第三十五話 温度
「…何とか撒いたようだな」
崩れかけた廃屋に身を潜め、信乃は呟いた。
天耳を使って意識を広げても、周囲に蛇の這いずる音は聞こえない。
見た目通りの速度しか持たないのか。
それとも、本気で信乃を追い詰めるつもりはなく、少しずつ嬲り殺す気なのか。
「肉体を蛇に変える能力、か」
酒吞童子とは違う意味で、厄介な能力だ。
無数の蛇を使役し、その一匹一匹を人間に寄生させて操れる。
歪んだ支配欲を持つ鬼童丸の性格を表した悪辣で陰湿な能力。
(本体を倒せば、寄生させた蛇も消えるんだろうが、肝心の本体が…)
首と心臓を壊したと言うのに、鬼童丸は平然としていた。
そんな鬼を、信乃は今まで見たことが無い。
「一体どうすれば本体を倒せるんだ…」
「…本体」
「ん? 何か言ったか、鈴鹿」
考え込むような顔で黙っていた鈴鹿が呟いた言葉に、信乃は眼を向ける。
「アレって、本当にあの鬼の本体だったのでしょうか?」
鈴鹿は困惑と疑心を浮かべて、そう告げた。
「どういう意味だ?」
「いえ、何と言うか、あの鬼は、前の酒吞童子とは違う気がして…」
そう言って鈴鹿は自身の目を片手で覆った。
言われてみれば、首を刎ねた酒吞童子が生きていることに最初に気付いたのも鈴鹿だった。
首を失った肉体が、まだ生きていると見抜いたのだ。
「『天眼』か」
今はもう失われた六明の一つ。
この世のあらゆる物を見通す千里眼であり、相手の前世まで見抜くと呼ばれる力だ。
その眼で、信乃には気付けなかった物を感じ取っていても不思議ではない。
「詳しく話してみろ」
「えと、ですね。説明が難しいんですが、あの酒吞童子は、刎ねられた首は確かに死んでいたのに、心臓だけは生きていたんです」
自分でも奇妙なことを言っていると自覚しながら、鈴鹿は恐る恐る自身の考えを口にする。
「まるで、心臓だけが別の生き物みたいに」
「別の、生き物…?」
信乃は訝し気な顔を浮かべる。
鈴鹿が嘘をついているとは思えないが、それはどういう意味だろうか。
酒吞童子と言う一つの生命の中に、別の生命が入り込んでいる。
仮に酒吞童子を殺したとしても、その内部に潜む命も殺さなければ再生される。
そういう意味だろうか。
「それで、ですね。さっきの鬼童丸は生命を感じなかったんです」
言葉を話して動いているのに、熱を感じない。
冷たい死体と同然だった。
「………」
死体を生きているように動かす。
それは先程、鬼童丸が綱の遺体を使ってやって見せた。
つまり、あの鬼童丸は偽物。
蛇を使ってそれらしい肉体を作っているだけ。
だからこそ、どれだけ攻撃しても無意味だった。
「なら、本体を見つけて殺せば、それであの偽物も止まるってことか」
「恐らく、そうだと思います…」
「よし」
ニッと信乃は不敵な笑みを浮かべた。
状況はまだ良いとは言えないが、絶望的でもない。
取り合えず、あの鬼童丸の不死性には仕掛けがあり、それを打ち破れば殺せることが分かった。
そうと分かれば、立ち止まる理由などなかった。
「それじゃあ、奴から身を隠しつつ、村を探って…」
言いかけて信乃は視線を廃屋の奥へ眼を向けた。
埃被った床を踏み締めながら、そこに置かれた木箱に近付く。
「信乃さん?」
「………」
何年前から使われていないのか、木が腐り、今にも崩れそうな箱だった。
それを掴み、信乃は躊躇なく開いた。
「キャッ…!」
その時、幼い少女の悲鳴が聞こえた。
木箱の中に小さな体を丸めて隠れていたのは、小柄で痩せた十歳くらいの少女。
「女の子?」
黒い髪をおかっぱ頭にした人形のような容姿の少女だ。
やや丈の合っていない赤い着物を振りながら、突然箱を開けた信乃に怯えていた。
「た、助けて…! 助けてぇ…!」
「…何か妙な声が聞こえると思ったら」
蛇でも隠れていると思ったのか、信乃は息を吐いて座り込む。
どうやら、この村の人間がここに隠れていたらしい。
この様子から察するに、鬼童丸に出会ったことも無いのだろう。
流石の鬼童丸も、こんな幼い子供は蛇を寄生させなくても危険ではないと判断したのか。
「これやるから、落ち着け」
「え…?」
涙目で震える少女にため息をつきながら、信乃は手の中に氷の人形を作り出す。
その光景に驚いたのか、少女の声が止まった。
「あ、それって前の…」
「ガキは玩具をやれば、大抵大人しくなるからな」
「へえ…」
(私も欲しい)
やや物欲しそうにそれを眺める鈴鹿を余所に、少女は不思議そうに氷の人形を受け取った。
今回はどこか少女に似た容姿に作られた人形だった。
氷の冷たさに驚きつつ、興味津々と言った容姿で何度も眺めている。
「やれやれ、また女か」
複雑そうな表情で、信乃は氷の人形を握る少女を見た。
「わ、私は、菘って言います。十歳です」
ようやく落ち着いた少女、菘は自己紹介した。
「私は鈴鹿。一字違いね? それとこっちは信乃さん。こう見えても男の人だから気をつけて」
「こう見えてもは余計だ」
身を屈めて目を合わせて喋る鈴鹿と、ぶっきらぼうに返す信乃。
そんな二人を興味深そうに見つめ、菘はふんわりとした笑みを浮かべた。
「村の外の人、ですよね? 初めて会いました。私、村から出たことが無いので」
「箱入り娘ってか。文字通り」
「信乃さん。その冗談面白くないよ」
「………」
別にウケ狙いでは無かったのだが、と信乃は口を閉じる。
「それでどうして、あんな箱の中に…?」
「…私、怖くて」
菘の小さな体が恐怖に震えた。
「外で声が聞こえたの。男の人の叫び声とか、悲鳴とか、それで怖くなって、ここに隠れていたの」
「お父さんやお母さんは?」
「…分からない。外が怖くて、出られなくて」
頭を抑えて震える菘。
何が起きているかは分からないまま、この少女は逃げ続けたのだろう。
たった一人で息を潜めて、この小さな箱の中で。
「………」
改めて見ると、菘は酷くやつれている。
あの鬼が村を支配してから、ずっと何も食べていないのではないか。
弱り、怯え、震える少女の体を鈴鹿は温かく抱き締めた。
「…ッ」
「大丈夫。大丈夫だからね。すぐに私達が悪い奴らを倒してあげるからね」
何度も小さな頭を撫でながら鈴鹿は言う。
菘は鈴鹿の胸に顔を埋めながら、静かに涙を流していた。
「………」
それを少し離れて見ながら、信乃は息を吐いた。
あまり感情移入をして、余計な荷物を増やすべきではない。
そんな考えも思い浮かんだが、何故か口にする気は起きなかった。
(…全く、これだから女ってやつは)
その温もりを、信乃自身も知っているから。
孤独な時に差し伸べられる手の温かさを、確かに覚えているから。
だから、どうしても、それを否定することは出来なかった。




