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海の見えるこの町で、夏樹との出会い(8)

「黒、こっちに」


 私は初仕事の為に、相棒である黒を呼び寄せました。


「うん。分かってるよぉ。僕が君の案内人になろう。合言葉は決めたのかい?」


 心の門を開くためには、相棒である猫神の他に、その契約したマスター専用の合言葉が必要だと聞かされていたけれど、なんだか恥ずかしくて決められなかったことを思い出しました。

 けれど、今は自然とそれが浮かんできて。


「うん。大丈夫。始めてくれる?」


 黒は猫の姿でも分かるくらい微笑んで。


「分かった。それじゃ~、始めるねっ」


 そう言った黒の足下から光が走り、空間を染め上げていく。

 光は徐々に時間を喰んで、ゆっくり、ゆっくりと世界が灰色に変わっていった。


「さぁ、準備は出来たよ。これでこの空間を認識できるのは、僕とヒナ、君だけだ」


 私は、灰色の世界で静かに、力強く、この手よ届けと祈りを込めて言葉を紡いだ。



「『開け、心の門。私の呼びかけに応えよ。暖かき記憶をこの手に』」



 視界が白く灼けて、浮遊感を感じた。

 足が地面から離れて、段々と、高く、高く。

 すると、どぷん。と水の中に入った。

 驚いて口を開けると、苦しくはないけれど、どこかしょっぱかった。


(今いるのは涙の海だよ。ここを通って記憶の原野ってところに行くんだ。そこが僕たちの目指す場所。マスターと、僕たち猫神だけに許された心の聖域さ。あぁ、それと僕とヒナは繋がってるから、頭で伝えたいと思えばこうやって会話ができるよ)


(ん。こう、かな?)


(うんうん。それで大丈夫)


 私は頷きながら、涙の海を泳いだ。

 上へ上へ。

 そのしょっぱさや、水圧に押しつぶされないように一生懸命に。


(さぁ、涙の海を抜けるよ)


 そう黒が言ったと同時、水面に顔が出た。

 先程まで感じていた水圧も感じず、服も、髪も濡れてはいなかった。


「ここが、記憶の原野……」


 そこは広大な宇宙のような空間に、無数のひし形の結晶が浮かんでいた。結晶はどれも、透明で、同じような形をしている。


「さぁ、ヒナ。貴女の眼を使って」


「う、うん」


 私は黒に促されるままに、眼に意識を集中した。

 ガチャリ、と重たい鍵が開くような、心が流れる経路が切り替わるような音がした。

 眼を開くと、先程まで透明だった結晶たちは、色とりどりに染まっていて。


「凄く大きいパレットみたい……」


「パレットかぁ、言い得て妙かもねぇ。ヒナはここからたった一つの絵の具を選んで、汚れてしまったキャンパスを塗り直さないとね?」


 こくり、とうなずくと私はその原野を踏みしめた。


「良いかい? 記憶の原野は奥に行くほど古い記憶が残ってるんだ。本人が思い出せなくたって、ここには全てが残ってる。だから、ヒナはその全てからその人に今必要だと思う記憶を掬い上げなくちゃいけないんだ。できるかい?」


