第十五話 覚悟
「我が刃、躱せるか! 『唐紅』」
見えざる刃が信乃へと放たれる。
ヒュルル…と風を切り裂きながら迫る刃を前に、信乃は愛刀を振るった。
「『五月雨』」
刀から放たれたのは水の塊だ。
大して殺傷力もない、量が多いだけの水。
意図の分からない行動に、蝦夷は眉をひそめる。
「…そこか!」
何かが水に触れた音を信乃は聞き逃さなかった。
水が付着して信乃の眼にも見えるようになった刃と、信乃の村雨が衝突する。
バチッと虚空で火花が散った。
「アレは…」
「チッ、『暗刃の術』が解けたか」
鈴鹿の声に、蝦夷は忌々し気に舌打ちをした。
信乃の水で浮かび上がったのは異様に長く、薄く、柔らかい刀身を持った妖刀だった。
薄く伸ばした鉄を無理やり刀に鍛え上げたような形状の妖刀だ。
「面白いだろう? 鞭のようにしなり、変幻自在に敵へ襲い掛かる怪刀。かつて大妖『土蜘蛛』を斬り、その妖力を得たと言われる、妖刀『蜘蛛切』だ!」
ブンッと蝦夷が握った柄を振るうと、空中を漂っていた刃は再び姿を消した。
(刀身を、消した? 信乃さんも使っていた認識阻害の術で…)
暗刃の術は、本来なら注目を避ける為、帯刀を隠す理由で使われる術だ。
その応用。
ただでさえ軌道が読み辛い蜘蛛切の刃を妖術で透明化することで、更に複雑化しているのだ。
風を切る音で攻撃が放たれたことは分かるかも知れないが、それが正面から来るとは限らない。
上か。下か。或いは、真後ろと言う可能性もある。
「ならば先手必勝、か!」
後手に回ると不利と判断したのか、信乃は地面を蹴る。
それは走る、と言うよりは跳ぶ、と称した方が的確。
神足。神の足と言う名を持つ高速移動術だ。
「ハッ、神足が使えるのはアンタだけじゃねえぜ!」
「!」
それに合わせて、蝦夷も神足を発動させる。
信乃の不意を突くように、一気に距離を詰めた。
間合いの優位を自ら捨てるような行動に信乃の動きが一瞬止まる。
「隙ありだ! 『唐紅』」
その好機を逃さず、蝦夷は刀を振るった。
限界まで伸ばした刃を使って、敵の首を刎ねる殺傷力の高い技。
蝦夷の最も得意とする技だ。
「この距離なら外さねえぞ! 死ね!」
見えざる刃が信乃の首を刎ねる。
驚いたような表情のまま、信乃の首が地面を転がった。
「…何?」
しかし、次の瞬間、信乃の遺体は霧のように消滅した。
コレは残像…
否、妖刀の能力を使った幻影だ。
水と光を操って作った蜃気楼のような物。
「『時雨』」
囁くような声と共に、蝦夷の背に刃が突き付けられる。
「いつのまに、背後に…」
「俺の神足とお前如きの神足が同じだと思うな。俺の足は、直毘衆最速だぜ?」
冷ややかな笑みを浮かべながら、信乃は言う。
「俺が使うのは神の足より更に上。既に『縮地』と呼ばれる域に到達している」
「…『縮地』か。そう言えば、アンタの得意技だったな。忘れてたぜ」
背に触れる刃を感じつつも、蝦夷は余裕を崩さない。
そのことに信乃は訝し気な表情を浮かべた。
「だがな、アンタも忘れているぜー。アンタに得意分野あるように、俺にも得意分野ってやつがあるんだよー!」
ぴくっと蝦夷の右肩が僅かに動く。
「絡めとれ『退紅』」
「ッ!」
その時、信乃は右足に鋭い痛みを感じた。
斬られた、と理解した時には右足から流れた血が地面を汚していた。
「信乃さん!」
「くははは!」
鈴鹿の悲鳴に前を向くと、振り返った蝦夷が腕を振り上げていた。
信乃の血を吸った赤い刃が、今度は信乃の首を狙う。
「くっ…!」
「辛うじて受け止めたか! ほらほら! 次も行くぞ!」
何とか刀で受けた信乃へ次々と斬撃が放たれる。
足に浅くない怪我を負った信乃は、先程のように走ることが出来ない。
「くはは! どうして、俺がアンタの動きを予測できたか分かるか? 分かるよなー!」
「心を、読んだのか…」
「正解! 直毘衆の秘術『他心』………この眼は、あらゆる秘密を曝け出す!」
天耳、神足に並ぶ三つ目の秘術。
他人の心を見透かす術だ。
本来なら相手の表面上の感情を読み取り、次の行動を予測するのが精々だが、蝦夷はその達人だ。
その眼で見つめるだけで、他人の心、思考、記憶に至るまで掌握できる。
騙し討ちも不意打ちも不可能。
幻影を使って背後に回り込むと言う信乃の作戦も、全て見透かした上で罠を張ったのだ。
信乃の最大の武器である足を潰す為に。
「………」
「どうしたどうしたー! 顔が青褪めているぞ! 流石のアンタもビビッてんのかー! くはは!」
受け損ねた刃が信乃の左肩を切り裂く。
返り血で赤く染まった刃を見て、信乃の口元が歪んだ。
「…は」
追い詰められていることを自覚し、信乃の口から声が漏れる。
「ははははははは! 全く、俺としたことが何てざまだ!」
それは恐れでも怒りでもなく、笑みだった。
「人間相手だから気分が乗らない、なんて思っていれば、うっかり殺されそうじゃねえか! かはははは! 笑えねえ!」
「…何、笑ってやがる。分かってんのか、この状況! もっと怯えろ! 命乞いでもしてみろよ!」
思い通りにならない信乃に苛立ちながら蝦夷は叫ぶ。
この状況で何故笑うのか。
何故顔に焦りを浮かべないのか。
何よりも腹が立つのは、これだけやっても信乃の心が一切揺らいでいないことだ。
これだけやっても、蝦夷に少しも恐怖を感じていない。
「人間を殺すと頼光の奴がうるさそうだからなぁ…」
ヒュッと信乃の姿が蝦夷の前から消えた。
(怪我した足で、まだ…!)
