第二話 雨
「ふう。結局、降ってきちゃったな」
木の陰で雨宿りをしながら、鈴鹿はそう呟いた。
今日の仕事は終え、さあ宿に帰ろうと思った所にコレだ。
昨日と同じく、止む気配のない土砂降りの雨。
祈祷が長引いたせいか、既に日も落ち、辺りは暗くなっている。
非力な女の身である為、出来れば早く宿に戻りたい所だが。
「せめて、笠があれば…」
言いかけて、鈴鹿は昨夜のことを思い出す。
あの笠を被り、顔を隠した殺人鬼。
雨と共に現れる怨霊のような男を思い浮かべ、顔を青褪める。
(…忘れろ。忘れろ、私。アレは幻だったんだから)
頭をぶんぶん降って、恐怖を消そうとする鈴鹿。
そんな殺人鬼など、どこにも居なかったのだ。
都ならともかく、こんな平凡で平和な田舎町にそんな者が出る筈がない。
「!」
その時、昨日の光景を忘れようと目を閉じる鈴鹿の耳に、足音が聞こえた。
慌てて目を開き、恐怖に濡れた顔で音のする方を見る。
「ッ」
そこにいたのは、笠で顔を隠し、派手な着物を着た者。
思わず、鈴鹿の肩が震え、足が竦む。
「あれ? こんな所で奇遇だねー、鈴鹿」
悲鳴を上げそうになったその瞬間、その女は首を傾げた。
仕事帰りなのか、遊女のような派手な恰好をした女。
恰好とは裏腹に人懐っこい子供のような笑みを浮かべたその女は、例の殺人鬼ではなく、胡蝶だった。
「…何だ。胡蝶でしたか」
「む。何だとは何よー。失礼しちゃうわねー」
買ったばかりなのか、真新しい傘を揺らしながら、胡蝶は不満そうに言う。
「それより、もう仕事は終わったのー?」
「はい。ですが、この雨で帰ることが出来なくて…」
「そうなの。だったら、ウチに寄ってく?」
「胡蝶の家、ですか?」
キョトンとした顔で鈴鹿は言葉を繰り返した。
何だかんだと胡蝶との付き合いもそれなりだが、そう言えば胡蝶の家には行ったことが無かった。
と言うのも、あまり胡蝶が家に人を招きたがらなかった為だ。
曰く、ボロボロで恥ずかしいとか。散らかっているから見せたくないとか。
「うん。雨が止むまでウチに居ればいいよ。何だったら泊まっていっても良いし」
「…何もしませんよね?」
「や、やだなー。何もしないよー。本当だよー」
少しだけ貞操の危機を感じた鈴鹿は忠告するが、胡蝶は目を逸らした。
いつも通りのやり取りに、鈴鹿はため息と共に安堵の息も吐く。
正直、ここで一人で居るのも不安だったのだ。
「分かりました。お世話になります」
「よし! それじゃ、笠は一つしか無いからお姉さんに抱き着いて…」
嬉しそうに笑う胡蝶がそう言いかけた時、再び足音が聞こえた。
草履で地面を擦るような音だ。
暗く、冷たい、雨の中から聞こえた。
「………あ」
思わず、鈴鹿の口から声が漏れた。
今度は勘違いではなかった。
激しい雨の中から現れたのは、女と見紛う美貌の男。
胡蝶の物より上等に見える牡丹柄の着物と笠。
男には長めの髪を後頭部で一つに纏めて垂らしている。
「あの、人は…」
雨が、男を避けていく。
笠も着物も、少しも濡れていない。
男の居る場所だけぽっかりと雨雲に穴が空いてしまったかのように、雨水が男を避けている。
「今日は良い天気だ。そうは思わないか?」
男はそこで初めて口を開いた。
その手にした藍色の刀が光る。
雨に濡れていない筈なのに、刀身が発露し、霧を纏っている不気味な刀だ。
「…鈴鹿! 逃げるよ!」
「胡蝶…」
刀を見て血相を変えた胡蝶が鈴鹿の手を引く。
焦っているのか加減を忘れた強い力に、鈴鹿は顔を顰める。
「鈴鹿、胡蝶ね。今回の獲物は、女か」
背を向けて走り出す二人を追いかけることもせず、男は一人呟く。
「…気が進まないな。俺は女が嫌いだ。力は弱く、情に脆い」
「ッ…」
胡蝶に手を引かれながら、鈴鹿は後ろを振り返る。
男との距離は段々と離れているが、少しも逃げられる気がしなかった。
まるで、背中に張り付いているかのように男の気配が消えない。
その声、その殺気から逃れられない。
「…え?」
フッと男の姿が消えた。
雨の中に溶け込むように、跡形もなく。
一体どこへ消えたのか。
そう考え、それを伝えようと前を向いた時、何か熱い物が顔に触れた。
「…何、コレ」
雨で流れ落ちていく、赤い液体。
前を走っていた筈の胡蝶が倒れていた。
地面に横たわるその身体からは、赤い血が零れ、冷たい地面に流れる。
「………」
胡蝶が、血塗れで倒れている。
なら、この手に握っている物は…
「あ、ああ…」
それは胡蝶の腕だった。
斬り落とされ、血に濡れた胡蝶の右腕だった。
「先に喉を斬って正解だったな。女の悲鳴は、煩わしい」
鈴鹿の前に、あの男が立っていた。
どうして、後ろにいた筈の男が目の前にいるのか。
どうして、ほんの数秒で胡蝶を斬り殺すことが出来たのか。
疑問は尽きないが、これだけは分かる。
ここで、鈴鹿も殺されるのだ。
「お前もせいぜい静かに死んでくれよ」
人を斬ったと言うのに、一滴も血で汚れていない刀を握り、男は鈴鹿を見た。
笠の中から覗く男の目は、殺気と共に愉悦を宿していた。
「……………あん?」
刀が振り上げられ、今まさに鈴鹿の首を絶とうとした時、男は顔を歪めた。
鈴鹿の顔をよく見て、何かに気付いたかのように舌打ちをする。
「お前は、違うな」
「…?」
一人納得したように男は刀を収める。
違う、とはどう言う意味なのか。
「そこで何をしている!」
そう尋ねようとした時、大きな声が聞こえた。
誰か往来の者達が異変に気付いたのか、多くの足音が近付いてくる。
「チッ」
最後に一つ舌打ちをして、男はまた雨に溶けるように消えていった。
残ったのは、血塗れの死体と、鈴鹿だけだった。