「ううん。できるかどうかじゃないよ。黒。やらないと、いけないんだ」


「ふふっ。そうかい。あぁ、やっぱり君は……」


「?」


「いいや、なんでもないよ。さぁ、行こうか」


 私達はそんなやりとりをすると、結晶を探して、奥へと進んでいった。

 入り口の近くは暖かい色も冷たい色もないまぜになっていたけれど、少し進むと冷たい色しかなくなっていった。

 きっと、ここは彼が茨の道を傷まみれになりながら進んだ頃だろう。

 結晶から微かに漏れ出す音が、それを物語っていた。


『俺は、独りでも歩かなくちゃならない』


『誰にも頼れない』


『なんで、なんでどいつもこいつもそんなに簡単に諦めちまうんだ!』


『俺は……。誰かを幸せになんて、笑顔になんて出来ない人間だった』


「そんな事ないっ!! そんなこと……、ないよ。きっとあるはずなんだ、誰かを笑顔にしたいと思ったきっかけがっ」


 私は溢れる涙を乱暴に拭って、前へと進んでいく。彼の茨の道をその根本まで前へ、前へ。


 そしてそれは不意に現れた。

 暖かく、夏の陽射しのようなひまわりを連想させる鮮やかな黄色。

 漏れ出す声は、温もりに満ちていて、これがきっと、彼の根底。


『母さん! 俺プリン作ったんだ! 母さん好きでしょ? へへ、父さんに教えてもらいながら作ったんだぜ!』


『うん。ありがとう。遥。あぁ、甘い。それに柔らかくて。美味しい……』


『なぁなぁ、元気出た? これで母さんの病気も治るかなぁ』


『そうだね。母さんも頑張るね。遥、よく聞いて? 遥の名前はね、大きな空を、海を遥か彼方まで越えても誰かを支えて、暖めてあげられるそう願ってつけたの』


 私は、その温もりに触れて心が締め付けられた。

 道中で見た記憶にその後の記憶もあったからだ。

 彼は、自分自身に押しつぶされそうになっている。この暖かく優しく、甘い記憶の鎖に囚われて、彼はその身を今も傷つけている。

 この時に感じた確かな想いを見失って、それでも尚進もうと……。


「黒。私、これにする」


「本当にこれでいいのかい?」


「うん。多分彼には……、ううん。遥にはこれが一番必要な記憶だから」


「そっか。それじゃ結晶に触れて、自分の中を通して欠片を手のひらに精製するイメージをしてみて?」


「欠片……。なんか抽象的でわかんないなぁ……」


「こればっかりはね、ヒナ貴女の思うようにするしかないんだ。それがそのマスターの特色になるから」


「私の、特色。うん。やってみる」


 私は結晶に手のひらを柔らかく押し当てて、眼を閉じる。

 この作業に眼はいらない。どんな感情かなんて先入観を抜きにして、触れて、寄り添って、感じるんだ。

 遥の記憶の海を深くまで潜って行く感覚。息継ぎも出来ないような感情のうねりに、それでも不快感はなく、ただ甘やかで、暖かい。

 その全てを、私の中へと注いでいく。私の想いと、遥の想い出を混ぜ合わせて今の遥を救ってあげられるようにとただ願いながら。


 どれくらいの時間そうしていたかは分からない。

 静かに眼を開くと、私の手のひらには暖かな橙色の欠片が乗っていた。


「……。黒、これでいいの?」


「うん。大丈夫だよ。やっぱり、ヒナは誰かに寄り添うやり方を選ぶんだね」


「どういうこと?」


「きっと、この仕事を続けていけばいつかは分かると思うよぉ。さぁ帰ろうか」


「? うん」


 私が頷くと、扉を開く時に見た光がまた黒の足下から広がって、僅かな浮遊感の後眼を開くと、私はお店のカウンターの内側にいた。


「さぁ、ヒナ。ヒナが出したいものにその欠片を溶かしてみて」


「うん」


 私は茶葉を選ぶと、カップを暖めてから紅茶を注ぐ。

 ほんのりと果実の香りがするフレーバーティーがその優しさを空間に広げた。


「これを、入れるんだよね」


 さっき記憶の原野で精製した欠片をカップの中に落として、ゆっくりとかき混ぜると、すぐに欠片は紅茶の中に溶け込んでいった。



「お待たせしました。一杯の幸せを、貴方に」


「お、おう。いただきます。急に何だよ……」


 なんだか最後にぼそりと余計な言葉が聞こえた気がしたけれど、私はそれを聞かなかったことにして、彼が紅茶を飲むのを見守った。


 一口飲むと、彼は驚いてカップから口を離し、こちらとカップの間で視線を泳がせてから、二口、三口と紅茶を飲んだ。

 その度に彼の眉間の皺が解れていくようで、それがくすぐったかった。


「思い出した……。そうか、俺は……」


「美味しかったですか?」


「あぁ、美味かった」


「夏樹さんは、これからどうしたい?」


「俺はやるべきことがある。それを思い出した。だから、もう一度歩こうと思う」


「そうですか、それは良かったじゃあ……」


「そう、歩ける気がするんだ。ここで、あんたとなら」


「お代はけっこ……ふぇっ!?」


 あまりに唐突な告白に動揺して私はずっと暖めていた決め台詞を言わせて貰えなかった。


「いやいやいや、何を言ってるんですか急に私は別にそういう感情で夏樹さんに接していたわけじゃないんですけど!」


 慌てて早口でそういうと、怪訝そうな顔をした彼の顔がみるみる紅茶のように赤くなっていって。


「ばっ! おまっ! ち、ちげぇよ! あんたの店でなら俺は俺の目標を見失わない気がするからってことで別にお前のことが好きなわけじゃねぇよ!」


「わ、分かってます分かってます! 振られたら辛いですもんね! あぁ、どうしようもう一杯淹れないとなのかなっ」


「はいはい、二人共落ち着きなよぉ」


「落ち着いてるもん!」


 思わず声がした方に振り向くと、黒が人の姿で立っていた。

 くすくすと笑いなら。


「まぁ、うちで働くにしてもまずは葛城の大将に話さないとでしょう?」


「はっ! そうだ大将になんて言えば……。いや、決めたことだ。もう、俺は自分に嘘はつかない。悪い、ちょっと行ってくる!」


 そう言った彼は席を立つとお代を置いて走り去ってしまいました。


「あっ、ちょっと! 遥くん! ……お代は結構ですって言おうと思ったのにぃ」


「まぁまぁ。あの子もそういうお年頃なんだよぉ」


 伸ばした右手が虚しく空を切って、けれど、初めて私のお客さんになってくれた人がこうやって何かを残してくれるのが嬉しかった。



「なーんてこともあったねぇ」


 閉店した私のお店『スミレ』の中では皆で晩ごはんを食べながらそんな思い出話に花が咲いていました。


「~~っ!」


「あらあら、遥くん? どうしたのかなぁ? 顔が真っ赤だぞ~?」


 私は遥をからかいながら食後の紅茶を楽しむ。


「うっせ! うっせ!」


「「主がいじめっ子だ……」」


「あはは。あれはヒナの愛情表現なのさぁ~。それに、そのお代だって結局後で返してたもんね~。散々遥がごねたけど、一緒に戻ってきた大将がその分働いて返せって言ってさ~」


「あぁ。ふふっ。あの時の遥の顔ったら見ものでしたね」


「っ! お前らもう明日の朝飯作ってやんねーからな!!」


「「「えぇ~!!」」」


「あぁ、黒さんのは別です。黒さんには常に俺の最高の品を食べてもらいたい……」


「ふふん。僕も罪な女だねぇ」


「「「ズルい!」」」


 賑やかな夜は更けていき、今日も眠りにつく。

 明日も誰かの傷に寄り添って、暖められるように。

これで夏樹編はおしまいです。

まだまだ続くので作者を応援いただければと思います~。

誰かが笑顔に、心が暖まってくれていることを願って。

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