?」
「お姉さんじゃねえよ、このクソ野郎共!」
ざわざわと信乃の身体から見えない力が発せられる。
すると、その細い腕からは信じられない怪力を発揮し、片手一本で男の身体が持ち上がった。
(コレは、妖力…?)
男達は気付かなかったようだが、梓巫女である鈴鹿はその力を感じ取っていた。
鬼や妖怪、邪悪な者が放つ気配のような物だ。
(どうして、人間から妖力が…)
怒りのままに男達を投げ飛ばす信乃を見ながら、鈴鹿は警戒を強めた。
「ここは…?」
信乃を追いかけた果てに辿り着いたのは、歴史を感じる屋敷だった。
古ぼけた外装は、人の気配が無く、そこに住む者がもう居ないことを告げている。
同時に、鈴鹿は何かこの建物から嫌な物を感じた。
人の気配がしないだけではない。
何か、先程信乃から感じた妖力に似た『穢れ』がこの屋敷から漂っている。
だからだろうか。
この不気味な屋敷は、町中に立っていると言うのに通行人は見ることすらしない。
「ついて来い」
「あ、あの入り口は閉まって…」
「ふん」
鈴鹿の制止など聞く耳持たず、信乃は刀で扉を切り裂いた。
誰も住んでいないのかも知れないが、傍から見ればただの空き巣だ。
「って、いつの間に刀を…?」
「最初から俺は腰に差していた。妖術を使って、見えなくしていただけだ」
「妖術…! では、やはりさっきのは妖力だったのですか」
「何を今更」
そう言ってズンズンと中へ進んでいくので、鈴鹿も慌てて追いかける。
「お前だって巫女なら妖術の一つや二つ使えるだろう」
「私の呪術を妖術と一緒にしないで下さい! 天罰が下りますよ!」
「ハッ。まあ、どちらでも構わん」
荒れ果てた屋敷内を壊しながら進む信乃。
外から見た時もそうだったが、中も酷い状態だ。
一体、人が住まなくなってどれだけの時間が立っているのだろう。
中は蜘蛛の巣と埃被った家具でいっぱいだ。
「うぇ…ゴホッゴホッ! 埃が喉に…」
涙目になって喉を抑える鈴鹿。
「何なんですか、もう! どうして、あなたはこんな廃墟に連れて来たんですか!」
「…この屋敷が、誰の物か知っているか?」
「知る訳ないじゃないですか!」
「胡蝶、と言う女だ」
「………え?」
ぴたりと憤慨していた鈴鹿の動きが止まった。
この屋敷が胡蝶の物?
昨夜、鈴鹿を招待しようとした胡蝶の家?
こんな、何十年も人が住んでいないような廃墟が?
「お前は勘違いをしている。俺は鬼ではない」
静かに、信乃は真実を告げた。
「鬼は、お前が友と呼んだ胡蝶の方だ」