「でも、手加減できそうにねえわ。頑張って生き残れよ…『霧雨』」
どこからともなく発生した霧が周囲を包み込む。
ゆらり、とその中で動く影があった。
「そこか! 『唐紅』」
すかさず放たれた刃が、その影を切り裂く。
バラバラになった影は、空気に溶けるように消えていった。
「また偽物か! 本体は…」
「『天泣』」
霧の中から、真っ直ぐ蝦夷へ奔る影。
神速、とはまさにこの事だろう。
人の心が読める蝦夷だからこそ、その前兆に気付くことが出来た。
「ッ!」
ゾクっと蝦夷の背中に悪寒が走る。
その直感に従って僅かに首を屈める蝦夷。
「チッ」
瞬間、先程まで蝦夷の首があった場所を鋭い突きが通過した。
刃を掠めた蝦夷の髪が数本、雨のように散る。
『右足』
驚いている余裕はなかった。
蝦夷が信乃の思考を読み取ると同時に、刀が向きを変えて地面へ突き立てられる。
それは蝦夷の足を貫通し、地面へと縫い止めた。
「ぐ、ああああああああ!」
ずぶり、と切先が突き刺さった右足からドクドクと血が流れる。
意趣返しのように足を潰された蝦夷は絶叫した。
『左肩』
「…ぐうっ!」
『右脇腹』
畳み掛けるように次々と刀を振るう信乃。
さっきまでとは立場が逆転した。
信乃の猛攻の前に、蝦夷は防戦一方だった。
(…こいつ!)
蝦夷の顔が屈辱に歪む。
思考は読めている。
蝦夷は信乃の次の行動が手に取るように分かっている。
しかし、反応出来ない。
攻撃が速すぎて、対応することが出来ないのだ。
「お、おおおおおおおおおお!」
獣のように吠え、蝦夷は無事だった左足で蹴りを放つことで強引に距離を取った。
「はぁ…はぁ…はぁ…!」
蝦夷は荒い息を吐きながら、信乃を睨む。
受けた傷の数は殆ど変わらない筈だが、追い詰められているのは確実に蝦夷の方だった。
「…人を斬るな、とは言わんよ。俺達はひとでなしだ。そう言うこともあるだろう」
信乃は蝦夷とは対照的に涼しい表情を浮かべて言う。
「だが、覚悟が足りない。斬る覚悟はあっても、斬られる覚悟が。殺す覚悟はあっても、殺される覚悟が。お前には決定的に足りない」
それが二人の違いだった。
ただ弱者を痛めつける為だけに刃を振るい、鬼切ですらその延長線上に過ぎない蝦夷。
復讐の為に刃を磨き、鬼を殺すことに命を懸けている信乃。
蝦夷がしているのは子供の遊びだ。
戯れに虫の足を捥ぐ子供と何も変わらない。
自分が傷つくことなど、欠片も考えていない悪餓鬼だ。
「最後だ。大人しく刀を捨てるなら良し。捨てないなら………ここで俺に殺されろ」
「…ッ」
冷ややかな殺気を浴びせられ、蝦夷の背筋が凍り付く。
刀を握る手が僅かに震え、無意識の内に足が後退った。
だが、
(…ふざけるな)
同時に、蝦夷の脳裏を憤怒が焼き尽くす。
信乃の眼は、出来の悪い餓鬼を見るような冷ややかな物だ。
心を読むまでもない。
彼にとって、蝦夷は敵ですら無いのだろう。
それが、どうしようもなく癇に障った。
「ふざけるな、ふざけるなよ! 何だその眼は! 俺を見下してるんじゃねえ!」
怒り狂う蝦夷は、今まで片手で振るっていた妖刀を両手で握った。
「コイツをくらっても、そのスカした顔のままでいられるか!」
初めて見る構え。
恐らくは蝦夷の最大の技だろう、と信乃も構えを取る。
「秘剣『紅蓮血河』」